上杉謙信の突撃

「一直線に突っ込んで来ます!」


 謙信の突進を真っ先に確認したのは、内藤昌豊だった。


「早く高坂様に!」

「その必要もあるまい!」

 昌豊は自ら、謙信軍を抑えにかかった。

「ですが我々は…」

「信玄公が危ないのだ!」


 隠居を認めるように信玄公と呼び、謙信に正面衝突すべく兵を進める。


 無人の野を行くが如く馬を進める謙信のすさまじい速度に合わせるべく、全軍出せる限りの速度を出す。


 通い慣れたとは言え相変わらずな血生臭さに若干辟易しながら、内藤軍の兵士たちは走った。




 その結果。




「内藤昌豊か!」

「いかにも内藤修理である」




 昌豊の狙い通り、謙信軍との正面衝突に成功した。


 全速力同士の正面衝突と言う、どっちもぺしゃんこになっても驚かない展開で。


「そこをどけ!信玄の前に死にたいのか!」

「死ぬのはお前だけだ!」


 謙信自ら先鋒となり突撃して来る。


 昌豊軍もしっかと受け止め迎撃にかかる。



 正真正銘の、殴り合い。



「上様の仇!」

「やらせるか!」


 感情と大義をむき出しにした謙信軍、一方で冷静な内藤軍。

 極めてわかりやすい対比がそこにあった。


 こうなると冷静な方が優勢なのが世の常だが、謙信にそんな常識など通じない。



「上様の仇!」



 謙信は自らを一本の刃に変え、目の前の壁を薄紙のように切り裂きにかかる。

 精鋭のはずの内藤軍も一気に押される。死傷者こそ出ないが一歩二歩と後退を余儀なくされ、追い散らされそうになる。


「やはりさすがは上杉謙信!」


 だが昌豊もまた、謙信の強さを熟知していた。


「そこを通せ!」

「通さぬ!」


 謙信に対し兵たちが刃を振り、さらに後退せずに踏みとどまっていた兵が左右から包み込みにかかる。突進を受け止める防御力が低下するのを避けるために横撃をかける兵は三百少々だったが、それでもそこそこの攻撃力はあった。


 さらに。


「鉄砲だと!」


 銃声が鳴り響くと同時に、十数名の死者が生まれる。



 三十人ほどではあるが、内藤軍には鉄砲隊もいた。


 もちろん狙いは謙信であるが、それでも謙信軍の親衛隊を狙って放たれた鉛玉は次々と、謙信が手塩にかけて育てて来た人間たちを赤く染めて行く。

「そのような物でこの上杉を止められると思うな!」

 上杉軍も気合を入れ直して突き進むが、それでも予想外の場所からの犠牲は間違いなく打撃を与えていた。


 —————単純な話、後や横の人数が減ればそれだけ隙ができる。攻撃の隙間が生まれると言う訳だ。

「左右からの打撃が増しています!」

「ええいこの!内藤勢は疲れているはずだ!押せ!押せ!」

 謙信は叫びながら刃を振るが、守りはなかなか薄くならない。

 下がってはいるがなかなか穴が開かず、時間だけが経つ。

 謙信軍の犠牲者はその割に増えていないが、それでも内藤軍の攻撃に構う分だけ正面には攻撃できなくなる。



(意気地なしも戦術だと言うものだ…!)



 昌豊は謙信の強さを熟知していたからこそ遠慮なく後退し、受け止める事に専念している。

 倍と言う数をもって相手の突進力を奪い、その間に他の将に仕事をさせる。

 それが自分の役目。


 この場にいる主戦力は、信玄を除けば内藤、馬場、高坂の三人。

 どう考えても一番元気なのは甲信を守っていたばかりの高坂勢であり、内藤勢は信玄本隊や信勝軍ほど派手ではないと言え兼山城東でかなり戦って来た。

 偶然に近いとは言えこうして敵軍に当たれている所を見る限り、展開としては悪くない。ましてや勝手に疲労してくれていると思い込んでくれるのはなおさら好都合だった。



「出るぞ!」

「今だ!」

「守れ!」

 

 そこに反響する、複数の鬨の声。


 耳慣れたそれと、耳慣れないそれ。



 —————馬場信房と、高坂昌信。

 そして—————鬼小島弥太郎と柿崎景家。


 謙信を突進させるべく突っ込んで来た上杉軍とそれを阻止すべく前進した武田軍による戦い。

 四千ずつ、二人ずつによる合計一万六千の戦い。



「そこをどけ!」

「どかぬ!下がれ!」



 お互いの怒号が川中島に響き渡り、鳥は空へ逃げ魚は下流へと泳ぎ虫は地へと潜る。


 またある男には槍の打ち合いの音が鳴り響き、ある男には武器が体に刺さる音が支配者となり、また別の男には首が飛ぶ音が届く。

「畜生!」

 馬場軍の兵士が左肩から血を流しながら刀を振って柿崎軍の兵士の首を弾き飛ばし、その兵の三軒隣の家出身の三男坊の兵が馬場軍の兵士の喉を突く。

 高坂軍と鬼小島軍でも同じやり取りが行われ、その度に死人が増える。



「この調子だ!」


 にもかかわらず内藤昌豊の言葉には緊張感がない。互角の押し合いへし合いどころか押され気味だと言うのに、である。

 もちろん根拠はある。謙信は二千、柿崎と鬼小島は四千ずつで計一万。事前情報で一万五千しかいない事がわかっている上杉軍からしてみれば、一万と言う数はあまりにも重い。長引けば数が多い方が有利になる。もちろん兵站の問題はあるが、それについては信玄が既に面倒を見てくれているので問題はなかった。

(あのお方はこの年に勝負をおかけになっておられる……)

 

 浜松城への二度の出征及び岩村城攻略戦、兼山城東での戦い、さらにこの川中島。

 兵たちの疲労もさることながらこの時のために信玄は二年かけて内政に励み、武田軍を支える体制を作った。

 何かが変わったと言うか、さらに一回り大きくなったように感じる。

 あるいは本当に天下人となり、この国の人間すべてに向けて号令をかける…




「うおっと!」




 そんな甘い夢から昌豊を覚ましたのは、上杉謙信だった。


 姫鶴一文字の輝きが昌豊を現実世界に戻し、背筋を伸ばさせる。


「よくここまで来たな!」

「フン……内藤よ、上様を殺した逆臣に従う必要もあるまい。わしと共に毘沙門天に帰依し逆賊織田信長と羽柴秀吉を討て」


 いつの間にか防備を突破しかかっていた謙信の強さに呆れながら、昌豊は無言で首を横に振る。

 そして同時に、武器も振る。

「抵抗するのか」

「腹が減れば飯を食う」

「戯言を吐くな」

 信玄風にこじゃれた言葉でも吐いてみせるが、謙信には一向に通じる様子もない。

 謙信らしい平板な口調であしらわれ、次々に攻撃が飛んでくる。

 もちろん昌豊は歴戦の将だが、それでも今まで対峙した相手の中で一番だと言わせるほどには謙信の刃は鋭く、速く、そして重かった。


「謙信を討てば大手柄だぞ!」


 昌豊の危機に駆け付けるように兵たちも謙信を取り囲む。

「…………」

 欲望に支配された人間も忠義心に駆られた人間も一緒に七珍万宝を掴みにかかるが、その半数が無言のまま次の一瞬で死体に変わり、残る半数は馬から落ちるか得物を弾き飛ばされるかした。


 雑兵では相手にならないと言う事を示すかのような戦いぶりに謙信軍は勇気づけられ、昌豊は改めて覚悟を決める。


「孫子もあの世で泣いておろう」

「感涙しているのだろう」

「屁理屈をこねるな…!」



 そしてここに来て初めて、謙信が語気を強めた。


「わしはあの世でいずれ上様に問わねばならぬ……!その際に何と言われようが覚悟は付いておる!そのために恥ずかしくない生き方をせねばならぬ!」

「上様は天界で我らは地獄だろう」


 昌豊はあくまでも舌を回す。決して腕をおざなりにせず、その上で謙信の心を攻める。

 謙信が憤りの感情を刃に込め、次々と一撃を放って来る。


「舌で戦がぁ、できるものかぁ!!」


 まったくらしくなく叫ぶ謙信の一撃を、昌豊はただじっと受け止める。


 太刀筋は速くなり一撃はどんどん重くなるが、必死に受け止めた。



 しかし、ほんの十数発受け止めるだけで手がしびれ出して来た。


(チッ、意外に早く潮時が来たか……!)


 謙信を斬りに来たのではない、戦に勝ちに来たのだ。

 そう昌豊が思い返したのに気づくかのように、謙信の刃が飛ぶ。

「ええい!」

 必死に受け止めようとした昌豊だったが、攻撃が頬をかすりそうになる。逃げ時とかと思ったが、踵を返す時間もない。

「どうした!逃げる気か!」


「ああ…!」



 みっともなく、情けなく、いかにも命を惜しむような、雑兵じみた声。


 自分としては芝居のつもりだったが、本物だったかもしれない。


「内藤!」


 その声と共に謙信の刃がさらに迫る。

 信玄自身名族のわりに逃げる事をさほど恥とは思わない性分だったとは言え、昌豊は信玄ではない。

 いざ逃げようとしたがどうにも足が重く、後ずさりすらできない。兵たちは元から後退気味であった以上後ろは空いていたが、それでも攻撃を受け止めながら下がる事ができない。



「内藤様!」



 気が付くと昌豊の体は宙に舞い、地に転がっていた。


「ああ無事だ……」


 ほどなくして昌豊の顔が濡れ、数多の馬がすぐそばを駆け抜けて行く。


 文字通り唾棄された事に気づいた昌豊は謙信の唾を手で拭うと、うまく転がる事の出来ていた自分の強運に感謝した。

「お前たちは柿崎と鬼小島をやれ、わしも続く」

 昌豊はゆっくりと馬上に戻り、飛ばされた得物の代わりの薙刀を受け取った。







※※※※※※※※※







 妻女山—————十二年前に本陣を張っていた地。


 今は風林火山の将旗が並び、甲陽菱の軍幕が張られている。


「ついに来たか……信玄……」


 内藤軍を突っ切り、たどり着いた本陣。

 受け止めるなら受け止めよ。

 ふんぞり返っているならばそれでもよし。


 だが此度は千以上の兵を連れている。




 逃す理由など、ない。




「覚悟!!」


 ありったけの感情を込めて、天幕を斬り落とす。



「うわぁーっ!」

「早く、すぐにお逃げ下さいませ!」


 小姓や雑兵などが百名ほど叫びながら突っ込んで来る。敵ながら天晴とも思うが、今はそれより信玄の命だった。


 荷物を抱えて散らばるように走り回る人間たちを蹴散らし、本陣のさらに奥へと突っ込む。




 そして、高々と将旗の掲げられた天幕にたどり着いた。




「上様の仇!」


 姫鶴一文字が信玄の血を求め唸る。

 だが外から見ただけでは信玄がいるのかいないのかわからない。

 ならばとばかりに姫鶴一文字により天幕を叩き切るが、光が差し込んだ所で信玄はおろか人影すら見えない。

 逃げたのか。


「探せ!」


 謙信は勝手知ったる妻女山を駆け回り信玄の存在を求めるが、旗は数本あるが本人の姿がない。


 逃げたのか。

 そんな訳はない。







 …あるいは!







 そう謙信が思った瞬間、鼻孔にとんでもない存在が侵入して来た。







 続いては目に。







 そして最後に、耳に。




「火だー!」

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