上杉謙信の逡巡

「結局信玄めは言う事を聞きませんでしたな」

「フン……」


 川中島北西、茶臼山。



 かつて武田信玄が陣を構えた地に、此度は上杉謙信と景虎親子が陣を構えていた。



 一方で信玄はかつて謙信が陣を張っていた—————千曲川の向こうの山妻女山に陣を構えている。



「因果な話ですね、それで父上はこの茶臼山に」

「ああ。だが信玄はこの刀を軍配で受け止めた。見事な身のこなしだ」


 姫鶴一文字を抜き、青空に向ける。

 どこまでも美しく輝くその刀は、景虎の目線を一点にやっていた。


「だが今思えばあの時信玄を殺しておればと思わずにいられぬ」

「先々代様も…」

「その時はまだ織田信長もさほどの事はなかった。叩き潰すのは難しくなかっただろう。

 そなたの言う通り先々代様も横死せずに済んだかもしれぬ!」



 十二年前、信長はまだ桶狭間で今川義元を倒してから一年しか経っていなかった。

この時には美濃の斎藤義龍も健在であり、さらにその翌年義龍が亡くなったにもかかわらず信長は斎藤龍興と言う若年で暗愚な男が当主だったの美濃を五年間落とせなかった。

 さらに言えばその四年後—————今からしてみれば八年前に先々代こと第十三代室町幕府征夷大将軍・足利義輝が非業の死を遂げた。



 十二年前信玄は四十一歳で、後継者だった義信は二十四歳。さすがに出来上がっているとしても、この時義信と言う今川を見捨てなかった人間が武田の当主となっていれば信長の……とか言う論旨が繰り言以外の何でもないのはわかっているが、それでもこの数日謙信の頭に駆け巡っていた。

 ちなみにもう一回川中島で対陣した事もあったが、その時はまともな戦も起こらないままなんとなく終わってしまった。



「しかし征夷大将軍様が死んだのはまだわかります。されどそれが羽柴秀吉とか言う男によって」

「その事についてはいずれ信長や秀吉とやらに聴き正さねばならぬ。上様が何ゆえその身を投じたのか、そのいきさつを」

「万が一の話ではございますが」

「万が一だな」


 謙信以下上杉軍の人間はほぼ全員、足利義昭が織田信長ではなく羽柴秀吉に降伏したらしい事は知っている。

 だがどうしてそうなったのかについては、誰もまともに考えていない。


(それがもし真実だと言うのなら、秀吉とやらはかなり強く公方様を縛り付けていた事になる……!)


 そんな考えが最初に浮かぶのが謙信だった。

 槙島城に籠城した義昭が羽柴秀吉により食糧を奪われ負けを認めたとか言う話は幾度も届いていたが、それもまた「降伏せねば兵たちの食糧はない」とか脅されたとしか思えなかった。


 実際間違っていないと言えば間違っていないが、謙信の中では滂沱の如く涙を流し恐怖心にかられ断腸の決断をした事になっている。義昭が美濃まで出て来たのもまた、秀吉に親族の身柄などを抑えられていたゆえに泣く泣く出て来たのだと。



「景虎。父は必ずやこの戦勝つ。勝った上で、羽柴秀吉とか言う男が何をして来たのか、絶対に正さねばならない」

「父上……自ら出るのですね」

「ああ景虎、わし自ら先陣を切る。そして決着を付ける。あの妻女山へと」




 謙信は親衛隊とでも言うべき二千の兵を率い、風林火山の旗が立ち並ぶ妻女山をにらんだ。



 川中島方面に鬼小島弥太郎と柿崎景家を四千ずつで置き、遊軍として斎藤朝信をやはり四千でやや北の犀川付近に配置する。


 景虎には残り千の兵で本陣を守らせる。


「信玄は決して無理はしない。侵略する事火の如くと言っているが、それまでは林の如く静かな男だ。むしろ長引かせるだけ長引かせて兵の回復と増強を待つ。長期戦は向こうに利がある」

「しかし時間を与えたのは」

「わかっている。少しは期待していたのだ」


 現実は非情であると言わんばかりに、二万五千もの兵を連れ込んで来た。

 しかも山県・馬場・高坂と来ている。どう考えてもやる気ではないか。


(それならそれで良い……されどこの戦いの先に何を求める?)


 信玄はここ一、二年いやに精力的だ。遠江を攻めて家康を殺し、浜松城を焼いて遠江の大半を領国とし、美濃でも岩村城強襲から兼山城東の戦いで少なくない戦果を挙げている。

 自分と戦って来た時とはかなり桁が違う働きかもしれない。


「いずれにせよだ。あくまでも私利私欲のために動くのならば、信長と秀吉に先駆けて冥土へ旅立ってもらうまで」

「成功をお祈りいたしております」


 謙信は迷いを断ち切るように姫鶴一文字を鞘にしまった。

 景虎を含む兵士たちをも人払いし、目を閉じる。




(上様……ぜひお聞かせくだされ。どのようにしてあなたが死んだのかを)




 戦場にていつも不惑なるつもりでいた、不惑を二年前に過ぎた男。


 表向きには信玄の不正と蛮行をなじり、必死にその方向に思考をもって行こうとしていたが、内心では惑いっぱなしだった。


 信玄が義昭を殺したのは結果論ではないのか。

 もちろん景家の言うように捕らえれば良かったのかもしれないが、それこそ死力を振るってくる相手を捕らえるなど殺すより数段難しい。


 そして何よりの問題として、あるいは本当に義昭が秀吉に従っていたのかもしれないと言う思案が浮かんでくる。


 あの日、あの場所にいたのはもう間違いない。

 そして戦はずっと武田優勢だったのに、なぜ最後に出て来たのか。


 考えれば考えるだけ、切腹同然にしか思えない。ではその切腹に何の意味があるのか。


 進軍を止めるためか。

 いやすでに戦は終わりかけで武田軍は退いている所だった。だとするとそれこそ、死ぬために死にに行ったとしか思えない。ではなぜと言う訳で秀吉らにより脅されてとか考えていたが、だとしてもどうにも筋が通らないように思える。

 秀吉の支配下ならば、秀吉のために死ぬべきはずだ。だが仮に信長から要請を受けたとしてもなぜ信長のために死なねばならぬのか。そう反論してもおかしくなかった。



「……」


 謙信は一人きりで酒を飲む。




 謙信はこの数カ月、元から多かった酒の量がさらに増えていた。


 元から生涯不犯だった謙信に女の趣味はないし、信玄の温泉のような娯楽施設に類するそれもない。戦国武将らしく男児を愛でる趣味はあったが、そんな程度で欲望を律しきれないほどには謙信は人間だった。


 信玄が家康を殺し浜松城を焼いたのはいいとしても、足利義昭の降伏とその死、さらに言えば武田勝頼の事もある。

(本当に勝頼には殺されるだけの理由があったのか……!)


 謙信は勝頼を次代の当主と見ていただけでなく実直で勇猛果敢な男と評価しており、その死もまた義昭のそれには及ばないが衝撃的だった。


 武田内部では禁薬を使った故とされているが、景家は最初から死なせるためだけに先陣として配置したのではないかと疑っていた。確かに先鋒は名誉であるが、次期当主と言う存在ならばもう少し大事にとか考えてもおかしくはなかった。少なくとも信玄なら。


(あるいは勝頼が当主になれば手のひらを返したかもしれぬ……信玄の罪は信玄の罪であって勝頼の罪ではないのだからな…………)


 上杉謙信、武田勝頼、北条氏政による三国同盟。


 それでまとめて美濃か三河にでも押し寄せ、一気に織田を呑みたかった。憲政の事もあるので自ら言い出す気にはなれなかったが、氏康もいない今となってはその計画ですらやぶさかではなかった事を武田の人間が知っていたらどうなったか。



 そんな事ばかりが頭に浮かび、信玄への怒りと酒で謙信は必死に不安を打ち消し強い自分を作っていた。

「信玄……」


 自分に必死に宿敵の名を言い聞かせ、最後の一杯を徳利ごとあおる。


 空っぽになった器をゆっくりと地に置き、しらふの足取りで馬上の人となる。


 軍神の目をして、二千の兵の下へ向かう。



 そして馬を降り、兵たちの前に立った。


「皆の者、よくぞ集ってくれた。この謙信、そなたらの忠義と正義に感謝する。

 この上杉謙信、幾たびとなく戦って来た。されどこの戦いは今までのどれよりも勝たねばならぬ。

 この国をずっと支えて来た足利将軍家様が、武田信玄により討たれた。かの者を討たねばこの国から秩序は消え去る。

 なんとしても武田信玄を討ち、上様の無念を晴らさねばならぬ!」


 語気を強める。強めねばならぬと感じたから。



 もう迷いなどない。



 すべては信玄を討ってから。




「行くぞ!」




 ここに、第六次川中島の戦いは始まった。

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