秋葉街道の戦い

「どうなさったのです」

「ああ、夢を見ていただけだ」


 家康はゆっくりと体を起こし、冴えた目で北方を見やる。


 先ほどとは打って変わって晴れやかな顔をした主君に、早川殿もまた安堵した。



「それは大変よろしゅうございました」

「ありがたい事だ。それで一刻も早く今川殿の下へ向かわれよ」

「それは……」

「ここはこれより戦場になる。夫のところへ行きなされ」


 丁重な言葉で家康は早川殿を送り出した。


 ちなみにこの時氏真は信康と同じく岡崎城におり、ほどなくして尾張に入る予定らしい。その後はどうやら織田領を経て京へと入り、そこで名族らしく生きるのだろう。


(戦とは別の世界でならば、と言うのはないものねだりだろうな)


 それでもどうにか、戦とは別の世界に行ってもらいたい。


 そのためにも、氏真や早川殿だけでなく他の人間たちも、そうせねばならない。







「出るのですか!」

「ああ、そのつもりで行く」


 やがて午睡から覚めた家康は忠次に向かってそう言い放った。

 目つきからしてまったく先ほどとは違う快活な好青年であり、いら立ちや不安などは微塵もない。


「しかし出兵と申しましても」

「おそらく信玄はこの家康を狙ってくる。なればこちらから出て行く」

「そのような!」

「信玄は二俣城他で暴虐の限りを尽くしている。しかも意図的に。これを放置すれば徳川の名は汚れる」

「とは言え……!」

 酒井忠次や石川数正などはこのすっかり乗り気になってしまった主君をいさめようとするが、それでも家康の気合は落ちない。


「武田が二俣城で暴虐を働いた証左はございませぬ!それに仮にあったとして当地の住民の感情が徳川から離れるものとは」

「知らぬわけでもあるまい、信玄がかつて何をやらかしたか」

「存じておりますが、信玄はそれを策略で出来る男です!」

 父親の武田信虎を放逐したのは家臣の後押しありきだとしても、敵の援軍の首を全員並べて籠城軍の心胆をぶち壊すのは非道であっても策としては悪くなかった。結果それにより城は陥落し、領国を広げられたのだから。


「二俣城は元より落ちるしかなかったのです!故に今から出て行ったとしても!」



 そんな風に君主を必死になっていさめようとしていた忠次の下に、また別の使者が来た。

「ご注進!」

 今度は先ほどよりも青い顔をし、その割に身なりは崩れていない。


「何用だ!」

「それが、その……!」

「早く申せ!」

「武田より、この書状が……!」

 青い手で書状を取り出し、震えながら忠次に見せる。

「それで、その、贈答品が……!」


 そこまで言った所で男はそっぽを向いて走り庭に口から液体を吐き出し、そのまま倒れ伏した。



「な……!」



 そしてその男のそばに転がっていた大きなずだ袋の乗った荷車のてっぺんから、一人の男の顔が覗いていた。

 そう、他ならぬ中根正照の。


 そして石川数正があわてて正照の首を持ち上げるとずだ袋が崩れ、中からまた別の物が落ちて来た。


「ああ、こんな、こんな……!」




 正照だけではない。侍だけでもない。

 子どももいる。老人もいる。

 女もいる。正照の妻らしき女もいる。下女らしき女もいる。


 別に口だけのつもりもなかった。知識だけのつもりもなかった。


 だが天台座主のくせにここまで神も仏も恐れぬ真似をされると、数正も忠次も背筋が寒くなり、使者と同じように嘔吐する者まで出た。




「丁重に葬れ。そしてすぐに仇討に向かうのだ」




 それでも、家康は平然としていた。


 —————正夢だった。


 そんな一言で片づけられるようなお話でもないが、無念に満ちていたはずの二俣城の人間たちの目が、この時家康には力となっていた。

「殿……」

「皆の者、中根らの無念を晴らすのだ!」

 年長の二人をも圧倒する声量で叫ぶ主君を止める事など、もう誰もできなかった。







 大量の生首の到着から半刻もしない内に、徳川軍一万は浜松城を出た。


 家康自らが先鋒を勤めそうになるのを強引に押しのけて先鋒になった酒井忠次は全神経をとがらせて武田軍の存在を探し求める。

「敵は二俣城を出てどれぐらい進んでいるのでしょうか」

「浜松城まで普通の行軍速度で四刻(八時間)程度だな」

「わしはどの程度寝ていた?」

「四半刻(三十分)程度かと」


 ずだ袋と荷車を運んできたのは武田の早馬であり、一刻半(三時間)程度で来ている。

 二俣城からの中根の使者は運ぶ物がないため一刻で来ていたが、武田の使者が一刻半で来ていたとするとそれこそその半刻の間に武田軍は二俣城を完全に陥落させた事になる。


「どうも奇妙なのです」

「何がだ」

「武田が徳川を攻めるのは何もこの遠江からだけではございません。奥三河より進み、西から浜松を狙う道もございます」

「そうだが、その方向からの攻撃がないのか」


 そして忠次には、また別の違和感もあった。

 武田と徳川の国境は、駿河と遠江だけではない。信濃と遠江及び三河も国境だった。

 もちろん徳川は奥三河にも兵を置いていたが、その奥三河方面への攻撃がないと言うのだ。


「信玄はこの遠征に命を懸けている。と言うより、最後の炎だと思っている。兵力の分散こそ愚策なるは明白ゆえ、一点に固めようとしたのだろう」

「そうですな」

 間違いなく正論。だが同時にならばなぜわざわざ出たのか。頭が冷えるたびにその言葉が頭を巡る。

 健康不安が噂される信玄だったが、去年になったから急にその報がなくなった。あっても減り、定期報告のようになっていた。湯治でも繰り返して労咳を治しているとか言う話は家康も忠次も聞いた事はなかったが、仮にそうだとすると……と言う思いが忠次の頭をかすめる。


 もっともここまで来た以上、逃げるという選択肢はない。一戦だけでも交え、敵を滅ぼすか少なくとも出血を強いる。それしかないのだった。




 だが、姫街道との境目まで来ても、秋葉街道をさらに四半刻北上しても、武田の姿がない。あるのは草むらばかりであり、どんなに目を凝らしても風林火山の旗も武田菱の旗もない。

「忍びたちは」

「見つからぬと……」

 自慢の服部忍び隊も武田軍を見つけられず、進んでも進んでも敵が見えない。

 逃げたか?そんな訳はない。少なくとも二俣城近辺にとどまっているはず。

 もし動かないなら動かないでそれ相応の態度があるまでと忠次は開き直っていたが、それにしても見えさえしないのはおかしい。


「まさか……」


 ほんの少しの疑心暗鬼を振り払うかのように得物を振るった忠次に反応するように北風が吹き、十月の冷えていた体をさらに冷ます。

 戦を前にして熱くなりきれない自分にもほんのわずかな嫌気が差しながら、忠次は眼を見開いたまま前をにらむ。


 必死に武田軍の姿を探し、先鋒としての役目を全うするために。



 そして、さらに四半刻後、その役目はついに果たされることになった。


「武田軍、二俣城より半里ほど北へ後退」

「何だと!」

 忍びからの声と共に忠次と家康は同時に叫んだ。

「その地に陣を敷き、兵を休ませていた模様!」


「おのれ……!」



 そして次の声は、家康の口からだけ飛び出した。


「忠次!全力で進め!」

「いやその」

「信玄坊主め!駆逐してくれる!一人残らず、駆逐してくれるわ!」


 家康の目が真っ赤に輝き、すべての逡巡を悪とする人間の顔になった。


 こうなってしまってはもうどうにもならぬとでも言わんばかりに、忠次も疲れないレベルの行軍の速度から全速力に変えて進んで行く。

 今こそ二俣城の将兵の、いや民百姓の仇を取る時だとばかりにわき目も振らずに進み、そして信玄の首をも取らんと意気込む。




 だがこの時、家康はひとつの見落としをしていた。




 忍びがいかに正確な情報をつかんだ所で、しょせんは過去の情報。忍びが行って帰って来るまでの時間の間に、どれほどまで状況が変化しているかと言うのは、予想する事しかできない。

 今回の場合、忍びたちが「武田軍本陣」までたどり着いてから帰って来るまでの間に四半刻かかっている。ましてや敵は武田信玄。

 —————あの武田忍びを抱える、武田信玄。




「来ました!」

「来たか!さあ行くぞ!」


 思ったより早い敵の到着に、やってやるかとばかりに得物を握る忠次。

 すぐさま矢を放たせ、その上で突っ込んで行く。当然の如く先鋒であった武田騎馬隊の兵士数名を落馬させ、そしてその勢いのまま突っ込んで行く。


 そのつもりだった。




「もう来ました!」

「何、だと!」




 だが、あまりにも敵の攻撃が早い。

 自分たちより三手ぐらい先に矢を降らせ、さらに騎馬隊が突っ込んで来る。

 当然葵紋の旗の軍勢が倒れ、武田菱の旗の軍勢が突っ込んで来る。

「ええい!」

 忠次は歯を食いしばりながら得物を振るが、元より一万しかない軍の先鋒である忠次には二千の兵しかない。

 この時の武田軍の先鋒は山県昌景には、四千の兵が与えられていた。


 そしてあまつさえ、勢いを持った四千が、勢いを止められた二千に突っ込んで来たのだ。

「死ね!」

「この……!」

「覚悟しろ!」


 山県軍が三言発する間に酒井軍は一言も言えず、それがそのまま手数になっていた。

「貴様ら!」

 もちろん忠次も武器を振るが、なかなか敵を倒せない。斬っても斬っても命を奪えず、負傷こそさせるが次がまた出て来る。その間に部下たちがやられ、戦闘力が低下していく。


 そしてそんな光景が、同時発生していた。


「将を射んとする者はまず馬を射よと言う訳か!」

 石川数正にもまた、数多の兵士がくっついていた。そうして動きを封じられている間に兵士たちが狩られ、石川軍の戦闘力がなくなって行く。本多忠勝にも、大久保忠世にも、同じように精鋭たちが取り付いて動きを封じる。

 もちろん救援はあったが、すると今度は数を生かしてその救援を狩り取って行く。


 それを繰り返し、あっという間に武田軍は秋葉街道の戦場を支配してしまった。



「何と言う事だ……!」

 家康もまた歯を食い縛りながら得物を握る。


 二俣城からわざと後退し、その上で浜松城まで時間がかかる場所までおびき出し、その上で、待ち伏せではなく堂々と打ち砕いてやろうと言うのか。

「なめるな……!」

 部下たちをほしいままにされて黙っていては男ではない。ましてやあのような無残な最期を遂げた中根たちのためにも。


「進め!」


 家康はついに、自らの本隊を動かした。

 その数四千をもって、目の前の将たちを救わねばならぬ。何としても、一人でも多くの味方を守る。

 それこそが、ここまで来た役目。




「若いのう、若いのう……」




 その立派な主君をあざ笑うかのような声が、戦場を覆った。


 この場を誰よりも支配しているはずの人間の声が響くと同時に、とりあえず助けようとしていた大久保忠世軍を横目でにらみながら、一人の男が率いる軍勢がやって来た。




 その数、七千。




「風林火山の旗!」




 武田信玄か!と言う言葉を吐き出せないまま家康は軍旗の中の四つの如の文字に目を奪われた。


「行け」


 そしてそのわずかな隙を突くように信玄は傷だらけの軍配を振り、その風で兵士たちを疾き事風の如くではなく、侵掠する事火の如く力を与える。


「迎、え、撃て!」

 さらに生まれた隙を見逃す事なく差を付けた武田軍は大久保もそれと戦っていた内藤軍昌豊をも無視し、徳川家康をも燃やしにかかった。


「やらせるかぁ!」

 一人の徳川軍の兵士の叫びと共に家康軍も奮起するが、数と勢いの差はいかんともしがたい。

 倒れた数は少なかったが次々と押しのけられ、あっという間に家康までたどり着かれてしまった。


「ええい!」

 すぐさまむき出しになった家康に向けて武田の精鋭が襲い掛かる、もちろん家康も簡単にやられてなるかとばかりに武器を振るが、他の将と同じように斬っても斬っても迫ってくる。

 そして救援に向かえばまた別の武田軍がやって来て、救援しようとした方の兵が斬られていく。



 —————となれば後退するしかない。

 だが、家康がそれをやればそれこそ残った兵たちは袋叩きであり、死屍累々となる。

 何としても粘って、粘って、粘り抜くしかない。


「そんな事など許さんよ」


 だが敵はそんな事を許す気などさらさらないかのように、家康に向けて次々と兵をつぎ込んでくる。七千対四千をいい事に、四千を四千で抑え込み残り三千を家康一人にぶつけようとしてくる。


「殿を守れ!」


 心ある部将たちの兵が引き返して信玄軍を狙おうとするが、せいぜい一人を斬っただけで終わるのがせいぜいだった。

 この場にて、武田軍より徳川軍が多い場所は一つもない。分裂とは言っても、敵まで分散させて多数対少数の状況をここまであちこち作り上げればどう考えても武田絶対優勢である。



「ああ、ああ!」


 家康は必死に槍を振る。


 目の前の敵を薙ぎ払い、己が身を守るのが精いっぱい。

 救援が来たはたから討ち取られ、無駄に屍が積み重なる。

 まるで自分がいかに無力か思い知らされるかのように。


(「まったく、戦で人が死ぬのは仕方がなかろう。それをたかが数十名の死だけでいきり立ちおって。未熟よのう、どこまでも未熟な小僧よのう」)

 信玄の声が聞こえた気がするが、どこにもいない。必死に槍を振り信玄の姿を探すが、風林火山の旗さえもまともに見えない。

 兵士たちの攻撃の一発一発が、いちいちこちらの心胆を寒からしめに来る。

(「お前は長生きしすぎたのだ、清康も広忠も二十代半ばで死んだのだ、それなのに無駄に生をむさぼりおって……親不孝者めが……」)

「うるさい!」


 勝手に耳に入って来た声に向かってうるさいと怒鳴り、その上で武器を振る。

 そこにいるのにいない敵を斬り、どうにかして敵を殺そうとする。


 って何をやっている、あくまでも部将たちを守るためにこうしているのではないか!


 何をやっているのだ家康!お前は、お前は……!


「このぉぉぉ!」



 自分の心を無理矢理に燃やしながら叫んだ瞬間、目の前の武田軍が消えた。



「殿!お下がりください!」


 兵士たちによりわずかな肉壁が作られた。今の間に距離を取り、逃げれば助かるかもしれない。


「……できぬ!」

「できぬではございません!」

「しかし!」


 それでもとぐずる家康の後頭部に一撃が入り、いきなり馬から別の馬に乗せられる。兜が転げ落ちそうになったと思いきや、傍らの兵により拾われ頭に持って行かれる。



「さあ疾く!」

「ああ……!」




 家康は、逃げた。




 逃げるしか、なかった。




 濡れた、袴のままで。

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