酒井忠次の苦渋

「武田は何を考えている!わざわざ屍山血河を作ってどうする気だ!」

「おとなしく降伏せんのが悪い!」

「徳川を殲滅した先に何がある!無用に焦土を作り、敵を増やし、そして破滅を招く!それが武田の望みか!」

「武田の手によってこそこの地はよく治まるのだ!」


 そんな暴論が暴論にならないのが戦国乱世であり、戦場だった。

 武田が徳川に降伏するように使者を送った話は実際には一つもないが、そんな事はまったく大した意味もない。山県昌景にしてみれば、ただ忠次の揚げ足を取りに行っただけなのだ。

 忠次も忠次でふざけるなと言わんばかりに武器を振るが、やはり山県昌景の姿を見る事は出来ない。昌景は比較的小男だが、戦場での働きひとつで肉体の数百倍の存在感をもたらせるのもまた戦場だった。


 忠次と昌景が叫び合う間にも、兵士たちは斬り合っている。

「この野郎!」

「武田のために死んじまえ!」

「うるせえ田舎侍!」

「その田舎侍にも勝てねえくせに!」

 徳川軍は主人と同じように吠えまくり、武田軍もやや上から目線ながら同じように吠える。その度に打刀と木製の粗末な鎧が出会い、そして血煙を浴びて染まって行く。まったく本来の用途のために使われた道具たちの、それにふさわしい散りっぷりに感激するような存在は一人もいない。それどころか、その道具の使い手の散りっぷりに感激する存在も一人もいない。

「しぶとい野郎だ、だがこの一撃で!」

「殿様の命がかかってるのにしぶとく粘らねえ奴がどこにいる!」

 そんな格好のいい事を言っていた二人も、

「死ね下種野郎!」

「なんだ徳川の雑魚が!」

 そんな聞くに堪えない罵詈雑言を吐いていた二人も、同じように死んで行く。

 二千対四千の戦いのはずなのに二千は崩れず、四千は決定的な打撃を与えられない。

 そんな血みどろの戦いが続いている。



 ……だが、崩れないのと有利なのは違うし、決定打がないのと打撃を与えられないのは違う。

 有利なはずの、まだこれからの戦いがあるはずの武田軍の必死の攻撃により、崖っぷちで気合を入れているはずの酒井軍は確実に体力を削られている。

(やはり武田は徳川を潰せばそれでいいのか!?)

 武田の最終目標は上洛のはず、京から見れば辺境でしかない遠江ごときに全力を尽くすはずはない。それなのに。

 頭の中で巡り巡っていた思案が再び蘇り、忠次の頭をさいなむ。


「おのれぇ!」


 忠次はすべてを振り払うかのように吠えるが、口だけで死ぬほど弱い相手などここにはいない。忠次自身の攻撃で三人ほど戒名を求める身になったが、四千の内の三人がそうなった事で戦況が変わる訳でもない。


「敵は数に任せて迫っています!各軍勢はほぼ全て同じ状態です!」

「石川はどうした!本多も大久保も!」

「余計な兵はいません!」

 山県昌景、内藤昌豊、馬場信房。すでにその三名の姿は確認している。他にも小山田信茂や真田信綱、穴山信君もいるらしく、まさに武田の精鋭が一丸となっている。


 —————だが。




「どうした、勝頼は!こんな戦いに出て来ないようで何が跡目だ!」




 そう言えば、勝頼の名前がなかった。


 直接の後継者である勝頼がこんな戦いに出て来ないのは明らかにおかしい。

「何を言っているのやら。貴様らなど若君様が出るまでもない」

 得たりとばかりにそこを突きにかかった忠次だったが、昌景の声色は全然変わらない、それと顔色もだ。


「ふざけるな、こんな勝ち方をしても手柄はそなたら!勝頼の名前は霞むぞ!」

「若君様は後でいい所だけを取ればいい。雑兵のくせに粋がるな」

「将と雑兵の区別もつかんくせに!」


 忠次の攻撃を完璧にいなす昌景は、涼しい顔をしながら武器を振っている。それにより徳川軍の犠牲者もまた増えている。

「ええい、誰だ!では誰がこの軍勢を率いている!」

「そんなのは自分で考えろ」

「お前に聞いとらんわ!」

 で、二万五千の軍勢をここまで動かせるのは一体誰か。勝頼でなければ信玄しかいない。その信玄は一体どこに—————とか言う疑問とは関係なく口から出たうめき声に茶々を入れる昌景とそれにさらに激高する忠次。

 好対照な二人の先鋒隊が率いる軍勢の戦いは、未だに決着が付かないでいた。







「そこをどけ!」

「敵に背を向けるのか」

「敵に背を向けても主君さえ守ればそれでよし!」

「覚悟はよし!されど実らせはせぬ!」


 中堅と言うべき場所でも、徳川と武田の精鋭が意地を張り合っていた。

 石川数正率いる徳川軍を、馬場信房率いる武田の精鋭が押す。

 こちらでも数をもって馬場軍が石川軍を押し込み、徳川軍が歯を食いしばって馬場軍を押し返す。先鋒とおおむね同じ戦いが、繰り広げられていた。


 違いは、二点。


 数の差が先鋒ほどなかったので、当初は徳川軍がかなり踏ん張っていた。一時は押し返せそうなほどになり、信房自ら徳川兵を斬りに行こうとしたほどだった。



 もう一つは、途中から石川軍が次々と離脱してしまった事である。


「石川様もお下がりください!」

「ならぬ!ここを引けば敵はさらに図に乗る!」

 馬場信房が笑う中、石川軍はどんどん数を減らして行く。

 行先はあの世ではなく、浜松城。


「敵前逃亡するような兵しかおらぬとは徳川も堕ちたな!」

「馬場信房の死にぞこないめ、呆けたか!」


 理知的な数正をしてこんな言葉が飛び出す。

 敵は馬場信房、時に五十八歳の馬場信房。

 四十歳の石川数正からしてみれば因業爺であり、厄介な死にぞこないだった。


 お前が生きているから家康様がこんな思いをせねばならないのだ。


「わしが死にぞこないなら、貴様は尻の青い若僧だな。まあ、主君よりはましだが」

「ああもういい!こんな奴と付き合っているとこっちまで老ける!皆の者帰るぞ!」


 結局、数正をして踵を返すしかなかった。

 後ろから真っ先に逃げた意気地なしと言う嘲笑が飛ぶが、数正は全く振り返らなかった。

 置き捨てにされた兵士たちの悲鳴が、耳に入っても。



 そう、本隊を救うために。



「追いますか」

「当たり前だ。あの若僧が逃げた先にいるのが家康だろう。

 この戦の勝利、それは徳川家康を討つ事にあり。決してあの連中らを殺す事にはない」


 信房が副将に向かってそういいのけた通り、武田の最大の狙いは徳川家康だった。

 中根正照と言う餌に食らいついて来た、蛮勇を振りかざす子犬。その子犬を狩る事こそ、この戦いの最大の目的なのだ。







 果たして。




「逃しはせんよ」


 武田軍本隊は、徳川軍本隊をすでに捉えていた。

 甲斐の虎が牙をむき、家康と言う名の子犬を飲み込もうとしている。

 その子犬はみっともなく放尿しながら逃げてしまったが、それでもそんな子犬を守る人間たちを倒さねばならない。


「まったく……その力、あの小僧にはもったいない。わしのために使わぬか」

 そんな悠長な言葉をぶちまけると同時に、子犬の部下たちは歯から血を出しながら迫ってくる。

「内藤がいかによくやっているか、見えておらんらしいな……」

「見えているのと見たいのは違います」

「そうよな喜兵衛、あの大久保とか言う男だって本当は今すぐ何もかも放り出してわしを殺したいだろうに……」



 信玄の本隊は、この時右側から家康の軍を襲っていた。

 先鋒の酒井に山県をぶつけ、中堅の左翼側である石川軍に馬場信房、右翼側の大久保忠世軍に内藤昌豊を当て、その内藤軍により敵が身動きが取れなくなっている隙をついてさらに外側からぶつけて来た兵士たち。その攻撃により、徳川軍本隊はほどなくして分裂した。



 だがそれでも、信玄に心からの笑顔はない。


「あの徳川家康とやら、恐ろしい男よ。今はまだ子犬だが、捨て置けば何もかも食い尽くす。その前に狩ってやらねばならぬ」

「逃げませぬ、そして逃げても主のためにしか逃げぬ……」

「ああ、ほんの少しだけ片意地を張ったが致命傷にはできなんだ。いやこれから致命傷にせねばならぬが」


 だがその「分裂した」結果、家康を守るべく付き従った部隊と、家康を逃がすべく残った部隊が見事なほどに出来上がってしまった。そして後者には比較的余裕があった石川軍からの増援が到来し、必死に数を膨らませている。

「棒立ちになっている連中に構うな!」

 信玄が大声を張ると共に、武田軍本隊が必死に仁王立ちしている横をすり抜けようとさせる。

 その声に反応するかのように武田の精鋭が動くが、徳川の兵たちも動く。

 家康様の御為、命を惜しまぬ兵たち。

 信玄のみならず万人から嫉妬と羨望を受けてしかるべきその金銀財宝を叩き壊すべく動く武田軍。




「酒井様!信玄めが殿を!」


 そんなまごう事なき悪役の軍団が、秋葉街道を駆け抜けていた頃、忠次の下に一人の男の声が飛び込んで来た。


 やはり、そうなのか!


「直属軍はどうした!」

「武田軍は、信玄自ら、およそ、」

「もうよい!」


 喧々囂々たる戦場の中で途切れ途切れに聞こえる声こそ何よりの証左であり、それだけで動くには十分だった。


 そして声が途切れると同時に、忠次の決断も固まった。



「行くぞ」

「どちらへ!」


「岡崎だ!」



 岡崎と言った途端に、忠次は向きを変え南西へと走り出した。

 ほんの少し遅れて多くの兵が付き従い、残った存在は山県郡を阻むべく仁王立ちした。

「どこへ行こうと言うんだ?」

 昌景の挑発めいた言葉に動揺がにじんだのを察した忠次は馬込川へとたどり着き、浅い所を選び渡河を決行。多くの兵士が付き従い、十月の水を少しだけ赤く染めながら三方ヶ原なる地へと向かった。


(この敗戦の責務はいくらでも負う。だがそれは生き恥をさらしてこそだ。

 殿が無事か否かはもうどうにもならんかもしれん。生き残ればその時はまた雑兵になってでも尽くすのみ、駄目なら……!)




 酒井忠次、四十六歳。


 これまで二人の主君を失ってきた男の、あまりにも苦しく悲愴な決断だった。

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