徳川家康の見た夢
「進め!進め!」
武田勝頼は小声で唸っていた。
五千の兵を次々にぶつけ、二俣城を叩き壊しに行く。
その度に死体が増え、血も流れる。
「まったく、跡部……!」
側近の跡部勝資と共に、頬を膨らませながら斜め上を見る。
自分で声を張り上げる事も出来ず、じっと後ろに構えている事しかできない。
「二俣城が恐ろしいのでしょう」
「ああ、まったくだ。父上はあんな勇ましいことを言っておきながら結局は気が弱いのだ」
年の近い跡部は勝頼にとって頼れる側近と言うか親友であり、山県や馬場、父に言えないことも跡部や長坂長閑斎と言った側近には言えていた。
二俣城は小城と言うか砦とでもべき規模でしかなく、籠城している人間は六百とか言われている。おそらく中にいる人数は非戦闘員を含めてもせいぜい倍。
そんな場所に五千もの兵を強引につぎ込んで一日で落とせなど無茶ぶりでしかない。
—————と言う勝資の意見は、当然の如く通らなかった。
元々勝頼は積極論であったが信玄と側近たちの楽観論には不安もあったし、二俣城を全力で叩き潰すと言うのは賛同していた。
だがなぜ、自分がおとなしくしていなければならないのか。
うっぷんを晴らすかのように地面に槍を叩き付けるが、反応する人間は誰もいない。
どうして自分は堂々と言えないか。後継者なのに。
その怒りが兵士たちに伝わっているのかどうか、勝頼本人さえもわかっていなかった。
※※※※※※※※※
「二俣城の攻撃は相当に苛烈です!」
結論から言えば、勝頼の怒りは兵士たちに伝わっていた。
ありったけの矢を放つだけでなく、倒れた兵を踏み越え、我先にと手柄を争うように武田軍は二俣城に突入。
二俣城と浜松城をつなぐ秋葉街道にいた使者が駆け込んで来た時には、すでに城門は開かれていた。
そこまでの事になっているとは知らないにせよ、犠牲をいとわぬ武田軍の攻勢に使者の肝はすっかり冷え切ってしまい、全身汗だくにしながら馬を潰し、浜松城まで飛び込んで平伏していた。
「……駄目か」
その使者に真っ先に対応した酒井忠次は、そう嘆息するしかなかった。
どんなに急いでも浜松城から二俣城まで三時間は要る。
おそらくその間に二俣城は陥落し、武田軍は迎撃態勢を整える。そこに飛び込めば待ってましたとばかりに武田に獲って食われるだろう。
「駄目とは…!」
「おそらく二俣城は余喘を保つのみ。今から行っても残っているのは死骸のみだろう、あるいは翼を付けて飛べたとしても中根ぐらいしか救えそうにあるまい」
残酷な現実に、使者はすべての力を使い果たしたかのように倒れこむ。
浜松城へ向けて、援軍を乞うべくここまでやって来たのに。
もっとも、この件についてはこんなに弱り切っている存在に残酷な現実を叩き付けた酒井忠次にも責任がないとは言わない。
そんな冷淡な存在を前にして使者はかろうじて目だけを動かし無念を吐き出していたが、それで武田軍が減る訳でもない。
「酒井様……」
「水と飯をやれ、あと寝床も」
小姓たちにそれだけ言って、忠次は城内へと引っ込んだ。
言うまでもなく家康に二俣城の現状を伝えるためだ。
「もはや時間の問題と申すのか!」
「ええ、いやここに来るまでの間におそらくは」
十五も年下の主君に対し、忠次は冷静に言葉を紡ぐ。
「武田は本腰を入れて二俣城を攻撃、おそらくはこうしている間にも二俣城本丸に迫っていると考えるべきでしょう」
「武田は、まさか二俣城を潰すためだけに!」
「二俣城はあくまでも二俣城です。無駄に力を使わせてやったと見るべきでしょう」
家康は迷いながらも出るつもりでいたが、元々やや消極論だった忠次の心は籠城へと傾いていた。二俣城は支城であり、浜松城とは訳が違う。いざとなったら浜松城に兵を一点集中し、織田のさらなる援軍か春の訪れを待っても良いと忠次は思っている。
「そうだが、だとして武田はいつここに来る」
「おそらくは翌日でしょう。いずれにしても決して軽挙妄動はなりませぬぞ!」
「むう……!」
宿老を前にして鎧を鳴らしながら唸る家康の頭は揺れ動いていた。
二俣城を殲滅したのはなぜか。
自分たちの力を見せるためか。
(信玄は……信玄はどこまで、いや何を求めている……!)
二俣城の兵士が惑ったように、家康も惑っていた。
二俣城を全力で陥落させれば、あの一帯は武田領になる。そうなればもちろん徳川にとって面白くないが、まさかそれだけのためにあんな事はできない。では示威行動だけして狙いは上洛か。いや緒戦でこんなに無理をして京まで行ける訳がない。
「信玄はこの浜松城を攻めるか」
迷いが再燃した家康は再び忠次に答えを求め出す。
家康自身、二俣城が落ちるのには早くてひと月はかかると思っていた。それまでに織田の援軍と共に兵力をまとめ、何とかして武田軍と戦える体制を整えたかった。
「それがしは攻めると見ております」
「では籠城か、籠城せよと申すのか!」
「ええ。攻められねばよし、攻められればそれこそ粘って援軍を待つのみです」
元々迷った上で出兵とか言い出したのが家康だったから、本人としては籠城に否も応もない。
「しかし先ほどは出陣と」
「誰が今すぐと言ったのです!機をうかがえばよろしいのです!」
「機とはいつだ!」
家康の言葉が上ずって行く。子犬のように震えながら必死に吠える姿はある意味可愛らしくもあるが、二国の当主としてはあまりにも不甲斐ない。
世間的に徳川家康と言う人は忍耐の人と思われているが、それは齢を重ねた後世のイメージであって、まだ三十二歳の家康は基本的には勇ましい若武者である。もちろん狸親父と呼ばれるような狡猾さもなく、上杉謙信とまでは行かないにせよ武士らしい武士だった。
その武士らしい武士の自分が、大敵を目の前にして何も出来ない自分の心をかきむしり、当主らしい自分が家臣の死においてやはり何もできない自分の心をさいなむ。
「うう……!」
「ご決断を!」
「わかった、命あるまで、浜松城に籠れと伝えよ……!」
結局家康の決断は「籠城」であった。
「ああ……」
迷いに迷い抜いた家康は合戦もないのに疲れ切った顔でくずおれそうになり、側仕えの小姓たちに起こされそうになった。本来ならうるさいとか言っていた家康もこの時は無抵抗で小姓たちに身をゆだね、されるがままに元の位置に戻るしかなかった。
「まったく、わしはどうすれば……!」
もう一度会議を諮った所で結果は同じだ。出兵とか言っておいて籠城とか言う朝令暮改をやらかしている以上、さらに下手な真似をすればますます混乱する。
「まったく集中できん。少し横になる。誰か来たら起こしてくれ」
「昼餉は」
「いる訳がないだろうが!」
家康は頭を冷やすために、寝る事にした。
飯でも酒でもなく寝る事を選んだのは実に家康らしく、血走っていた目の主君がこれで落ち着いてくれるのかと小姓たちも少し安堵していた。
寝所に向かうまで甲冑を取らず帯刀もやめない主君への怯えを感じながらも家康は鎧を脱ぎ、本丸御殿で仏頂面をしていた築山殿に渡した。
「ずいぶんと大変なようで」
「そう見えるか」
「織田家の援軍が間に合う事を祈っておきます」
わかりきっていたとは言え、全く冷たい。
元々今川の家臣・関口家の娘だった築山殿からしてみれば家康なんてのは今川より格下の家であり、ましてや織田なんて主家の仇である。それで旧今川軍には武田の一族に組み込まれた葛山家のように武田に付いたそれも多く、築山殿がどう考えているかなど明白だった。
「決戦を前にして気持ちが高ぶっているのです。その事をどうか汲んでくださいませ」
「わかっております、そなたらにそのような事を言われずとも、釈迦に説法です」
釈迦に説法とか抜かしながら、築山殿の顔は歪んでいる。
徳川、織田、今川、武田とか言う戦国大名の中で振り回されてきた悲哀と言うにはあまりにも醜く、小姓たちの心から安寧を奪う。見守ると言うより呪詛でもかけるように見下ろすその姿に癒される人間は一人もいない。もちろん築山殿に言わせれば織田信長が悪いとなるが、その織田信長を切れば徳川はその瞬間破滅であるからどうにもならない。
その上に、である。
「奥方様、お館様は疲れておいでです。かように殺気立たずどうかお柔らかに」
「なれば貴方がやりなさい」
「ではそのお役目を請け負わせていただきます」
つい最近やって来たこの女も気に入らない。やたら謙虚で、決して威張らず、そして弱音も吐かない。どんなに威張りくさっても許されるくせにそうしない。謙虚ではなく、嫌味か当て付けにさえ思えてくる。
「夫は息災ですか」
「ええ。近々京へと向かうそうで、その際には同道する所存です」
「それはよろしい事ですね、では失礼させていただきます」
彼女の夫—————今川氏真についても築山殿は山ほど文句を言いたかった。
いや、言った。
甲斐性なしとか言う次元を通り越した振る舞いの数々。
中でも、武田によって駿河を追われてから妻の実家である北条家に入ったのはいいとしても、その北条と武田が和すると事もあろうに元家臣である徳川に身を寄せた事。
瓜葵 我が子成さんと 大地への 縁忘れず 日を奪うなり
それらに対する返事は、この歌一首だけだった。
植物は自分の種を残すために育ててくれた大地への恩を忘れず、その上でその大地から吸い上げた恩を忘れるように大地から日の光を浴びる機会を奪う。
直訳するとこんなだが、要するに瓜葵=織田・徳川が大地=今川から領国その他を奪ったのはあくまでも自然な行いであり、まったく仕方がないこと。
それをうんたらかんたら言うのは心の狭い行いであるから控えよ—————。
もちろん二行目は築山殿の勘繰りだが、実際氏真にしてみれば築山殿の妄執が当主時代からかなりうっとおしかった。義元生存中は何かと元康を引きずり回しては今川今川とうるさく騒ぎ、満足そうにする彼女をどこか大人げない生き物を見る目で見ていた。
その感情が虫も殺せそうにない今川氏真から出て来るのはよほどの事なのだが、そんなのに唯々諾々と仕えるこの早川殿と言う名の北条の姫もまた築山殿からしてみれば憎たらしいばかりだった。
「徳川様」
「これはこれは……」
「奥方様の思う所、お説ごもっともにございます。私とて内心では思う所もございますが」
「それは……」
「でもそれ以上に武田は許し難いのです、義妹の事もありますゆえ」
早川殿の義妹、すなわち氏真の妹はかつて武田義信に嫁いでいたが武田が今川を切ると同時に本国へ返され、出家して隠棲した。築山殿がその事に言及しないのに腹を立てているかと家康が聞いた所早川殿は無言で首を横に振ったが、おそらく良くは思ってないだろう。
それでもその感情を飲み込んだ上で振る舞える早川殿は、築山殿よりずっと亭主を安堵させることのできる妻だった。
それが家康の神経を静め、瞼を閉じさせて行く。
安らかな寝顔になった家康の隣で、早川殿はじっと端座していた。
そんな家康の元に、一人の男が現れた。
「殿」
やけに親しげに喋るその男は、下を向きながらじっと近寄って来る。
いつの間にか甲冑を着て帯刀していた家康は身を起こし、男を出迎える。
男は背中に袋を担ぎ、一歩一歩、ゆっくりと歩み寄ってくる。
草原の中にいたことで改めて夢だと認識した家康の目の前に、男が担いでいた袋が降ろされる。
「何だそれは」
「手土産でございます」
その言葉と共に包みがほどかれる。
なぜか真っ黒な布がかかっている。いったいどうやってこんな風に丁重に扱われているのか。夢としてもあまりにも精巧すぎる仕掛けに目を丸くしようとした家康の前で、一陣の風が吹いた。
「あっ」
そんな雑な声と共に黒い布は飛んで行き、その布があった所に何かが落ちた。
人の首が。
「な……!」
家康があわてて黒い布の方へ眼をやると、そこにも首が並んでいた。
しかも、性別も年齢も問わないそれが。
そしてその首たちが唱え出す。
「これが答えなのです」
その合唱に必死に耳を傾け、そして見た生首たちの頭。
それは中根正照。
二俣城の城主たちが唱えるたった十文字の言葉は悲しそうでも無念そうでも悔しそうでもなく、ただ素直に事実を伝えていた。
その事が家康にとってどれほど恐ろしく、それ以上にどれほどやるせなかったか。
その生首たちが黙って消えるのと、家康の目の前に天井がやって来たのはほぼ同時だった。
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