中根正照の二俣城の戦い

 十月。いわゆる農閑期。


 その時、ついに武田軍は動き出した。




「ついに来たのかよ……」

「まあわかってる以上さ」

 二俣城の徳川の兵士たちも震えていた。

 恐怖か武者震いか、あるいは冬季ゆえの尿意なのかはともかく、震えていた。

「でもさ、俺たちはいいよな。武田と違ってさ」

「何がだよ」

「俺たちはこんな時だけ頑張りゃいいんだよ、そりゃ稽古は大変だけどさ」


 織田の影響を受けた徳川軍はいわゆる兵農分離が進んでおり、彼らは雑兵ではあるが専門家の兵である。もちろん農兵もいるが、それが他国に出ていく事はない。

 戦と言っても侵略と防衛があるが、自分の土地が第一な農民は防衛にはともかく侵略には本気になりにくい。無論本気にさせるために為政者は心を砕くが、農民の死は生産力の低下と等しいため、正直効率は良くない。信長が農兵を好まないのはその点にもある。







 だがそれは、平生の小競り合いの考えであり、徳川と織田の考えだった。







「武田軍、ものすごい勢いです!」

「敵損害は!」

「両手の指!」


 両手の指と言う数が、武田軍の死者なのだろう。


 最初の衝突から十数分足らずで、武田軍は数個の砦を抜いていた。元より少数である徳川軍に分散する余裕などある訳もなく、無人の砦を抜かれた事もあった。もちろんそれを期して物資を運んだり焼いたりもしたが、それでもいくつかの砦には守兵を置いていた。

 それが、こうも簡単に破られていたのだ。


 当然、徳川軍の損害は両手両足の指よりも多い。


「二俣城までは!」

「時間の問題だろう。全軍防備を固め、武田兵を一兵たりとも通すなと伝えよ!」

 駆け込んで来た兵を収容し、自らも弓を手に取る。


 大丈夫だ、わかっている。


(武田め……一兵でも多く殺してやる。願わくは、信玄の首を……!)

 櫓に上った兵長の気合に満ちた目が、北から来る風林火山の旗を射すくめんとしていた。

「来たぞ!」




 ————————————————————来た。




 敵先鋒は言うまでもなく、騎馬隊。

 武田軍の代名詞である騎馬隊。


「放てーっ!」


 守将、中根正照の命により、一斉に矢が放たれる。

 この時、二俣城の守兵は六百。徳川軍としてはギリギリの数であり、余分な兵力などほとんどない。


 そして、援軍が来る当てもない。


(示し合わせているのか、それとも……ああもうそんなのは関係ない!朝倉が何だ、浅井が何だ、本願寺が何だ!)


 この武田の挙兵に対し、家康が唯一最大の盟友である織田家に援軍を頼んだのは言うまでもない。

 だがその時を狙ったかのように、伊勢長島一揆・本願寺・朝倉・浅井などの反織田勢力が一挙に畿内の織田軍を狙っていた。もちろん織田軍も兵を割かねばならないし、武田を相手するとしても美濃を守らないわけにもいかない。

 その結果、総大将こそ佐久間信盛と言う重鎮を付けてくれたが、数は四千にもならなかった。確かに足せば一万四千だが、だとしてもその数では敵を砕くのは難しい。もちろん今回は殲滅までは不必要だが、それでもまったく楽観はできない。


「放て!放て!落とせ!落とせ!」


 放て、だけでなく、落とせとも叫ぶ。



 この時のために弓矢だけでなく、熱湯も用意されていた。

 さらに武田軍の小山田信茂の真似事をするように、石まで置いてあった。


 何人かの兵はしゃがんで武田軍の攻撃をよけたと思いきや足元の石をつかんで投げ付け、また別の兵は熱湯をぶっかけた。

「この野郎!」

 ひしゃくなど使うことなく、頭からぶちまけてやる。やけどとかではなく、単純にひるんでしまうのだ。中には時間経過と十月の大気でやけどなどほど遠いそれもあったが、それでも構わず徳川軍は武田軍に文字通り矢玉と共に浴びせている。

(あー、ションベンでも武田の連中にぶっかけてやりてえ……!)

 そんな事を考えている兵もいた。実際二俣城内では、最終兵器として糞尿を武田軍に投下してやるべく用意するという話まであった。女人たちはすでに正照の妻以下湯を沸かしていたり傷の手当てをしていたりすると同時に、その手の代物を厠から運んで来ようともしていた。


「本気でやるんですか!」

「当たり前よ!」

「ですが」

「ですがも何もない!」

 いざとなれば足弱の男子や女子たちの手で下肥をやってやろうとまで思っていた正照の妻は激しく叫び侍女を焚き付けるが、湯や石を平然と触っていた女性たちもその事になると動きが弱い。

「四の五の言ってる場合ですか!」

「しかし!」

「もういい!私自ら!」

「ああわかりました!行きます!行きます!」

 侍女たちがようやく動き出したのを見るや気力をそがれた正照の妻は少し疲れたようになぎなたを持ち、斬り死にでもしてやろうと思うようになった。

 生き延びて家康に救いを求め、仇討ちをしてもらうに越したことはない。だがわかっていたはずなのに、言い聞かせていたはずなのに、どうしてこうなるのか。


 もっとも、彼女にも責めがない訳でもない。


 ネズミは沈む船を去ると言うが、目の前の状況を見極める力は庶民の方が強い。




 —————————つまりは、そういう事なのだ。







「なんなんだオイ!」

「止まらねえのかよ!」


 武田軍に、まったく引き下がる気配がない。


 数十人の兵が弓矢や投石の犠牲になっているのに、後から後から兵がやってくる。

 倒したはずの騎馬隊の後ろから矢が飛んで来て、相打ちのように討たれる。

 当然弾幕は薄くなり、その分だけ武田軍は迫ってくる。

 実は二俣城には二人ほど鉄砲兵がいたが、しょせん二発の鉄砲でいっぺんに倒せるのは二人であり、その間にどんどん武田軍は迫り、ついに城門まで目と鼻の先まで来る。

「敵は一体何人なんだよ!」

「知るか馬鹿野郎!

 弱音を吐いた仲間を叱責しながら矢を放つが、そのはたから追撃が飛んでくる。すでに櫓の柱はハリネズミのようになり、兵の周りにも矢が刺さっている。火矢でないのが救いだが、いずれにせよ圧倒的な数の差はいかんともしがたい。


 —————確かにこの二俣は重要な城だが、それにしても数が多すぎやしないか。

 この時、武田軍が二万五千の兵を動員していることを徳川軍はみな知っていた。

 信玄が意図的にばらまいたためだが、その二万五千と言う数字がこの時の兵士たちにとっては大きな負荷となっていた。

 もしかして本当に二万五千全軍なのではないか。撃っても討っても減らない軍勢、どこから来ているのか。五千かもしれないし、一万かもしれない。徳川軍が自分の相手が何人いるのか、わからなくなっていた。


 さらに言えば、この時徳川家の上層部の迷いが、兵士たちにまで伝播していた。

 信玄はどこまで本気なのか。本気で上洛する気か、徳川を潰すまでか、あるいは遠江さえ奪えばそれでよしなのか。

 家康は無論、忠次も、数正も、忠世も、断定できなかったのだ。




 話は飛ぶが、信玄は幼少期貝合わせに使う貝の数を小姓に数えさせ、さらに部屋一杯に広げて家臣たちに見せ、いくつあるかと聞いたことがある。

 家臣たちは二万だの一万五千だの言っていたが、実数は四千もなかった。

「五千の兵も使いようにとっては一万にも二万にも見える」

 そんな事を子どもの頃からわかっていたのが、武田信玄と言う男だった。




 しかしもし、その挿話を徳川軍が知っていたとして何の意味があるだろうか。


 仮に五千だとしても、二俣城にいる徳川軍の八倍以上。仮に二万五千なら、四十倍以上になる。

 だが実際問題、二万五千の兵を動かすのには五千の兵を動かす五倍の力が要る。こんな緒戦のはずの戦いに二万五千と言う全力を投入していては、すぐに止まってしまう。

 確かにこの城は重要なはずだ。それはわかる、だがだからと言ってここまで本気でやって来ていいのか。

 ふと手を休めて下を見ると、武田軍は倒れた兵士たちを踏み越えて城に入ろうとしている。腹立ちまぎれに矢を放つが、射貫いたのは既にこの世を去った死体かその一撃で死体になったそのどちらかでしかなく、生きている兵には全然意味がない。

「チキショウ、本隊はどこだよ!本隊は!」

 兵は無我夢中になりながらも目を凝らし、この城を攻めている武田軍の数を見極めてやろうとした。

 この俺が数を確かめてやる。その事を叫んでから死んでやる。そう思いながらもいつもは見せないような集中力を見せるが、最後尾も見えなければ大将も見えない。ついでに風林火山の旗も見えない。

 そんな、いったい何がどうなってるんだ!男はやけくそになりながらも矢を放つ。



 —————実は、徳川家の危機意識にも問題があった。


 家康が織田家と組んでから、徳川家は西に気を配らなくてよくなった。

 三河と遠江の南は海だから、すなわち徳川家は北東ばかり見ていればよくなったのである。

 北東にいたのは当初今川だったが、それが潰れたら次は武田と北条になり、武田を囲むべく北条や上杉と接近してからは武田のみになった。武田と北条が再接近してからは北条も再び視野に入ったが、それでも目の前にいたのは武田だった。



 —————武田、武田、武田。



 そう、武田。



 武田の事ばかり考えるようになった結果、徳川軍は家康以下武田軍および信玄の恐ろしさを戦わずして思い知らされてしまった。

 何をするかわからない。裏なのか、表なのか。

 疾き事風のごとしと言うようにいきなり軍勢を出し、いざ現れるや動かざる事山の如くじっと構えているのか。そして静かなる事林の如く牙をひそめ、それでいて火の如く侵掠する。

 少なくとも戦場においては紛れなき天才。それにどう対峙すべきか、それこそその事だけに神経を砕いて来たのが徳川だった。

 だがそれは、警戒心をあおり、さらに恐怖心をあおる事にもつながってしまった。


「いくつなんだよ、いくつなんだよ!」

 敵が何人いるかわからない。倒しても倒してもすさまじい勢いでやって来る。


「ああっもう、ついに来やがったっ!」


 そしてついに、はしごや丸太を持ち出す兵まで現れ出した。

 城門を乗り越えるか、叩き壊すか。いずれにせよ、圧倒的だろう数を城内に叩き込まれたら逃げる事すらできない。正確には南側に逃げ道は残っていたが、それこそそこから逃げれば囲まれるか二俣城に風林火山の旗が立つのかどっちかである。

「この野郎!」

 さっきまで湯をぶっかけていた桶を投げ飛ばすが、人にも馬にも当たらないで地面に転がっただけだった。

 そしてその一瞬の隙に武田軍は門を叩き出し、その兵はまだ数本の矢を残しながら武田軍の矢を左腕に受けてしまった。

「くそっ……!」

 力のなくなった手で弓を引くが、威力も数もない矢に当たる兵はめったになく、当たったとしても血を出すことはなかった。


 そして最後の一矢を放った彼に、今度は胸に武田軍の矢が刺さった。

 その誰ともわからない一撃により、彼の人生は終わった。

 彼にはすでに数十人の先達がおり、かつその矢があまりにも正確だった故に櫓から落ちて骨を折る痛みを覚えなかったのは不幸中の幸いかもしれない。

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