武田信玄の元亀三年

 元亀三(1572)年、十月。




 北条氏康の死から一年が経った相模の国の西、甲斐の国。


 その主である武田信玄が住まう躑躅ヶ崎館にて、一人の男が気炎を上げていた。


 男の前面には後頭部が並び、男の声を今か今かと待ち望んでいた。




「面を上げよ」


 その言葉と共に、髷が何十本と力強く立った。その頭を髷のない男は少しだけ面白そうに見つめながら、小姓頭に楽にさせよとばかりに手を振る。


「皆の者、よくぞ集まってくれた」


 男は鷹揚そうに構えながら首を横に振る。


 その穏やかな顔からは、とても恐怖心を掻き立てられる事はないはずだった。




 —————————————————————————その男の名前が、武田信玄でなければ。




「さていよいよ、時は来たれりと言う事だ」

「それではいよいよ遠州に向かうのですね」

「遠州とか吝嗇なことを言うな、三河、尾張、いや天子様にお目にかかるのだ」


 その甲斐の虎の口から出た力強い言葉に、座は一気に沸き返る。


 右は後継者の武田勝頼、仁科盛信、武田信廉、穴山信君、武田信豊と言った親族衆。

 左には馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱と言った譜代の家臣。

 どちらもが武田と言うお家のために気合を入れ、その先の言葉を待っていた。


 その口から出た上洛と言う二文字は、当然の如く場をさらに熱くした。


 上洛ともなれば、それこそ甲斐、信濃。駿河だけでなく遠江、三河、尾張、美濃・近江(または伊勢、伊賀・大和)、山城を手にする事になる。




 —————そうなれば、天下統一も夢ではないのだ。

「今回の戦いはただのそれではない。天子様、いや上様たちの力も得て京へと救いに行くのだ」

 とか言うお題目を一応掲げてはいるが、それでも天子様のいる京を抑えればそれこそ天下人に近づけるのは明白であり、そうなってしまえば足利将軍家などもう傀儡でしかない。


 そして好都合なことに、その将軍家様を苦しめる敵もおあつらえ向きに用意してある。


「やはり尾張の大うつけ、いや魔王から天子様を」

「いかにも、魔王・織田信長を討つのよ」



 第六天魔王、織田信長。


 その魔王の所業に信玄が「天台座主」として抗議文を送ったのは去年のことである。


 信玄は坊主としての名前であり、坊主の一人として単純に信長の行いが許せなかったし、それ以上に不可解だった。




 —————比叡山延暦寺を、焼いた。




 別に戦でもなんでもなく、ただの焼き討ち、

 当然の如く大量虐殺を行い、多くの命と建物を灰燼に帰した。

 焼くために焼き、殺すために殺した。石山本願寺と手を結んでいた信玄は、坊主として織田信長に抗議した。


 だがその結果帰って来たのが、「第六天魔王」とか言うふざけているにもほどがある書状だった。

(第六天魔王……平たく言えば地獄の王と言う事か……!)


 天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄。


 この六道が死後の世界となっている仏教において、第六天と言うのは=地獄であり、最上層の等活地獄ですら六千年の苦しみを味わう場所である。逆らえば地獄に落ちるというのは最上級の脅し文句であり、信玄ですらその言葉に抗えないから僧となり、寺社にも寄進を続けた。


 当然ながら石山本願寺は信長を仏敵と名指しで批判し、数多の勢力とともに反織田同盟とも言うべき状態になっている。

 北の朝倉義景、浅井長政、南の伊勢長島一揆、中央の六角、西の足利義昭、南西の本願寺。


 そして、東の武田。


「この武田がもたついていては各個撃破と言う結末が待つだけ。そうなれば次はこの武田よ」

「やられる前にやれ、と」

「いかにも。そのためにも我が武田のすべての力をもって、魔王を討つのよ。こんなに楽しい事もないからな」


 古より、絶対的な悪の存在を討ち果たす英雄譚は数えきれないほどある。


 今回その英雄譚の主人公になれそうな存在が、自ら名乗りを上げてくれたわけだ。信玄にとってこんなに楽しい事もそうそうない。もちろん他の連中がその魔王を殺すために歯を食いしばっているのは周知の事実だが、その中で自分が一番強いと言う自負もあった。


 本願寺は権力はあるが領国はさほどなく寄進頼りで、懇意にしている紀州の雑賀衆も防衛はともかく攻撃にはあまり積極的ではない。朝倉義景は国は大きいが動きが鈍く、浅井長政は少数、六角と伊勢長島一揆は潰れかけ、足利義昭は本願寺と同じ——————————。


「しかし本年中に京の都を拝めましょうか」

「そうだな、できればな。だが予定は未定とも言う。天子様にはもう少し耐え忍んでもらわねばな」

「それは」

「そうよ。まずは織田の尻に噛みつき、できれば食い尽くせばそれでよし。何せ甲州から山城まではえらく遠いからな。

 まずは今川と言う主を裏切った魔王の犬、徳川家康めを食らってやるまで……!」




 そして、実際のところの目標はこの程度なのだ。




 上洛だの天子様だの包囲網だの言った所で、結局は武田家が第一であり、武田家を発展させるための出兵なのだ。

 もちろん織田にとって唯一無二の同盟勢力である徳川を潰せば織田への打撃も大きいが、遠江・三河から得られる利得によって武田家を潤わせるのもまた、それ以上に重要な行いの一つなのだ。


「では皆、出兵の準備を整えよ!」

「ハッ!」


 本音を吐き出し切った信玄の元から将たちが、気合を込めた声を残して去って行った。




※※※※※※※※※




「高坂」

「どうなさったのです」


 武田家の家中が上は信玄から下は草履取りまで上洛に思いを馳せる中、一人だけ紫色の顔をしていた男がいた。

 武田四名臣の内山県・内藤・馬場の三名が信玄と運命を共にする中ただ一人、この上洛において留守を守る役目を信玄が嫡孫・武田信勝とともに命じられた高坂昌信を雑に呼んだその男に、昌信は静かにほほ笑んだ。


「そなたは不安に思わんのか」

「何がですか」

「父上の事だ。父上は大丈夫なのかと」

「大丈夫でございます」


 ずいぶんと簡単に大丈夫と言う昌信の頭をひっぱたきたい衝動を抑えながら、勝頼は昌信に駆け寄る。誰にも聞かれたくない話をするかのように迫る未来の主君を前に、高坂昌信は相変わらず顔を変えない。


「父上がこの数年労咳に悩まれていることは知っているはず、それでこの遠征が持つのかと」

「持ちます」

「お前は……!」

 労咳こと肺結核が当時において不治の病に近い重病であることは勝頼以下誰もが知る常識であり、すでに五十二の信玄にはどれだけ耐えられるかわからない。

 それなのに悠長な言葉を繰り返す昌信の胸倉をつかみ、勝頼は唸った。


「若様もご覧になったでしょう、お館様の顔色を」

「わかっている、だとしてもだ!」

「ろうそくの炎とかおっしゃられるのですか」

「ああそうだ、あれこそろうそくの炎ではないのか!」


 ろうそくの炎は燃え尽きる前に激しく燃え上がると言うのは常識であり、今の信玄があんなに意欲満点なのはすなわち死も間近と言う事ではないのかと言う話だ。

 実際問題、労咳に悩まされているにしてはあまりにも信玄の顔色が良すぎる。

 それこそ上洛と言う言葉で無理矢理に元気になっているだけではないのか。

「北条家が全面的に協力しております」

 そこまで真剣なのにあくまでも楽観論を続ける昌信に愛想を尽かすかのように勝頼は手を放し、昌信を床に落とした。


「もう良い。お主は父上が百まで生きると信じて疑っておらんのだな」


 すっかりふてくされた勝頼は昌信に尻を向けて大股で歩き出し、屁でもしたそうに尻を振った。実際中にたまっていればすぐさま浴びせかけてやったほどにはらわたは煮えくり返っており、高坂昌信やそれとつるんでいる爺たちの事が勝頼は憎くてたまらなくなった。




※※※※※※※※※




「ついに来たと申すか」


 さて、武田軍の第一の標的である徳川家の本城、遠江の浜松城。


 その地に武田軍来たれりの報が入ったのは、武田軍が動き出してから二日後の事である。


「殿、喜び勇みなさるな」

「わかっておる、早急に使者を!」

「そして将を集めます」



 徳川家当主徳川家康は、重臣酒井忠次と共に家臣を集めた。


 西の織田家と同盟を組んでいる家康にとって敵は武田しかいないが、同時のその強さもまた周知の事実である。


 それゆえに家康もまた、ついに来たかと盛り上がっていた。



 ほどなくして浜松城の広間に家康と忠次、石川数正、大久保忠世・忠佐兄弟、本多忠勝、大須賀忠正、鳥居元忠ら徳川の重臣たちが集められた。


「やはり武田ですか」

「ああ武田だ、数はおよそ二万五千」

「想像はしていましたが……」


 数正が背筋を伸ばす。

「籠城ですか」

「いやそれでは難しかろう。もちろん援軍を仰いでいるが、その数だとするとつまみ食いで済ませる気はないだろう」

 徳川家の動員力は三河と遠江で一万であり、とても正面からは戦えない。

 そして遠江や三河の領土を一部食い荒らして風林火山や武田菱の旗を立てるぐらいなら二万五千も動員する必要はない。


 しかもその上に高坂昌信を除く一族総出で来ている以上、全く本気である事は明白だった。



「敵の狙いは浜松城、いや殿の首では」

 本多忠勝が武田を殺したいという願望を隠さない目で家康へ向けて思う所を述べる。

 家康は「まだ」三十一歳。後継の信康は一応成人しているがまだ十四歳であり、求心力は高くない。ましてや信康まで死ねば徳川家はほぼおしまいである。それゆえ信康は浜松城ではなく三河の岡崎城にあり、この場にはいない。


「いや狙いは上洛だ、将軍家が要請しているのだからな」

 それに対し大久保忠世はあくまでも狙いは上洛であり、遠江は通り道に過ぎないと言うのが意見だった。それもまた正論であり、何も織田勢を前にして徳川に無駄に力を使う必要もないと言うのもまた事実だった。


「今年とは言っていない、来年中とも言っていない」

「我が徳川に無理な力を使わず尾張の織田勢に余力を残すはず!」

 だが石川数正は上洛など五年後でも十年後でも上洛だからまずは徳川を全力で叩きに来るのだと考え、忠佐は兄の意見の外堀を埋めるように進軍説を推した。


 こんな時、この場にいる中で二番目に年少の家康は弱い。

信長にも柴田勝家、滝川一益、佐久間信盛など自分より年上の家臣はいるが、信長自身の武勇で危機を救った桶狭間があり、さらに勝家は一度謀叛を働き、一益は伊勢出身。さらに恒興や秀吉と言った新参たちの力もあり、絶対的な指導力を持っている。



「相わかった。出よう」


 この決断もまた、意見が割れていなければ下せなかった。

 もしこの時大須賀忠正と鳥居元忠が忠勝の意見を、その後酒井忠次と渡辺守綱が忠世の意見を支持していなければ、つまり四対四にならなければ、家康は多数決に従うしかなかった。


「それでは」

「このまま籠城していても武田が遠江を食い荒らすだけだ。そうなれば武田がいなくなったとしても民の心は徳川には戻らん」

「ですが!」

「武田信玄が自分がいなくなった後の事を考えないと思うか?必ずや勝頼のやりやすいように土壌を作って死ぬ。そうなれば取り返すのすら四苦八苦だ。ましてや北条も出しゃばってくる危険性がある。

 なればこそ、徳川家がいかに頼りになるか見せつけておかねばならぬのだ」


 それもまた正論だった。あまり縮こまっていても徳川は住民を守ってくれないのかとなり、徳川は愚か織田にも向かない可能性がある。大名は農民ありきの存在であり、農民からそっぽを向かれたらそれは大名ではない。


「ですがしばらくは耐えるべきかと!」

「まさか伯耆(石川数正)……お主真に受けているのか」

「何をですか」


 なおも食い下がる数正だったが、家康の顔の歪みに突き出そうとした頭を引っ込めてしまった。



「勝頼が老臣の高坂と不仲になり、内藤や馬場などのそれと親しい連中と不和になっていると言うあれか」

「いかにも……」

「勝頼が功臣たちと不和なのは今に始まった事でもない。確かに信玄が死ねば武田家中は乱れるだろうが、だとしてもあまりにもあからさまに過ぎる。

 信玄のことだ、わざとそんな情報をつかませたに違いない。甲州忍びを持つのだ、こちらの手が読めないはずはない」


 徳川にも伊賀忍がいるが、正直どっちもどっちでしかない。情報をつかんだと思いきやつかまされたという話はまったくごもっともであり、ましてやそんな恥ずべきお話をわざわざ漏洩させるなどありえない。罠だと言う訳だ。


「いずれにせよ、わしはもう決めた。皆もそのつもりで構えよ」


 とにかく、なんだかんだ言って当主が決定してしまえば決断が覆る事もない。



 徳川家康は、城を出て武田信玄を迎撃することに決めたのである。

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