第3話 災害
やがて長孫琳の帰る船が見つかった。南宋に帰るために、鎮西(九州)への船に乗るという。
舵は琳さんを漢字の先生と思っていたが、長孫琳は「舵をお嫁に欲しい」と嘉平に伝えていた。帰る日の前日に、そんなことを嘉平からいわれたが、舵は首を激しく振って拒絶した。
「良い嫁ぎ先があれば舵を嫁に出してもいいが、何も南宋までやることはない」
と嘉平は笑った。
南宋が遠い海の彼方の琳さんの国だということはすでに舵も聞かされていたが、そんな異国に行くなどとは、想像することも出来ない舵だ。
長孫琳は、黙って手を振り、店近くの石蔵と呼ばれる船着場から
舵は嘉平の言葉を何度も思い起こす。「良い嫁ぎ先があれば」舵はお嫁に出されてしまうのだと思うと、どうにも気持ちが沈んでしまう。ああ、やっぱり舵は嘉平の腕の中で眠ることはないのだと端なくも思い、一人頬を染めた。
澪は、生まれて間もなく母親を亡くし、父親と二人で生きてきた。嘉平は、足に障害のある娘を気遣って、再婚はしなかった。舵が来てからは、何はともあれ三人家族だ。
長孫琳がいなくなってからも澪は、離れを訪れる。そして時々、新助とじっと見つめあっているのを舵は目の端に収めた。
長孫琳は一年もしないうちに、また鎌倉を訪れた。お店で嘉平と会っている。舵もそれを知っていたが、琳は無粋に舵に近づくようなことはなく、一度だけ舵に世話になった御礼を届けてくれた。
それは舵には大変珍しい物。
「はぁ」と、その品を持ち上げた。
「これは何なのでしょう」
問う舵に、嘉平はちょっと困った顔つきで
「誕生仏というのだよ。確か」
首を傾げる舵に、
「仏さまが誕生した時のお姿なのだろうなぁ」
舵は、分からないまま頷く。
「しかし、わしが知っている誕生仏は、右手で天を指し、左手で地を指しているのだが、これは反対だな。もっと舵が喜ぶ綺麗な布でも持ってくればいいものを‥‥‥」
と笑った。
しかし、舵は美しい布よりも、舵の手の中に納まるほどの大きさで、その左手の人差し指で力強く天を差す仏像さまが気に入った。その頃の舵は、仏教などは知らず、野山や海の神さんに朝晩手を合わせるのがせいぜいだったが、長孫琳の贈り物は、澪からもらった人形と同じように舵の心を捉えた。琳さんは、舵がその風変わりな物を気に入ると分かって贈くってくれたのだろうか。
その仏像さまは、死ぬまで舵の傍らにあり、舵に安らぎのひと時をもたらしてくれるのだが、今の舵には思案の他だ。
翌年五月、大きな地震があった。
鎌倉は天災の多い処だ。もちろん、舵は他の土地は知らず、地震がどこまでの大地を揺るがすのかも知らない。
その地震は、ドンと大きな音がするほどのもので、嘉平は、慌てて飛んで来ると澪と舵を両
舵などは、「また地震があればいい」などと決して人にはいえない気持ちを抑え、ご主人さまである嘉平の温もりを思い出し
その十二月、由比の民家から火事が起こり、その辺りは地獄絵図と化した。
材木座も海伝いに逃げてくる人々でいっぱいだ。嘉平は普段着を脱ぎ捨て、半纏一枚の浜の男となった。
「粥をつくれ、玄米を惜しむなぁ」
大声に従う使用人の動きは、キビキビとした確かなものだ。
舵らも、雑穀に野菜、何時もより多目の玄米が入った硬めの汁粥を大わらわで炊き出した。浜の男らは嘉平を見習い、勇ましく鍋を運び誰彼隔たりなく粥を振る舞い、それに魚の
何時も食べているものより豪勢だと手を合わせる者は後を絶たず、舵らは次から次へと粥作りに追われた。澪もこの時ばかりは、お嬢さまを返上し、店先に立つ新助の傍で、火傷の子供や年寄りを介抱した。嘉平も言葉を交わす暇もないが、若い者らの働き振りを好もしく見聞きした。
事が収まったある日、嘉平は澪と舵に異国で作られた美しい螺鈿の箱をご褒美としてくれた。
舵の大切な物を入れる宝石箱となった。嘉平からは、その心意気も含めた数々の物が、与えられたが、その箱が嘉平からの最後の品となる。
丸太屋嘉平の善行は、誰でも知るところとなり、いよいよその名声は上がったが、「商人のくせに出過ぎた真似を」と御家人などの妬み、嫉みも聞こえて来るのだった。
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