第2話 漢字
ぼやける舵の目に飛び込んできたのは、澪の凛々しい顔だった。澪は、小さな懐剣を抜くと自分の喉に当てた。
「寄るな」という澪の凛とした声が風に負けずに響いた。
男らは少しく
海風が「びゅう~ん」と鳴って、いよいよ芝居は佳境。
「お嬢さまぁー」
遠くから聞こえて来るのは、必死を露にした新助の声。
浜で突然はじまった珍事を誰かが見ていたのだろう。急を聞いて駆けつけた新助は、棒切れを一本持っていた。そして、侍相手に戦ったのだ。新助は驚くほど強くはなかったが、武家の生まれの噂があり武芸の心得があるようだ。その頃には浜の男らもわんさと集まって来て、澪と舵は、あっという間に家に帰り着いていた。澪を背負った新助がどんなに頼もしく見えたことか。あの時、澪に何かあれば、舵は到底生きてはいられない。あれ以来、舵は、いや澪は新助を頼もしく好ましく思っている。
とにかく舵は異人さんのお世話がちゃんと勤まるのか心配だ。
何はともあれ、二間の離れの奥の部屋を占領している異人をこわごわ訪ねた。
その日は舵一人だった。澪も行きたそうだったが、まず舵が様子を見てからと話し合った。問題がなければ、次からは二人で行くことにしたのだ。
なぜだか澪は離れに行きたがる。
後々、その理由は分かるのだが、異人の事で頭が一杯の舵は、その時の澪のわずかに上気した顔を見てとることが出来なかった。
嘉平の普段着を仕立て直して持っていった。襖の外に座り、黙って衣を差し出すと異人は「ありがと」と少し不思議ないい方の返事をした。
舵は、ほっとして顔を上げた。その人は、隣部屋の新助の
茶碗の水に指を浸し、縁側に「琳」と書いた。舵が密かに憧れている真名(漢字)だ。知識乏しい舵にも立派な筆使いが見てとれる。
新助がびっしりと四角い字の並んだ本を読んでいるのを盗み見て、ああ舵も真名が読みたい書きたいと思ったものだ。
舵にも二つだけ読める真名がある。画数の多い「澪と舵」だ。嘉平が教えてくれた。
丸太屋で働き始めて間もない頃、嘉平に「カジはどんな字を書くのか」と聞かれ、首をひねっていると「きっと梶の木のことだろうな」の言葉に舵は頷いた。
嘉平がいうのだから間違いない。
さらに「今日からは梶ではなく、舵ではどうだ」というのだ。さっぱり分からない。カジはぽかんと嘉平の顔を見つめた。
「舵は、船の方向を決める大切な部分だ。舵が美しく動けば澪も美しい」
嘉平は何時になく真剣な面持ちだ。
その日から、カジは舵となり丸太屋の立派な使用人を目指した。
今では、嘉平の気持ちが痛いほど分かるが、その時はただ黙って頷いた。真名には、意味があるのだと気づいた時、舵は真名を知りたいと思った。
舵が異人の長孫琳からもたらされた文字は、真名とは呼ぶまい。それは正真正銘の異国の文字、漢字だ。
縁側に描かれた漢字は、少し寂しく感じる「琳」。
澪と舵は、頻繁に離れを訪れた。
用事もないのに「繕いものはございませんか」などといって。
そして隙あらば「それはどんな漢字ですか」と尋ねる。
新助に尋ねても教えてくれるだろうが、新助は仕事があって忙し過ぎる。でも異人の琳さんは、毎日ぶらぶらして暇人だ。
そして、舵が漢字を尋ねると、それはそれは嬉しそうに茶碗の水に指を浸たすのはもう止めて、店から借りてきた硯の墨をたっぶりと付けた筆で、大きな漢字をゆっくりと書いてくれる。
舵にも筆を持たせてくれた。一や二という簡単な文字から始めて、舵が最も上手に書きたいと思っている澪という字と舵という字を練習した。澪も難しい字だが、舵はもっと難しい。どうしても左右の釣り合いが上手く取れない。何度も何度も書いて、もう紙は真っ黒。
琳は微笑を浮かべて、舵の傍に寄り、舵の右手を持って静かに筆を動かす。舵の身体は強張り、二人で書いた舵の字はやっぱり調子が悪く恥ずかしそうだ。
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