第7話 心臓を刺せる距離
幸せをぎゅっと詰めたような旅行は、終わった。
帰宅し早速スマホの充電器を探す。けれどやはりないようだった。再度キャリーバッグを探してみてもないものはなかった。仕方なく親の充電器を借りてスマホを起動させる。
光を放つスマホの画面を見て、私は動くことを忘れたようにただ止まった。
私は甘えていた。
誰にだろう。自分にも美里にも例の彼にも甘えていた。
違和を感じた美里の言動が腑に落ちた瞬間だった。私が気付かないだけでもっと多くの我慢があの旅行にはあったのだ。
美里はどんな思いで恋人になっていたのだろう。
たった数秒の間にたくさんのことを考えた。美里はずっと泣いていたに違いない。
通知を知らせる画面にかつて愛した彼からの〝話があるから会いたい〟というメッセージが表示されていた。
吐き気がした。私はそのメッセージにこの上ない嬉しさを感じたからだ。
どうして嬉しいと感じてしまうのか。脳裏に記憶された美里との思い出を差し置いて、彼との思い出や好きだった気持ちが飛び出してくる。胸が締め付けられるドキドキ、初めてキスをした日のこと、初めてデートをした日のこと、お洒落なレストランで誕生日を祝ってもらった日のこと、彼の車で旅行した日のこと、日常の中に彼がいた日々のことが、美里を埋め尽くしていく。美里が埋もれていく。心臓をぎゅっと掴まれる。呼吸が上手くできない。涙が止まらなかった。
彼からのメッセージは七時前だ。二日目の朝、普段は私が先に起きるのにその日は美里が先に、七時に起きていた。マナーモードにしていなかったのだろう、美里は彼からの通知音で目を覚ましたに違いない。そのあと、すぐに充電が切れたのだろう。そして私が美里に付き合おうと伝えたのはそのすぐ後だった。美里が即答しなかった理由は。
そして、充電器も美里が持っている、そう確信した。
美里はどんな思いで恋人になったのだろう。
旅行が終わったら私は彼からのメッセージに気付く。そうしたら、私が美里から離れることを予測したに違いない。それでもいいから、たった二日の付き合いを覚悟で、私を選んでくれたのだ。
呼吸ってどうやってやるんだったろうか。
自分の愚かさに、無力さに、盲目さに、情けなさに、酷く失望する。美里を傷つけた。そう思っている自分にも絶句する。それはもう、答えが出ているといっているようなものだった。
嗚咽しながら夜を明かした。
翌日、私を嘲笑うかのように快晴な青が頭上に広がっていた。憎い空だ、と思った瞬間に違うのだと思い直す。嘲笑われるべき存在だった。憎いのは私自身だった。同情で付き合い続けても美里に失礼だとか、そんな正当な理由をつけて自分の正しさを見出そうとするのも狡いことは分かっていたけど、そんな愚かな思考は止まることを知らない。
「おそっ」
待ち合わせ場所の公園につくと、背後から懐かしい声が聞こえた。唐突に襲ってくる好きの感情には抗えそうにない。
振り向くと、彼がいた。愛されたいが故の愛だとしても、正真正銘の好きな人。
「返信遅かったじゃん」
私たちは公園のベンチに座った。遊具はブランコとジャングルジムと砂場のみだが敷地は広く、サッカーをしたりキャッチボールができて、ここを必要とする人は思っている以上に多い印象を受ける。かつて恋人同士だった私たちも、夜になればよくここで駄弁っていた。付き合い始めたのも、別れをしたのも、そして再会するのもこの公園だった。
「旅行に行ってたんだ」
ブランコに乗って遊んでいる子ども三人と砂場で山を作る子二人が視界に入る。それぞれ何やら楽しそうに話をしている。内容は聞こえない。聞こえるのは、彼の声だけだ。
「へぇ、男と?」
そう言われて、私は咄嗟に「違うよ! 友達」と言った。瞬間私はまた落ち込んだ。
「女?」
「あ、うん」
「ふーん」
彼は僅かにほっとしたような表情をした。私はその態度に無性に腹が立った。
「同性だからって何もないと思ってる?」
気付けば強気で、そんなことを口走っていた。
「え? なに? したの?」
彼は冗談ぽく笑った。
「なにそれ」
私の気持ちは後退していく。これでいいと思った。けれど現実はそう簡単ではない。
「別に、いいと思うよなんでも。でも、恋人じゃないならいーよ」
単純。別の言葉で言えば、ちょろい。彼が美里との関係を認めてくれたように思えて、嬉しくなった。よくない傾向だった。いつしか、子どもの声など気にしてられなくなっていた。心拍数が上がっていく。
「私のことまだ好きなの?」
悪戯っぽくそう質問するのは狡いと思った。
「そうだっていったら?」
嫌なのに、口元は綻んでしまう。必死にそれを阻止しようと試みても、感情に真っすぐな性格はそう簡単には崩すことなどできないようで、私は咄嗟に彼から目を逸らし、後ろを向いた。
「俺は最初から復縁するつもりだった」
世間でよくいうクズ男のセリフなのではないか。そうは思っても、私の心は酷く動かされてしまう。
私は頷いていた。
帰宅すると置いていったスマホの画面に何やらメッセージが表示されていた。美里だ。どきりとした。美里には何も話をしていない。現在私は二股をしている状態だ。言わなければならない。メッセージを見ると、今送られてきたようで、それらは旅行の写真だった。私は思わずメッセージをタップして写真を眺めた。映っているのはほとんどが私だった。写真の中の私は心の底から笑っていた。幸せそうに見えた。いや、幸せだったのだ。美里から、私はこんな風に見えていたのだろうか。そう思うとまた鼻の奥がツンとした。
指で左へとスライドして神社での写真を眺めていると、美里からの新しいメッセージが入った。それが視界に入る時、私はとんでもない約束を破ったことに気付いた。
“一番最初に見た連絡は?”
『一番に私の連絡見るんだよ?』旅行の最後、美里がそういっていたことを思い出した。恋人としての、美里の最後の我儘だった。私はそれさえも守り切れなかったことを悔やんだ。
まだ青空の広がる空を見あげてから、覚悟を決めて美里に通話をかけた。繋がったらなんて言おう。そんなことを考えている余裕もなかった。コールが鳴りやまない。鳴りやむ時は、拒否されるか、応答される時。心臓が跳ね上がっている。今なら分かる、狡いのは全部私なのだ。
最後のコールで、音が止まった。繋がった表示が現れる。いざ繋がると何を言おうと喉の奥に蓋がされたように声がでなかった。
沈黙の膜を最初に破ったのは、美里だった。
『どうしたの?』
美里の声は少し掠れているように聞こえた。ずっと泣いていたのだろうか。
「あ、えっとさ」
とにかく絞り出して声を放出する。
「写真、ありがと」
『あーうん』
やはり美里の声に張りがない。
「あのさ、」
明確な内容は決めていなかったけれど、私が話し始めた瞬間、美里は『そういえばさ』と割り込んで話の通せんぼをした。少しホッとしながら、「なに?」という。
『私、せっちゃん以上に好きな人ができたよ』
「え?」
『だから、別れよ、バイバイ』
美里はそういうと余韻も残さずに無慈悲にも通話を切った。
何事もなかったかのようにしんと静まり返る部屋。今確かに美里の声が鼓膜を震わせていたのに、消えてしまった。
呆然とした。そして気づけば頬に涙が伝っていた。
私は彼を選んだ。美里を選ばなかった。美里を最初に振ったのは私だ。さよならをするために、電話をした。別れようというために。関係を断つという意味で、この電話は成功した。けれど美里に振られたという事実が、がつんと頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
そうして理解する。これが美里のいう心臓を刺せる距離ということ。美里は、私のことをどれだけ愛しているのだろう。〝せっちゃん以上に好きな人〟それは嘘なのだ。私は美里ではないけれど、それを分かってしまう。実際に刺してしまう程に、愛しているって、どれほどの物だろう。私は確かな数量を推測することなどできなかった。心臓を刺して、私がボロボロに傷ついている。けれど刺せばそれだけ、美里も返り血を浴びるのだ。美里も同じように、ボロボロなのではないだろうか。誰かを傷つけるとは、そういうことだ。分かっている。この状態の私が、美里を求めたら美里の傷は癒されて、欲望も愛も満たすことができる。美里にとってそれはハッピーエンドだ。でも、私はもう美里を選ぶことは許されない。美里にとっての幸せだった時間は、私の所為で終わったのだ。
通話が切れたスマホの画面には、旅行先で最後に私が撮った美里の全身だ。美里のはにかむ笑顔が映っていた。
長い、長い春休みが終わりを遂げた。進級して初めての大学だった。
伸びていた髪は、今は短い。彼は今度は興味を示してかわいいと言ってくれた。嬉しかった。行きたい所に連れて行ってくれたし、連絡の頻度も各段に上がっていた。彼は以前よりもずっと恋人のようで、私は愛されていた。
けれどスマホに映し出されるメッセージに彼はいても、美里はいなかった。美里の初恋の相手と同じ立場に、私も立っていた。あれ以来一切の連絡はない。申し訳なさを抱えながらも、美里が好きな気持ちは変わらなかった。美里に連絡をするのは最初は躊躇われたが、今はふと思い出せば連絡をしている。美里は頑なに無視を続けていた。
彼を好きな気持ちとは別で、私の高校時代の友達への好きも、アーティストへの好きや親への好きも、すべてが違う好きの形だった。十人十色の好きがあって、更にはその好きの種類も相手によって違う、そういうものだった。数多くある好きの中に、美里がいる。美里と恋人に戻れはしない。けれど、美里とのすべての関係を断ち切るのはただただ悲しかった。
美里はどんな思いで、私からの連絡を見ているのだろう。懲りない奴だなと思っているだろうか。それならまだいいのだ。美里が私をブロックしたり、アカウントを消さない理由を考えると連絡をすること自体罪な気がしてならなかった。それでも私は我儘だった。
美里は大学にいるだろうか。
私が注意深く大学内を歩き回ると、ひと際目立った美里を視界の端で捉えた。
私はもう手の届かない遥か遠くから、美里を見つめた。美里はもう寝坊などする必要はなくなったのだ。そして、美里の首にはあの頃のように、もう一眼レフはぶら下がってはいなかった。
ハッピー エンド とがわ @togawa_sora
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