第5話 覚悟

 ホテルに戻り、ディナーを食し、温泉に浸かった。

 何年振りの温泉だろう。身も心も熱くて仕方なかった。美里が横にいたからだろうか。何度も裸を見ているのにどうしようもなくくらくらした。幸せに溺れるとはこういうことなのだろうか。まだきちんと想いを伝えてもいないのに、この上なく幸せだと思った。

 こっぱずかしい気持ちが互いに伝染し、私たちは見つめながら頬を赤く染め上げた。二つの布団が並ぶ中で、私たちは同衾した。寝転がって掛布団で隠れながらくすくす笑った。誰もいないのにまるで修学旅行のようで、隠れながら唇を重ねた。美里の手がいつもより少し小さく感じた。

「せっちゃん、寒くない?」

「美里があったかいから寒くないよ。美里は?」

「あったかい」

そういって美里は私の肩に頬を擦りつけた。なんて可愛いのだろう。恐らく真正面から付き合えば、美里はとことん甘えてくる可愛い彼女になるのだろうと容易に想像ができた。

「美里、好きだよ」

その言葉は本心だ。本心だ。

「私も好きだよ」

美里の言葉と気持ちが、私の体中に響いて、悦んだ。




 目の前には昼間に訪れた神社の一部が広がっていた。夜の参道は更に奇妙で、寒くもないのに鳥肌が立ちそうだった。周囲の樹々が風に揺れてか、くすくすと笑うように擦れ合っている。歩いた感覚もないのに、昼間行ったおみくじ辺りが広がり始めた。そこには昼間はなかったはずの池があった。猿がいた。池を見つめているようだ。街灯は一切ないけれど、猿が池へ手を伸ばすのが見えた。同時に光も見えた。その光はその池と、そして夜空から発さられている。上を向くと、そこには月が浮かんでいた。雲が動いて月が顔を出したようだった。月はなんて明るくて儚げなのだろう。月に心を奪われた瞬間、ぽちゃんと水の音がした。池に目をやる。猿の姿は消え、池には大きな波紋が広がっていた。猿が池に落ちたようだった。池に近寄ってみる。覗いてみるとそこにあるのは夜空に浮かぶ月の分身。波紋は徐々に小さくなっていく。池に落ちた猿はもう姿を現すことはなかった。




 美里は私の左腕をまるで抱き枕かのようにして眠っていた。空いてる右手で枕元にあるスマホを手にし時間を見ると、朝の五時前だった。朝温泉に行くなら起きてもいい時間だが、美里に行くかどうかは聞いていなかった。気持ちよさそうに眠る美里を無理に起こすのはやめておいた。

 折角だからと、スマホのカメラ機能を起動させて美里に向ける。スマホ越しの美里も可愛く映った。本物はすぐ傍にいるのに、画面に映る美里にも手を伸ばしてしまいそうになる。


 猿は池に映った月を、本物と勘違いして手を伸ばしたのだろう。なんて滑稽だ。愚かな猿だ。けれどあの猿だって月は上にあるって分かっていたのではないか? それでも尚、池に反射する月に手を伸ばさずにはいられなかったのだろう。


 柔らかな表情で眠る美里の顔を見つめる。目を瞑っていると長いまつ毛が余計に長く感じる。なんて儚いのだろう。

 艶やかで小さい唇に吸い込まれるように、私は軽く口づけをした。できる事なら、今ここで起きてほしかった。愛が欲しかった。私に、痛いほど愛してるのだと伝えてほしかった。美里は、起きなかった。

 それでも美里は私と似ていた。



 知らぬ間に二度寝をしていた私が目を覚ますと傍には起きた美里の柔らかな笑顔があった。

「おはよ」

先ほどはまだ暗かった部屋が、外からの太陽光で部屋を明るくしていた。

「おはよう、今何時?」

「七時だよ」

「美里早起きだね? どうして?」

「ん~。なんか、目覚めちゃった」

「そうなんだ」

寝転がって頬杖をついていた美里は、それを止めて昨晩のように私の肩に頭を寄せた。

「朝はやっぱり寒いね」

私はそう言いながら、美里を抱きしめるように右腕を回した。

「……そうだね」

 覚悟を決めたと言っても、私はまだ行動に移していなかった。私が動かなければ、恐らくこの関係は成立しない。過去に期待をすることほど無駄なものはない。

「ねぇ美里」

「ん?」

 ふわっと柔らかく甘い香りが鼻腔を蕩かす。温泉で使ったシャンプーでもなく、香水でもない美里にしかない匂いだ。

 言葉にするのは少し難しい。躊躇いがあるのではなく単純にこっぱずかしいのだと思う。心臓のリズムは少しずつ速くなる。それを意識してしまうと、心臓はここにあるのだと実感する。


「付き合おっ」


 四つの音が連なって一つの言葉になる。しんと静まり返った空間に音を振動させようとすると、自分の発した音で世界がまた動き始めるようで緊張する。けれど数秒世界がまた止まる。緊張の混ざった沈黙は、果たして自分の発言が正しいものなのか考えてしまう。


 美里はしばらく黙っていた。間違えただろうか。そもそも美里にとってはもう付き合っていたのだろうか。今の私が美里にどう映っているのか、知る由もない。


 体感では二分ほど経過したかと思ったが、実際はそうではなく恐らく三十秒ほどなのだろう。

「うん」

嬉しそうな声だった。私が、満たされていく。

「美里、顔見せて」

「え~やだよ」

「なんでよ、見たい」

私の顔も自然と緩んでいた。やっとのことで美里が顔を見せた。頬を赤らめていた。

「可愛いね」

 恋の定義もないのだろうけれど、少なくとも私にとって恋とはこんな風に綺麗で、愛しさから胸が苦しくなるもの。美里との恋が初恋だと、思った。



 ホテルの朝食はビュッフェで、私たちは好きな食べものを皿に盛っては交換しながら食べた。

 旅行先で付き合い始めるのは、なんてロマンチックなのだろうと思った。急に美里の存在が特別枠に入ってきて、現実味を帯びていた。美里と目が合う度に、どこか照れくさくて幸せで満たされた。

「美里、このあと温泉行く?」

「ん~夜でいいかな? 折角だから出掛けようよ」

「そうだね」

 好物ばかりを並べながら、私たちはどこへ行くか計画を立てた。幸いにも、この土地には有名なスポットがいくつもあった。交通手段は限られているが、二泊の予定できていたため時間に余裕があった。


 朝食を終え一度部屋に戻る。互いが互いを意識し、服選びからメイクに慎重になる。

「お手洗い先いい?」

美里が訊く。

「いーよー」

 私は美里の可愛さには到底敵わなかった。髪が少し明るくなって垢ぬけたくらいで、特別可愛いわけではなかった。それでも可愛くなりたい気持ちはあった。それも美里に出逢って感化されたからだった。思い返せば、美里に逢って色んなことが変わっていった。

「あ、充電ない」

 スマホを出掛け用鞄に入れる際に充電が切れているのに気付いた。

「お手洗いあいたよ」

気付くと美里はトイレから出てきていて、準備万端で私の傍に立っていた。

「あ、うん。あのさ、携帯用充電器持ってる?」

「持ってないなぁ」

「だよね~。私も携帯用は持ってこなかったんだよねぇ」

「そっかぁ」

「ま、しょうがない。普通のは持ってきたはずだから帰ったら充電する」

「……うん」

「じゃあトイレ行ったらもういこ。カメラ持ってね」

 美里は何やら一点を見つめながら、頷いていた。

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