第8話「俺の教育係に距離を取られています」

「あああああ!!今すぐ忘れろーー!!」


 今日も今日とて来てそうそう机に突っ伏した俺は机をぶん殴って叫ぶ。

 ガタンッと揺れた机は、まだ人の少ない教室によく響いた。


「……どうしたの、蓮寺。昨日また女王にでも泣かされた?」


「また」ってなんだ「また」って。泣かされとらんわ。

 またかと語る顔をした明人は、慣れたように前の席に座って俺を覗き込む。

 コイツ前よりも遠慮がなくなってきてないか?


「……昨日、お前に言われた方法を試そうとしたんだが……出来なかった」


「ええ?またなんで」


 怪訝な顔をして眉を上げる明人。

 なんでって……それは……


 後もう少し前に出ればキスでもするかのような近さ。

 アイツのあの見たこともないほど驚いた顔に、まっすぐ見てくる黒曜石のように美しく濡れた瞳。髪から香る甘い匂い。

 びっくりするほど細かった腰の軟さが今も手に残っている。

 あんだけ俺と食ってるくせにめちゃくちゃ細かったし軽かった。


 昨日のことがさっきのことのように思い出されて、俺は勢いよく頭を机に叩きつけた。

 べ、別にいい匂いだとか、柔らかかったとか、驚いた顔が可愛かったとか思ってねぇし!!考えてないから!!


「…………言えん……」


 感情をなんとか抑えて明人に言う。心は依然として荒くれているが。


 言えん、言えるわけない。昨日急接近(物理)してアイツに呆れられた上に、最初のときよりも余所余所しい態度を取られているなんて……っ!


「いやいってくれないと俺っちが困るんだけど?マジで何したの。というかされた?そっちのほうが可能性あるわ」


「俺がした」


「ならもっと言えよ。俺に相談してんのは蓮寺なんだから」


 明人の尖すぎる言葉に俺は顔を上げる。

 痛い所を言われた。ぐうの音も出ない正論とはこのことか。


 しかし昨日のことを言うのか?コレに?絶対なにか言われるだろ。

 口を開いたり閉じたりして自分でもじれったい行動を取る俺に、明人は頭を揺らしていた。


「ホーラはーやーくー。俺っち自分の席に戻っちゃうよ?」


 子供のように間延びした言葉。

 その言葉を聞かせれたがなかなか言わない俺を見た明人は、本当に席を立とうと下半身に力を入れたので俺は慌てて明人の腕を掴んだ。


「言う。言うからちょっと待て」


「はぁ、分かったから早くしてよね」


 コイツ……相談相手じゃなかったら社会保障番号を消してやったぞ。

 そう負け犬めいたことを思う俺。前だったら絶対思わなかった。


 しかし今はあの女をどうにかして負かさないといけないし、それ以前にもう一度なんとかして前のように仲を縮めないと。

 負けたらアイツの紳士育成プログラムを受けさせられ、きれいな何とかに生まれ変わっちまう。


「その、な……昨日……」


「うん」


「詳細は省くが……アイツの目元に隈があるような気がして……」


「うん」


「それでちゃんと確認しよう、とだな……アイツの顔を掴んで」


「うん?」


 語尾を上げてヘラヘラとした顔が少しこわばっている明人。

 イヤイヤ、まさか。と言っているように見える。

 ……前はそこまで分からなかったのに……アイツの心理学のせいか。


「じっと見ていたら、顔が近いことを思い出して……傍から見たら抱きしめたようn」


「あ、もう良い。もう良い。言わなくていい。もう分かった」


 流石は遊び人だ。ココまででわかるなんて。

 明人は顔を隠して盛大なため息をつく。大きすぎて顔を隠しているのに息がこっちまでかかった。

 野郎の息なんて最悪である。


「…………ね、蓮寺。今から何言っても怒らないって約束してくれる?」


「突然なんだいきなり。……まあ許すかどうかは置いといていって良いぞ」


 約束したとは一切言っていないが、それでもその言葉にニッコリと軽薄な笑みを浮かべた明人は机に頭を勢いよくぶつけた。

 なんかどっかでデジャブを感じる構図だな。


「反応が童貞なんだよ!!マジもう面倒くせぇな!!普通に謝って終わりでいいだろうが!馬鹿じゃねーの!?」


 ワッと叫んだ声にクラス中が注目してくる。

 もちろん注目されているのは明人だが俺まで見られている気がしてならない。

 注目されるのは慣れているが、こんな注目の仕方は嫌だ。


 と、この机に突っ伏して酔っ払いのように文句を言う明人の生存権を消してやりたいが、何も言い返せない。

 俺だって昨日は自分の童貞丸出しな行動に吐きそうになったし、今この状況も初恋でもしたかのような反応だ。まあ、初恋はまだだけど。

 そんな訳で、俺は海よりも深く宇宙よりも広大な心で明人を許してやることにした。


「ごめん」


「ホントだよ!全く!」


 ハァハァと息を荒くして、軽薄に垂れ下がった眉を吊り上げた明人がようやっと顔を上げる。

 ブツブツと「前まではこんなんじゃなかったのに……いい傾向なのかわからないけど俺の胃は痛い……」なんて呟く明人だったが、あまり聞こえない。

 俺が聞き返すが、明人は朝からいように疲れた表情で首を振った。大丈夫か、コイツ?


「全ての元凶は蓮寺なんだけど、他人事みたいに言うの止めてよね……それで?蓮寺は女王と仲を縮めたいんだっけ?」


「そうだ、が……どうすればいいと思うか?」


 甘い言葉じゃアイツには効かないし、また離れられれば俺の敗北が色濃くなる。

 俺が困ったという表情をすれば明人はもはや菩薩のような顔になっていた。


「さっきも言ったけど普通に謝れば良いんじゃないかな。あの女王だって素直に謝れば許してくれるさ。そこまでの鬼だとは思わないし、話聞いた限りじゃ怒っていると言うより呆れていたんでしょ」


「ウグッ、確かにそうだな……」


 あれ程疲れた表情でため息を付いた女を見るのは初めてだった。

 たしかにあれは、怒っていると言うより呆れた表情だ。


「なら、謝ればいいよ。そしてこんなことに巻き込んだ俺にも謝って今すぐに」


「あの女に謝るかぁ……気は乗らんが」


「蓮寺?蓮寺クーン!?話聞いてる?俺にも謝って!!そういうところが駄目なんだと俺思うんだけどー!?」


 ギャアギャアと未だに騒ぐ明人をガン無視し、俺はアイツのことを思う。

 なんて言って謝れば良いんだ?普通にごめんか?

 いやでもあれがなんて返すか、嫌味を言われるだけならまだマシだが……


 始業のチャイムと明人のうざったい声を聞きながら、俺はあの女の反応をずっと考えていた。


 ****


「――昨日に続き今朝も申し訳ございませんでした、坊ちゃま」


「……え?」


 俺の部屋でいつも通り勉強をするため二人っきりになった途端、頭を下げてきた女。

 俺はいきなり過ぎるそれに思わず聞き返してしまった。


 休み時間明人を捕まえ、そしてソワソワとアイツに謝る練習をしていた俺の苦労は、目の前でいきなり頭を下げた女によって霧散した。


 え、え?何がどうなって……


「坊ちゃまはただ心配をしていたと言うだけでしたのに、この悠の態度のせいで頭を悩ませていたのに気づきませんでした。大変申し訳ありません」


「いや!俺も悪かった。いきなりあんなことをすればお前も固くなるよな」


 あまりにしおらしい態度。思ってたの違ってなんかヤバい。

 そう俺も同じように謝るが……何故かアイツは目を疑うようなものでも見たかのように俺を凝視していた。


「これは……え、いえ。そう言っていただけていただき、悠は心のつっかえが取れたような気がします」


 前半が聞きづらかったが、アイツははっとしたような顔で胸に手を当ててあんしたような顔をしていた。

 俺、耳は良かったはずなんだがな。


「いや、お前も元気そうになってよかったんじゃねぇの?次はちゃんとッ………」


 言葉をつまらせた俺に、アイツは首を傾げる。

 やっぱり表情が少し豊かになったなとか、厭味ったらしくないなとか。

 なんか色々思っていたけどアイツの口元を見て全部吹っ飛んだ。

 昨日のことがまた脳裏に浮かんで、鮮明にアイツの顔を思い出して、それが目の前の女と重なる。


 薄い桃色に、潤々とつやつやでプックリとした唇。

 それが薄っすらと開いていて下唇の存在がさらに強くなる。

 怪訝そうな顔だが、安心したのか少しだけ桃色の頬があの女のものと思えない。


「坊ちゃま?」


 妙に色気の含んだ女の声と、その唇が動く。

 それをあまりに凝視しすぎた俺は、いつの間に近づいた女の存在で意識を戻した。

 女は心配げな目で俺をみて、静かにおでこに手を当てている。


 ち、近っ……!


「あ、いや……っ」


「……熱はなさそうですね。大丈夫ですか坊ちゃま、顔が赤いですよ」


 具合悪いのであれば、もう今日はお休みに……

 そんな声が聞こえたような気もしたが、触れられた手の柔らかさとその近さに顔から火が吹いた。

 ぼっと頭が噴火したように感じたが、俺にはもうどうでもいい。

 今はここから今すぐ逃げたい。


「――っちょっと外走ってくる!!!」


 バンっと部屋から出ていく俺に、後ろから驚いたような声が聞こえた。

 しかし俺の足が止まること無く俺はその声を振り払って庭を走っていく。

 その時の速さは多分、バイクよりも早かったと思う。

 だが今尚俺の頭に浮かんでいるのは、意味のわからない羞恥心と甘く締め付けるなにかだけだった。


 ****


 坊っちゃんが部屋を勢いよく出ていき、私はその場に取り残される。

 普通なら、普通の私だったら坊っちゃんを今すぐ追っていたはずだ。

 今日の勉学は読唇術のものだから、早めに習得してもらいたい……筈なのに。


「……マジですか……」


 しかしさっき見たものが忘れられなく、私は足が縫い付けられたようにその場から動けなかった。


 ……今の、坊っちゃんの顔……


 赤く、りんごよりも熟れたその顔。

 恥ずかしそうに瞳を揺らし、私から反らしたその目。


 ああ、嫌だ……


「はぁぁぁぁ〜……まじですか……」


 へたり込んで膝を抱える私。その言葉はすでに崩れている。

 見られたくなく顔を隠したが、本当にこの部屋に誰も居なくてよかった。

 こんな間抜け過ぎる姿、母にだって見せたことはない。


 しかしあの顔は駄目だろ。


「なんで貴方までそんな顔をするのですか」


 昨日で見たような赤い顔。それと似た、いやもっと赤くなっているであろう坊っちゃんの顔が焼き付いて離れない。

 今日だけ、今日だけこんなに自分の記憶力が良いのが恨めしい。

 馬鹿ならどれだけ良かったのだろうかと、私はそれこそ馬鹿なことを思って深くため息を付いた。

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