第5話「俺の教育係と新しい日々」

 その日の夜は、テストを少しするだけで女はすぐに部屋に戻っていった。

 案外あっけなかったが、アイツは俺の条件を聞くこと無く微笑みを向けただけだった。


 なるほど、聞くまでもないと。

 余裕綽々なあの女は、閉める際にコッチを見たと思ったら鼻で笑って扉を閉めていった。去り際までムカつくやつだ。アイツめ。


 俺は絶対に勝って、アイツに俺という存在を認めさせてやる!

 そして惚れさせて絶対にこう言わせやるんだ。


『もう私、蓮寺様以外考えられない。蓮寺様が良いの!』


 とな!

 頬を紅潮させ、目をうるましたあの生意気な女は俺に縋り付いて俺に愛を叫ぶ。

 そんな女に俺は肩を掴んでこういうのだ。


『お前のような可愛げのない女は、御免被る』


 てな!

 ふふふ、良いぞ!とても良い!

 アイツ自身が否定した俺がアイツを振れば、あのプライドがエベレスト級の女はさぞかし愉快な顔で悔しがるに違いない。

 なんとも心が躍るではないか!


「ふふ、ふふはは、フッハハハハ!!」


 昂る思いとともに出た高笑いが、俺の部屋を反響していく。

 開いた窓から吹く風は、カーテンを揺らしながら春風を俺に伝える。

 その隣の部屋から、あの女が俺の高笑いすべてを聞いていたなんて知る由もなく。


 俺は笑い続け、泥のように眠り込んだ。


 ****


 こんな時間に高笑いとは、この屋敷でなければ近所迷惑だっただろうな。

 あの坊っちゃんが眠ったのを確認し、私は棚から出した一本のウィスキーをグラスに注ぐ。

 深いが、どこか透き通った琥珀色の液体は光を反射してグラスを満たす。

 果実のように甘い匂いと、香ばしいアーモンドのような匂いが混ざった酒を一口飲んで私は静かにため息を吐いた。


 今日一日でここまで疲れるとは、私もまだまだだ。


 本当は、柴田家の教育係を受けるつもりはなかった。

 柴田蓮寺という男の話はよく耳にはしていたし、何よりもその父親には近づきたくもなかった。

 前に教育していた生徒の誕生日パーティーに招待されたからと出たのが間違いだっただろうか。いや、しかしあの子は良い子だったしな。

 まさか二度と会わんと誓ったあの男に会うとは。私はやっぱり運が悪い。


 そんな私が受けた理由は、ほんの好奇心から。

 もしあの柴田家の男を、私が立派に教育してあげれば、もしかしたら……。

 そんな好奇心と期待から私は依頼を受けた。


 しかし、柴田蓮寺という男は色々と規格外だ。

 学力も体力も、私が見てきた中で最も優秀。頭一つどころの話ではないほど抜きん出ていた。


 その上あの容姿だ。女なんぞいくらでも群がってこよう。

 香色の柔らかくふわふわと巻かれたような艷やかな髪。

 サファイヤブルーのように美しい瞳は、垂れ気味の目によく映える。

 ニキビ一つない肌はハリと瑞々しさがあり、少し焼けた肌は健康的なものだ。

 体も非常に整っていたし、無駄のない筋肉はモデルでも通用しそうだった。

 確かに、あれ程整った容姿の男に口説かれればそんじょそこらの女はすぐにでも落ちるだろう。


 まあ、女遊びは激しすぎだが。


 しかしあれでまだ十五の少年だというのだから、いやはや世界は広い。

 流石は柴田家の嫡男。日本どころか世界の十大財閥の一つに数えられるぐらいだ。

 記憶力も要領もいいし、あれを教育するのは並のものでは不可能。

 返り討ちにされるのが関の山。


 私ぐらいなら、アレと対等になれる。

 しかしそれも今だけだ。きっとあれは私の考えられないほどのことをする。

 私も天才だと言われたが、あっちも同じく将来を約束され期待された神童だ。


 そんなやつの教育か。

 これほど楽しいものはないだろう。


 あの勝負も大変楽しい。

 あれが一体どういう条件で私に勝負を仕掛けてくるかは知らない。

 が、知らないほうが面白いだろう。


「是非とも、私に勝って見せて欲しいものだ」


 コトと置いたグラスは、少しの水滴を残して空になる。

 開いた窓から入ってきたまだ寒い春風は、酒の入った私の頬を撫でていく。湿った空気だが心地良い。


 あの坊ちゃんは、これから死よりも恐ろしい世界に飛び込む。

 裏切り騙し奪い合い。それが当然の世界。

 その世界に飛び込む準備期間前のこの高校時代に、なんとかあの性格をどうにかしないとな。

 すべてを変える必要はない。そんなことをすれば、あのカリスマ性は消え失せてしまう。


 私がすることは、単純。

 あの、世界を全て知ったかのようなつまらないと思う傲慢さを無くすだけ。

 そうすれば、あの坊っちゃんについていきたいと、他の人に思わせる事ができるほどのカリスマができあがる。


 まあ、そういうものを矯正するほうが難しのだけれど。


 勉強ができない。運動ができない。人を困らす暴れん坊なんかよりも、そういうものが一番難しい。


 だがこの三ヶ月で、必ず変えて見せる。

 私はそう心に誓いながらグラスを片付けベットに入り込む。


 そんな私の後ろで、月明かりが差し込む棚の上に置いた桜のイヤリングが僅かに反射させていた。

 その傍に一枚の写真を置いて。


 ****


 あの契約から7日がたった。

 その間、俺がアイツの表情を変えることが出来たのはゼロ。一切の進展はない。

 ……あの顔実は取外し可能なのでは?


 そんな馬鹿なことを考えることが多くなった。ぶっちゃけ有り得そうだが。

 この三日、初日のときと変わらず、俺はアイツに走らされては嫌味を吐かれたり、ピーマン入りのスープを無理やり飲み込む俺の顔を楽しげに見られたり。

 ……アイツの作った弁当をもたせられたりしていた。


 あの弁当。俺はアイツが作っていないと思っていたが、シェフがメイドと話していたのをたまたま聞いてしまった。

 シェフが言うには、朝5時に起きてすぐに弁当作りをしていたらしい。

 たかだが弁当にそこまでするかと、メイドたちは引いていた。


 アイツは、そんな時間に起きてわざわざ作っていたんだ。俺のために。

 それを知った時、俺は胸の内が暖かくなるような気がした。

 が、その後の勉強でアイツにネチネチと言われたので本当に気の所為だと思う。


 そんな俺とアイツの新しい日々は、今日も朝から始まる。


 8日ぐらい繰り返していれば勝手に体が覚えるのだろう。

 あれほど眠いと思っていたはずなのに、俺の脳は勝手に6時に起きてしまった。

 前まで起きてもハッキリとしなかった脳の働きは、その時起きればハッキリと機敏に活動していった。


 俺は凝り固まった体を伸ばして解す。

 寝癖のついた髪を手ぐしで直していれば、閉まっていたカーテンが何者かによって開かれた。


 開かれた窓からは紫色の春の空が見える。

 ほんの少し明るい空の光で、窓を開けた人物が浮かび上がった。


「おはようございます坊ちゃま。今日は寝坊してないのですね」


 ピッチリとした服は一切の肌の色を見せず、相変わらず硬い印象をもたせる。

 しっかりとまとめられた髪と、光に反射した桜のイヤリング。

 そして俺に微笑んだその顔。


「今日じゃねぇ。昨日も寝坊してねぇよ」


 いつの間に部屋に入ったんだとツッコみたいしノックしろと言いたいが、それはもう諦めた。

 一切の気配も音も感じさせないコイツは忍者か何かだと思う。

 無駄に高いスキルだ。


「そうでしたか?それは申し訳ありません坊ちゃま。それでは、今日も一日頑張りましょうね」


 そう言ってニッコリと笑った女に、俺はフンと鼻を鳴らした。


 ****


 ここ一週間で分かったこと、それはあの女に甘くて臭いセリフは通じない。ということだ。


 どんなに甘いセリフでアイツを褒めても、鼻で笑われ躱されるばかりだ。

 ということで、甘々な態度でアイツを落とすのは三日で止めた。

 鼻で笑われ続けてもキツイだけだしな。それに恥ずかしい。


 そうして止めたが、そんな俺にアイツはニヤッと笑ってこう言った。


「おや、もう終わりですか?どんな言葉が来るのかと聞いていましたが、語彙力でも尽きてしまったのですか?」


 なんて言ってアイツは俺に『女を口説く方法十選』と書かれた本を手渡してきた。

 今頃はリサイクルされて新しく生まれ変わっているだろう。


 そしてあの勝負の話をした翌日からアイツの教育は本格化した。

 勉強もあのテストが終わってから本格的に始まったが、やるのは五教科などの高校でやるようなものではなく経済学や語学。

 そして心理学だった。


「坊っちゃまは既に大学までの基本教科は終了しています。ですので私がお教え致しますのはこれから坊っちゃまに必要となっていくこれらの教科です」


 と言って教わったが、めちゃくちゃ教えるのが上手かった。

 明人から聞いた噂が案外間違いではないなと、俺は認めざるおえなかった。


 そして、今日も俺はアイツに見送られて学園に行く。

 これが、1週間たった俺の日常だ。

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