飽和した猫
そのニュースの内容は、つかみどころがなかった。ニュースライターは、その現象をうまく説明しようと、色々と言葉を組みあわせてニュースを組み立て、アナウンサーに原稿を読み上げさせたが、それは結局、猫が飽和した、ということだった。
一体どういうことか。ことの経緯を説明するには、量子力学の話から始めなければならない。量子レベルの小さい世界では、重ね合わせという、あるともないとも言える状況が発生する。コインで例えるなら、裏と表が同時に存在しているということだ。そしてそれが表か裏か確定するのは、誰かが観測したときだというのだ。そんなことは非論理的で、ただの言葉遊びのようにも思えるが、量子のような、ごく小さい世界では、そのような理論が組み立てられている。
しかし、そのように論を組み立ててしまうと、現実のスケールで重ね合わせを作れてしまうのだ。それを指摘するのが、シュレーディンガーの猫という思考実験だった。閉じた箱の中に、猫と毒を入れる。この毒は、量子の状態によって作動し、そのとき猫は死んでしまう。誰も観測していないとき、猫は生きているのだろうか、死んでいるのだろうか。その問に対する量子力学的答えは、誰も観測していないときは、量子は異なる状態を重ね合わせて存在しているため、毒は作動しているとも、していないとも言える。つまり、猫は死んでいると同時に、生きているのだ。これによって、量子の世界が現実のスケールに出現し、いわば生と死が重ねられた量子猫が生まれる。
しかし、これは単なる思考実験だった。昨日までは。この思考実験を、実際にある国の科学者がやってみたのだ。彼を行動の人と称賛するべきか、動物の命を軽んずる悪魔と軽蔑するべきかどうかは、議論の的にはならなかった。それは、まさしく量子猫の誕生のためであった。
それはまったく掴みどころがないのだが、まさしく、生きているとも、死んでいるとも言える猫だった。それを言語化することは不可能だった。量子猫は、ひとつの真実を人々に伝えた。それは、絶対的なものはないということだった。すべては帰納的であり、演繹的なものというのは結局、帰納的なものから帰納的なものへの、一種のダイナミクスだったようだ。すべては自然から生まれ、自然から組み立てられていた。科学が構築してきたものは音もなく倒壊し、量子犬や、量子リンゴ、量子日本が生まれた。そのようにして、東洋的な思想が世界を包み込んだ。
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