平凡
その男は、平凡な男だった。しかし平凡であるということには、何かちょっとした器用さがなければ不可能なことだった。そのことについて、自らが平凡であることを自覚しているこの男は、先日経験したばかりなのだった。
八日前。男は仕事帰りに、バーでひとり酒を飲んでいた。最近の男の楽しみはそれしかなかった。仕事も家庭も趣味も、何ひとつとして無味無臭だった。酒だけが、意味もなく魅力的な香りを放っていた。男はそのことが虚しかった。
突然男に声をかけてきたのは、見ず知らずの女だった。彼女は美人とは言えないが、何か魅力的な雰囲気を纏っていた。
「何のお仕事をなさっているの」
男は驚いた。こういう経験を、男はあまりしたことがなかったのだ。
「商社の財務部ですよ」
そう伝えると、女は少し驚いた顔を見せたので、急いで付け加えた。
「商社と言っても、ちょっとした製粉を売買するだけの、小さい会社です。僕は財務部ですから、会社の運営をよく把握していますが、いつまでたっても成長しません。僕自身も、ずっと昇進なしです。給料も雀の涙。小さいころから数学が好きでしたから、数字を扱う仕事に就きたかったんです。でも数学者になれるほどの才能はなく、小さい会社の帳簿を付けるくらいが僕の実力なんだ。阿保らしい」
男は一気に酒を呷った。そんな飲み方はついぞしてこなかったので、男はむせた。女はそれを見て笑った。
「あなたはすごく平凡な人間だわ。でも、一体どれだけの人が、平凡になれるのかしら。大多数は、平凡にすらなれずに苦しんでいるのよ」
女は視線で、男の後ろ、席が三つ分ほど離れた男を指した。
「彼は、一流企業のエンジニアよ。年収は、多分あなたの倍以上あるわ。でも、彼は吃音なの。それを受け入れてしまえればそれでいいけど、彼はプライドが高いから、滅多に喋らないわ。どうしても喋らないといけないときは、喋らなかった方がいいくらいにどもるの。その度、彼は顔を真っ赤にして、今にも泣きだしそうになるわ」
男は視線だけを吃音の男に向けた。彼は何か欠けた人間に見えなかった。体格がよく、質のいいスーツを着こなしていたため、何もかも充足した人間に見えた。
「どうして、あなたはそれを知っているんです」
「世間は狭いのよ。ちょっと社交的な人間なら、適当に入った店にいる客のひとりやふたり、何かしらのことを知っているものだわ」
男は、そうなのかな、と思ったが、あまり彼女の言葉を本気にしなかった。第一、彼女がどんな人間か知らないし、あの質のいいスーツを着た男が、何か人生に苦しんでいるようには見えなかったからだ。
「ところで、あなたは何の仕事をしているんですか」
女はいたずらっぽく笑い、「何をしているように見えるかしら」と言った。男は改めて、女の風貌を観察した。彼女は変に社交性が高かったが、薄い化粧や露出の少ない服装から、水商売ではなさそうだった。むしろ、よく観察してみると、所々知性を感じさせる体のパーツが目立った。細い眉、締まった唇、健康的な肌色。しかし、彼女は決して美人ではなかった。
「どこかの営業とかですか」
彼女はいたずらっぽく笑い、「違うわ」と言い、名刺を見せた。そこには、【秘密結社 影の会】と印刷されていた。
「阿保らしい。それが仕事ですか。冗談にしても、あまり笑えませんね」
「私も、働いている意識はないわ。ただ、ここに所属していて、それで生活しているの」
「一体、どうやって利益が発生するんです」
「それは、組織の構成員だけが知っていいことよ」
男は、女の表情と声色から、察した。
「なるほど。これはスカウトだったのか。しかし、それにしても下手なスカウトだ。怪しすぎる。詐欺集団だ」
「少しの興味も湧かないかしら」
「湧きませんね。これっぽっちも」
すると、女は席を立ちあがり、「いい夜を」と一言発すると、次は、吃音の男の隣に座った。ほんの少しやりとりがあった後、吃音の男は店内に響き渡るほど号泣し始めた。しばらくして男の涙が枯れると、彼は女とふたり、夜の街に消えた。
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