審判

 その男は死んだ。交差点で、信号無視をしたトラックに轢かれたのだった。意識が再び目覚めた男は、ぞっとするようなあの瞬間、鉄の壁が鈍く迫ってくる、妙に時間の流れが遅く感じたあの瞬間を思い出し、心臓が縮み上がるのを感じた。しかしすぐに、今いる場所が、搬送される救急車の中でも、病院のベッドの上でも、手術台の上でもないことに気づき、不思議に思った。体が軽く、痛みもない。辺りは柔らかい光に包まれている。男は直感的に、ここが死後の世界であることを悟った。

 男は周囲を見渡した。辺りには何もなかった。だからこそ、広がる地平線の果てに見つけた一点が、非常に目立った。それはよく見ると人影で、ゆっくりだが、確かにこちらに近づいてきているようだった。その人物が男の前に現れるまでのその時間は、一瞬のようでもあり、何千年もたったかのようでもあった。その人物は背が高く、威厳に満ちていたが、男か女かわからなかった。

 その人物は優しく男を見つめ、言った。

「天国か地獄どちらに行くか、審判させていただきます」

 男は急な出来事に驚いた。しかし、男は生前、何も悪いことをしていなかった。多少の罪はあったかもしれないが、地獄に落ちるほどのことではない。彼は落ち着きを取り戻した。

「わかりました。どうでしょう、たいして悪いことはしていないと思いますが」

 その人物は黙って男を見つめ続けた。その表情からは何も読み取ることが出来なかった。真っ白なキャンバスのようなその表情は、見る者によっては恐怖にも、喜びにもなるものだった。男にとっては、後者であった。

 やがてその人物は、微笑を浮かべて、ゆっくりと語った。

「相対性理論の発見は、見事なものでした」

 男は唖然とした。

「それは私ではありません。アインシュタインという人物の功績です」

「ええ、わかっています。私は、あなた個人に注目しているのではありません。人類全てに注目しているのです」

「どうして僕に対しての審判なのに、全ての人々に注目するのですか」

 その人物はその問いに答えなかった。その代わりに、人類が成し遂げた数々の偉業を、美しく語った。功績だけではない。奇跡のように美しい人間愛、優しさ、慈愛。それらが輝きを放ちながら語られた。はじめは困惑していたが、男は次第に感動に心を震わせた。これら全ての出来事が、同胞である全ての人々の絶え間ない努力、本物の愛によって成し遂げられたと思うと、涙さえ伴う感動であった。何十年も、人類の功績と美しさは語られたようだった。しかしそれは一瞬のことであった。審判者は語りを止めた。男は感涙に浸って言った。

「僕は人として生まれたことを誇りに思います」

 審判者は微笑をこぼした。その後、ゆっくりとこう語った。

「養豚場とは、残酷なものを発明しましたね」

 男は首を傾げた。それを皮切りに、審判者の口から語られるのは、人類の悪行の尽きぬこと。男は何やら気配を感じ、不意に視線を横に向けた。……動物の群れが、それも、吐き気を催すほどに数え切れぬほどの群れが、見えない階段を上るかの如く、天高く昇ってゆく。男は血の気が引いていくのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る