第2話:眠りの谷・中編
「あ、切られた」
「別にもう訊くことねーんだし、別にいいだろ」
フラウカ、オレリアの隣の州にあるバーに二人はいた。隣同士のカウンター席で話し続ける二人の間には、つい先ほど通話の切れたスマホが置かれていた。
レヴィリアが小さなグラスに入れられた安酒を煽る。彼もリディアも、お世辞にも贅沢はできない身分だった。大きなボストンバッグ一つずつで世界各地を巡る
そんなように酒を飲むレヴィリアの隣で、まだ十六の弟リディアはコーラを飲んでいた。突っ伏すようにカウンターに前のめりにもたれ、手を使わずにストローをくわえている。兄から行儀が悪いぞ、と注意されたが彼はひと睨みでそれを一蹴した。ずぞ、とストローが音を立ててコーラを吸い込む。コーラのような見た目をしているが、どうも普通のコーラよりも薬膳の味が強いような気がする。ノンアルコールのメニューから適当に選んでしまったため、リディア自身もこれが本当にコーラなのかは知らなかった。
「で、どうする?ヒュプノスの角だって」
「どーするもこーするも、調べるしかねーだろ」
ストローから口を離し、頬杖をついて兄に訊ねる。兄からは至極簡単な返答があった。
「調べるならフィムに頼めばよかったじゃん」
「あいつ、知識は多いけど新しいこと調べんのは遅いんだよ。今時検索も満足にできないような奴だぞ?」
「あー……」
大袈裟に肩をすくめて見せたレヴィリアにリディアが苦笑いする。それにフィムの方から電話を切ったということは、それ以上話せることがないということだ。
「行くか、図書館」
「ラップトップで調べた方が早いだろ」
「伝承や神話絡みなら図書館の方が楽だよ」
「俺はお断りだね。活字なんて見てるだけでそれこそ眠っちまう」
「あっそ」
二人が同時にそれぞれのグラスを傾ける。リディアのストローがまた音を立てた。窓の外はまだまだ真夜中の暗さだ。
レヴィリアはその窓をちらりと見るとリディアに視線を戻した。リディアもその青い瞳でレヴィリアを見つめ返す。二人は小さく頷くと、数枚の硬貨と紙幣を置いて席を立った。
オレリア州の集団自殺事件。ミサの数日後、教会で参加者が全員死亡していたという不可解な事件だ。死因は全員が餓死。ミサに参加していなかった近隣住民によると、ミサがあってからの数日もの間、参加者たちは一人も教会から出てきていないというらしい。その数日の間に教会を訪れた人々は口を揃えてこう言った。
「全員、寝てやがる」
詰まるところ、数日もの間ずっと眠っていたせいで餓死した、というわけである。他殺にしては不可能な点が多いため、自殺と推定された。
レヴィリアとリディアはこの事件を調べるためにわざわざオレリア付近まで訪れていた。
天使の関わる事件は大抵において人間には不可能なことが起こる。そういった超常現象を追って、それを引き起こしている天使を狩るのが二人の仕事だった。
初めは風の噂程度に聞いただけだった。「オレリアで、集団心中があったらしい」と立ち寄ったバーの客が話しているのを聞いた。それから列車を乗り継ぎ、オレリアまでたどり着いたのがつい一昨日の夜のこと。その次の日は丸一日聞き込み調査に費やし、そして今に至る。
バーを出て冷たい風に当たった二人はそのまま荷物の置いてある宿へと向かった。バーから近いところを選んでおいて正解だった。
「いいかリディア、二時間寝たら調べ物だ。わかったな」
「いつも寝坊するのは兄貴だけどね」
宿の部屋で二人が確認し合う。兄弟とはいえ、流石に同じ寝室で寝るつもりはなかった。
二時間後にリビングで落ち合う約束をして、二人はそれぞれ割り当てられた寝室へと引っ込んでいった。
彼らは一体何を調べていたのだろうか。
寂れた山小屋でフィムはふと思った。これは割とよくあることだ。あの兄弟は自分たちの知りたいことだけを簡潔に訊ねてくる。余計な情報が無いのはありがたいが、それゆえになぜそれを調べているのかということが判りにくかった。
兄弟たちが旅先であらゆる超常現象に首を突っ込んでいることはフィムも知っていた。しかしフィムは兄弟の居場所すら知らないのだ。ごく
天使から与えられた力の一つに、瞬間移動のようなものがあった。特定の人物のいるところへ瞬時に移動できる力だ。それがなぜレヴィリアのところへだけしか行けないのかはわからないが、今までも何度かその能力に助けられてきた。この力が無ければ、あの兄弟は五回ほど死んでいただろう。
天使の寵愛を受けた彼は、通常の人間とはやや違うところがあった。瞬間移動はもちろん、暑さや寒さに鈍くなったり痛みをたやすく抑えられたり、離れたところにいる相手と会話ができたり。なぜ自分にこんな恩寵が与えられているのかはわからないが、フィムは持ったものは惜しみなく利用する性格だった。
寵愛といえば。フィムはふとあの兄弟の弟の方を思い浮かべた。少年リディア・ディーンはフィムとは逆に悪魔の加護を受けていた。どのような経緯でそんなことになったのかは聞いたことがないが、確か彼は青き空間の悪魔の力を授かっていたはずだ。おかげで彼だけはフィムよりもたやすく空間を移動できた。今この場に急にリディアが顔を出したとしても、フィムはさして驚かないだろう……パーソナルスペースを無視した、真正面では無い限り。
だからこそ、フィムは驚いてソファからずり落ちそうになった。
「フィム、ヒュプノスの角について名前と効果以外に知ってることはない?」
フィムの真正面、ローテーブルよりも二十センチほど上の空間に不自然な穴が空き、そこからリディアが顔を出していた。背景を見る限りどうやらどこかの安宿に泊まっているようだ。
「……すまない、知らない」
「まあそうだよね。ありがと」
それだけ言うとリディアは顔を引っ込めた。空中に空いた穴がするすると塞がり、元通りになる。フィムはその様子を相変わらずの無表情で見ていた。いきなり目の前に現れるのは驚くが、帰っていく姿なら飽きるほど見たことがある。
きっかり二時間後。フィムのところに顔を出したりしていたため丸々眠れたわけではないが、リディアは兄に割り当てられた寝室の扉を蹴破っていた。
「起きろバカ兄貴」
不明瞭な唸り声がベッドの中から聞こえてくる。リディアはそれに近づくと何度か兄の腹だろうあたりを突く。レヴィリアは寝返りをしてリディアに背を向けると、そのまま睡眠を続行する。
「クソ兄貴。起きないと夜這いするよ」
「それはごめんだ」
リディアが呆れたように心にも無いことを言うと、レヴィリアはバネ仕掛けのように飛び起きた。
「まあ今夜じゃないし夜這いなんてしたくもないけど」
それはそれで男として傷つく、とレヴィリアがリディアにタオルケットを投げる。それを華麗に避けると、リディアはリビングへと手招きした。
今日はオレリアの州立図書館に行った後に問題の教会を覗いてみる予定だ。そのためには割と朝早くから行動しなければならない。
リディアがリビングのカーテンを次々と開けていく。まだ薄い朝日が部屋の中に差し込んだ。レヴィリアはそれを手のひらで遮りながら眩しい、と文句を言う。
「さっさとご飯食べて、出るよ」
朝ごはんと言うには少し早すぎる食事を用意する。とは言っても近所のスーパーで買ってきたパンやハンバーガー、ポテトばかりだが。
「野菜ねーのかよ」
「……レタスなら」
「それハンバーガーに挟まってるやつじゃねーか」
「だって食べる人いないでしょ」
手早く口の中にハンバーガーを押し込みながら会話する。急いで食べれば始発の列車に間に合うかもしれない。
リディアはパンを一つだけ食べると立ち上がった。
「じゃ僕、荷物片付けてくるから。兄貴は食べ終わったらリビングのよろしくね」
「ふぁーい」
そう言うとリディアは寝室へと引っ込んでいった。武器なども散らかしてあったはずだから、片付けを終えるには少し時間がかかるだろう。そう考えながらレヴィリアは三つ目のハンバーガーにかぶりついた。
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