#02 シュウ 19
―シュウ 19―
「うわぁヤバい、遅刻だぁ。シュウ起きて、起きて」
「んん~、何時ぃ?あぁヤバいねぇ」
「早く早く、今日一限だよ。早く服来て」
「ふわぁ、パンツどこぉ?」
女の子の部屋。マンションの一室。大学のクラスメートの部屋だ。一応、彼女というのだろうか。一人暮らしの彼女の部屋は、きれいに整理され、新しい家具に囲まれ、ぼくにとっては別世界だ。親がお金持ちなのかは知らないけれど、いい生活してるよなぁなんて思いながら、ぼくにとっては都合のいい場所だった。実家住まいのぼくは、家に帰ったところで何かあるわけでもなく、バイトのない日は決まってここに転がりこんでいた。
地上8階。街が広がっている。窓の外を見れば、明るい陽射しが輝いていた。空の色はもう夏だ。もうすぐ夏が来る。
「ねぇ、夏休みはどうすんの?やっぱり田舎帰るの?」
「帰るよ。会えなくなっちゃうね。シュウは寂しい?浮気しないでね」
そっかぁ。行くとこなくなっちゃうなぁ。
ぼくはどこにでもいる大学生だ。いや、むしろしょうもない大学生だった。頭も良くない、スポーツも興味ない。特別派手なわけでもなく、かと言って地味なわけでもない。まぁ、ちょっとだけ顔の作りがいいみたいで、わりかし女の子にはモテる方だ。自慢できるとこなんてそれくらいかな。せいぜいロックが好きな、普通の大学生だった。
別に、すごく楽しいこともないけれど、いやなこともない。夢だとか希望だとか、そんなものがあるわけじゃないけれど、特別大きな不満もない。ずっとこのままでいいんじゃないか。大人になんてなりたくないし、がんばるとか努力するとか、ちょっとかったるいよ。
ベルベット・アンダーグラウンドってバンドが好きで、そのバンドが奏でる退廃的な匂いがぼくの気分にぴったりだった。『スイート・ジェーン』とか口ずさみながら、くすぶった毎日を過ごしていたんだ。
ぼくが住んでいるのは、埼玉では一番大きな街、大宮。でも、やっぱり埼玉だ。決して東京ではない。普通のサラリーマンの家に生まれ、やはり埼玉にある地味な大学に通っていた。なんというか、このすべてにおいて中途半端な感じ。そこが嫌なんだけれど、実は居心地よかったりするんだなぁ。
たまに東京に行くと感じるんだけど、やっぱり人種が違うんだなぁ。東京の人は東京人だ。埼玉の人間とは何かが違う。埼玉だっせぇなぁなんて思うんだけど、東京も怖そうだなぁとも思う。
大宮の街の一角には、南銀座、通称ナンギンと言って、いわゆる飲み屋や風俗なんかが集まった夜の街があった。ぼくはそのナンギンの外れにあるコンビニで深夜のバイトをしていた。なんでそんなとこでバイトしてるか。コンビニなんてどこにでもあるじゃんって? だって時給が良かったのだ。まぁ、働いてみてわかったんだけれど、場所柄、夜中が忙しいんだ。仕事を終えた夜の街の人たち、きれいなお姉さん方が夜中の2時とか3時頃にどっと押し寄せるんだ。コンビニの前にはそのお客さんたちを狙って、タクシーがズラッと列を作って待ってる。そんなお店だった。
大学一年生、18、19の小僧には、そんな大人を感じさせる女の人たちや、ぼくの知らない夜の世界の空気が刺激的で、ちょっと楽しかったのだ。だって、お酒の入ったきれいなお姉さんに、いくつ?大学生?なんて聞いてこられたら、そりゃあときめくってなもんだ。
そんな昼夜逆転の生活をしてるもんだから、当然大学は休みがちだった。なんとなく大学はどうでもいい場所になっていたけれど、かといって他に何か大事なものがあるわけでもない。まったく中途半端なぼくだった。
そんな頃、ぼくはある女のコが気になり出していた。深夜のコンビニに現れるお客さんだ。夜中の2時過ぎに、毎日のように来ていた。すごくきれいなんだけど、雰囲気というか、漂うオーラが他の夜のお姉さんたちとは違うんだ。影がある感じとでもいうか、哀しさを感じるとでもいうか。こんなきれいなコなのに何があったんだろうなんて、不思議に思っていた。そして、いつしかぼくはそのコが来るのが楽しみになっていた。
秋が過ぎて、冬が来た。ぼくは思い切って声をかけてみた。
「最近来なかったけど、休んでたんですか?」
彼女はびっくりしたようにぼくを見た。あたりまえだ。
「風邪ひいちゃって・・・」
そしてぼくは、彼女の後を追って店を出た。電話番号教えてくださいっ。レジの前
はお客さんが並んでいたけれど。
いやっほう。BGMはブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』、行っち
まえだ。
後から聞いた話なんだけど、彼女もぼくのこと、コンビニの男のコって感じで、気にしてくれてたらしい。
ぼくがバイトの休みの日に、彼女の仕事が終わるのを店の近くで待って、ぼくがクルマで家まで送って行く。途中で24時間営業のファミレスに寄って、1、2時間おしゃべりをする。そんなデートが始まった。夜中に家のクルマで出かけて行く息子に、よく親は何も言わなかったもんだ。
浅川詩織、19歳。ぼくと同い歳。
スラッとしてて、長い髪。細い腕。顔立ちははっきりしてるし、きれいなコだと思う。なのになんというか、服装もメイクも決して派手ではないし、むしろ目立たないようにしてるのかとさえ思うくらいだ。
関西は尼崎の出身で、高校生の時に映画のオーディションに応募して、そのまま芸能事務所にスカウトされてこっちに来たらしい。
親戚の叔父さんがこっちにいるとのことで、近くに部屋を借りて、高校は夜間に転校、昼間働きながら週末は事務所のレッスンを受ける。そんな生活を始めたらしいけど、金銭的に余裕がなくなってレッスンは続かず、芸能界への夢は半ばあきらめているとのこと。今働いているのはクラブだけれど、決してやましい仕事ではないこと。この春に高校を卒業するけれど、その後どうしようか考えているところ。
そんなことを聞き出すのに数週間。そりゃさぁ、ナンパみたいな始まり方だから警戒するのも無理はないけどさぁ、もうちょっと話してくれてもいいんじゃない。一緒にいる時に、ぼくがどれだけ笑わそうと思って必死になってるか。渾身の一発ギャグが効かない時の虚しさったらもう。
「もう女優さんは目指さないの?」
深夜のファミレスは人もまばらだ。一人で来ている若いお客さんが何人もいる。なんでこんな時間にこんな所にいるんだろう。ぼくは不思議だった。
「うん、もういいんだ。高校卒業したら、尼崎に帰ろうかな」
詩織さんはいつも温かいミルクティーをたのむ。ぼくはコーヒー。もちろんブラックだ。ぜんぜん美味しいとは思わないけれど、女の子の前ではブラックだ。二人とも飲み物はなくなっていたけれど、正直まだ帰りたくない。
「尼崎っていいところなの?」
「ぜんぜん。嫌いな街」
「ふーん、なのに帰るの?」
詩織さんは遠くをみつめていた。
ぼくは尼崎という場所を知らない。嫌いだというのに、なんで帰るの?せっかく知り合ったのに、離れたくない。もっと仲良くなりたいんだ。
ようやく打ち解けてきて、彼女、詩織さんも笑ってくれるようになってきた。ただぼくは、彼女に対して大きな劣等感を抱えてしまうのだけれど。
彼女は今、親を頼らずに自分の力で生きている。夢を叶えようと頑張ってきたんだ。それなのにぼくときたら、親の金で大学に行って、何の目的や夢もなく、ただ毎日を無意味に生きている。同い歳なのに彼女はすごいなぁ。ぼくが今まで過ごしてきた普通の日常にはいない女の子だった。大人だと思った。ぼくよりずっと先を行っていると思った。ちょっとした衝撃だった。夜の仕事は正直いやだけど、ぼくに何が言えるってんだい。気分はロッド・スチュワートの『マギー・メイ』、あの切ない感じだ。ぼくは詩織と真剣に付き合いたいと思うようになっていた。
そうしてぼくは詩織と過ごす時間が増えていき、まったくと言っていいほど大学には行かなくなっていた。
詩織が休みの日に、ぼくはドライブデートに誘った。もちろん親のクルマだ。詩織は高校2年で親元を離れこっちに来たけれど、ほとんどどこにも行ったことがないと言う。よっしゃあ、デートと言ったらやっぱヨコハマでしょう。レッツ・ゴー!
中華街を歩き、クルージング船に乗り横浜湾を一周、山下公園を歩いた。冬だったけど、寒さなんて気にならないね。ぼくは手をつなぎたかったけど、ちょっと勇気が出なかった。
「すみませーん、写真撮ってもらえますか?」
氷川丸をバックに並んで撮った写真は、その後ぼくの宝物だ。
ぼくは思い切って聞いてみた。
「詩織は好きな人いるの?」
ぼくの横を歩いていた詩織は、すっと向きを変える。海を臨む手すりに手をかけた。遠くの海を眺めて、しばらくだまっているのだった。
「いたよ」
詩織がぼくの方を振り向き答えてくれた。
「え、いた?誰?」
「ふふ、教えない」
「え~」
19歳。まだ恋人同士ではないけれど、ぼくは詩織のことが好きだ。もっと時間をください。もっと時間があれば仲良くなれる。きっと何かが変わる。そしたらもっと良くなるよ。詩織をいっぱい笑わせたいんだ。笑った顔の詩織は最高だよ。あぁ、ヨコハマっていいとこだなぁ。ぼくの頭の中では、エリック・クラプトンの『愛しのレイラ』がぐるぐる回っていた。
「ねぇシュウくん、焼き鳥食べに行こう」
「え、焼き鳥?」
ある時、ぼくと詩織は近くに住んでいるという叔父さんに会いに行った。小さな商店街で、夫婦で焼き鳥屋さんをやっているとのことで、二人でお店を訪ねたのだ。
「すごくいいお店なんだよ。中でお酒も飲めるし、アットホームな感じでいいんだから」
小さなお店ではあったけれど、板張りの店内は独特の風格があり、落ち着く空間だった。
「シュウくんかい。ビール飲む?」
詩織の叔父さんというその人は、人懐っこい笑顔でぼくにビールを注いでくれた。
「すみません、開店前の忙しい時間に」
叔父さんと奥さんは忙しそうに準備をしていた。長く夫婦をやり、一緒にお店もやり、お互いを理解し信頼しているんだろう。ぼくはお二人を見て、少しうらやましかった。
「ね、いいお店でしょ。この内装、全部叔父さんがやったんだって。すごいよねぇ」
詩織の両親は、詩織がまだ小さい頃に離婚して、母親とおばあちゃんに育てられたそうだ。父親の記憶はないと言っていた。今の詩織にとって、この叔父さん夫婦が親代わりみたいなもんなんだろう。ぼくはとても恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
叔父さんはぼくのことをあれこれ聞いてくる。温かく迎えてくれてるのはよくわかるんだけれど、そんなにぼくのこと聞かないでください。大学生です。それ以外、ぼくには何もなかった。むしろ、大学生でいることすら恥ずかしい気持ちだった。何を聞かれても、ぼくという人間がどんな人間なのかを伝えるようなことは何も言えなか
った。
ぼくは何もない人間なんです。そんな気分だった。自慢できるようなことなんて何もないんです。詩織にふさわしい男なんかじゃないんです。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
その夜、詩織の部屋で一夜を共にした。一緒にベッドに入ったにも関わらず、ぼくは詩織に指一本触れることができなかった。本気で好きになると、簡単に手なんか出せないんだなぁ。眠れずにぼんやりと暗い天井をみつめながら、ぼくは考えていた。このまま詩織と一緒にいたい。故郷に帰すわけにはいかない。詩織と一緒に生きていきたいと。心の中で、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』を歌っていた。
大学に退学届けを出したその足で、ぼくは詩織の部屋へ急いだ。親には、家を出て独立したいと話した。当然、困惑はしただろうけど、大きく反対されることはなかった。子供の頃からぼくは、親に言われるがまま、何も考えずになんとなく従っていた。そんなぼくが自分の意思を見せたことに、驚き、安心したのかもしれない。大学はもう意味のない場所だ。それよりもっと大事なものを、ぼくは見つけたんだ。
ピンポーン、ピンポーン。
部屋の中からかすかに詩織の声が聞こえてくる。誰かと電話で話しているのだろうか。
「詩織ぃ、いる?オレ」
「シュウくん、どうしたの?どうぞ」
「ごめんな、急に。話があって」
2階建ての木造アパート。6畳一間の部屋。正直、若い女の子が住むには少しわびしい感じだ。ベッドとテーブルがあるだけで大きな物は何もなく、テレビもなかった。詩織に尋ねると、仮の住まいだからって言ってたな。だから何もいらないって。ただひとつ、赤い色のラジカセが置いてあった。その横にはカセットテープが数本。どんな音楽が好きなんだろう。ぼくはずっと気になっていた。
「今日、大学辞めたんだ。オレ働くよ。だからさ、オレと東京行こうよ。一緒に暮らそうよ」
「え、シュウくん、何言ってんの?」
「本気なんだ、オレ。夜の仕事なんて辞めちまえよ。これからはオレが詩織のこと守りたいんだ」
呆気に取られたような顔の詩織を前に、ぼくは言った。
「詩織のこと、好きなんだ」
ぼくは詩織にふさわしい男になりたかった。それがどんな男なのかはよくわからなかったけど、ただ、変わりたいと思ったんだ。こんな風に自分から行動を起こすなんて初めてかもしれない。自分から女の子に告白するなんてことも今までなかったし。
友達に誘われるからエレキ・ギターを買ってバンドを組んだりしたけど、別に自分の意思なんてなかった。でも今は、なりたい自分の姿がぼんやりと見える。ぜんぜん具体的でもなんでもないけど、詩織と一緒にいて恥ずかしくない男になりたい。だって、同い歳なんだ、ぼくたちは。この恋を実らせるためには、今のぼくじゃダメなんだ。
ぼくの頭の中では、ローリング・ストーンズの『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』が大爆音で流れていた。
ーつづくー
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