暗い逆様

いとうはるか

さかしま

 地元の神社が取り壊されると聞いたのは、大学に入って上京した年の夏、初めての帰省の車中であった。


 もともと、暗くて不気味な神社であった。


 まだ子供のころ、一度だけ好奇心で入ったことがあった。我が家のものらしい山の中、鬱蒼とした木々が作る暗闇の底に、深く沈み込むように建っていた。


 特に何かがあったわけでもない。石段があり、鳥居と狛犬があり、小さいながらもお社があった。既に半ば廃墟と化していた神社を見て、なんともなしに哀れに思ったのを覚えている。


 なんて名前の神社だっけ、と車を運転する父親に聞いた。家族は「あの神社」としか呼ばなかった。神を祀る場ならあるはずの固有名詞というものが、あの場所には欠けていたのだ。


「さあ。ばあちゃんなら知ってるんじゃないか?」


 父親の返答は、そんなようなものだったと思う。自分の所有する土地にあり、おそらく先祖が建てたものだろうに、随分と雑な扱いだった。


 結局実家に着いてから祖母に聞いてみても、知らん、と一言で終わりだった。













 そして今、その神社の石段の下に私は居る。


 特に何か思ったわけでもない。ただ、名前を誰も覚えていないまま取り壊されるのは、なんとなく哀れだったのだ。


 セミの鳴き声が飽和して、土砂降りの雨音のようにさえ聞こえる。ゆっくりと石段を上がる。何年も落ち葉の積もるまま放置された参道は、既に山の自然と同化しつつあった。


 石段を上がりきると、鳥居が見えた。鳥居には神社の名前を書いた額が掲げてあったりするものだが、ここには無いらしい。


 相変わらず暗い神社であった。鳥居と狛犬と手水舎、そして奥に小さな社がある。どこもじめじめと苔むして、夏だというのに冷気さえ感じるような気がする。


 鳥居をくぐって、妙なことに気が付いた。左右に並んだ狛犬が、神社の奥に顔を向けているのだ。


 いたずらか、と思った。しかし奥を向かせるには、石造りの狛犬をわざわざ台座から降ろし、左右を入れ替えて、また台座に乗せねばならない。ただ蹴倒すだけならともかく、わざわざそんなことをする奴もいないだろう。


 不思議に思ったが、何の準備もなく一人で動かせるものではない。元に戻すことはせず、奥の社に向かった。


 お社にも、この神社の名前を示すものは無かった。それどころか賽銭箱も鈴も縄もない。ただ木造の小さな社が佇んでいる。こうなると本当に神社なのかも怪しい。


 パンパンと手を叩いて適当に参拝しておく。礼と拍手が何回だったか、どうにも思い出せなかった。


「……帰るか」


 神社の名前を示す手がかりのないことが分かって、特に落胆もせずに振り返る。逆向きの狛犬がこちらを見ている。どちらも目のくぼみに苔が生え、まるで目を潰されたようになっているのにいまさら気付いた。


 ふと、鳥居の上のあたりで何かが動いたような気がした。見上げても動くものは何もない。ただ、さっきは気づかなかったものがある。


 鳥居には、ちゃんと額がついていた。木造の額だ。しかし額には何も刻まれていない。ただのっぺりと薄汚れた木目がこちらを見下ろしている。


 そういえば、と思った。


 鳥居とは、神社という聖域にケガレが流れ込むのを阻む結界らしい。そして狛犬は番犬で、わるいものが入ってこないように目を光らせているのだ。


 では、この神社はなんだろうか。


 額の向きからして、鳥居は内向きに建てられている。ケガレが流れ込むのを防ぐのではなく、むしろ逆、外界に向かって流れ出すのを防ぐように。狛犬も同じだ。外ではなく内を、お社を睨むように置かれている。


 では―――あのお社に祀られているのは、何だ?


 夏だというのに、ここは冷気が漂ってくるような気がする。


 後ろを振り返らないまま、じっと足元だけ見て石段を下りていく。


 石段を下りきって、ようやく顔を上げたとき、いつのまにかセミの声がどこにも無くなっているのに気付いた。













 そのあと特に何があったわけでもない。私は盆に付き物のいくつかの行事をこなして、久しぶりの実家でくつろいで、東京のアパートに帰った。


 件の神社は何事もなく取り壊され、今は更地になったらしい。いずれ周囲の木々に呑み込まれ、ただの森になるのだろう。


 ただ、今でもふと思う。あの神社は、おそらく私の先祖が建てたであろうあれは、いったい何だったのだろうか、と。


 鳥居も狛犬も内向きの、わざわざ名無しの神額を掲げた神社。何かを祀って―――あるいは、閉じ込めていた。では、何を?


 私の先祖は、いったい何をしたのだろうか?


 考えてもわからない。もう神社は壊されてしまった。


 ただ、夏が終わって、日ごと夜ごとに涼しくなっていく今日この頃。


 背筋に冷気を感じるたびに、あのとき振り返ったらなにが居たのかと、そんな考えが頭をよぎるようになったのであった。

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