第39話 過疎地の異世界人④

 裏世界の事務所は誰もいない空き家だった。床には厚く埃がたまり、家具はなく、内装もやりかけで脚立が横倒しになって塗料の缶や工具が雑然と置かれている。

 何より不吉なのは、警察の立ち入り禁止の黄色いテープがびらびらとぶら下がっていること。何かあったのだろうか。表か裏か、両方かで。

 事務所の中には人の気配はなかったが、静まり返った外では何か物音が聞こえた。焚き火か何かのようだ。

 今入った扉を出て駐車場を見ると、焚き火の明かりが見えた。誰かがバーベキューでもやっているかのようだ。その場所に人影が一つ。女のように見える。路地裏の賢者に関係のある女は金朱くらいしか心当たりがない。あるいは人ならざる女怪だろうか。

 出口を探すにしてもまずはそいつと対峙しなければなるまい。

 裏では魔力が戻ってきて使うことができる。最低限の防御を施して俺はそいつのところにのしのし歩み寄った。

「わ、びっくりした」

 俺のことに気づいてなかったらしい。そいつは素っ頓狂な声をあげた。そして誰かすぐにわかった。

「なんでお前がここにいんだよ」

「ボスのお使いで案内に来たんだ」

 淫魔のくせに佐奈子は怯えていた。

「ところで何ここ。すごく怖いんだけど」

 ボス? クソ上司か。

「入るなって言ってたくせに何やってんだあの人」

 怖いと言うのは同意。表の世界に住めない魔のものが押し込められた伏魔殿といって間違いはない。

「初めてっぽいのに案内はできるのか」

「うん、ボスがつけた印を追うだけだから」

 それって見方がわかれば俺にもできることじゃないだろうか。

「とりま、ついてきて。さっさと済ませて帰りたいから」

 ぱたっと何かを閉じる音がして焚き火が消えた。どうやったのか、焚き火台ごとたたまれて佐奈子の手にある薄めのアタッシュケースになってしまったらしい。

 どういう仕組みなのか彼女も知らないという。心細いなら、と、クソ上司が貸してくれたものだそうだ。

 早足の佐奈子はまず駅に向かった。駅前の様子が俺の知ってるのと少し違う。多分少し昔の駅前のままなのだろう。

 誰もおらず、真っ暗な地下道に降りていく。危ないなと思っていたら、これを使えと電気ランタンを渡された。キャンプ用品や災害用品に入ってるようなやつでトーチがわりにも懐中電灯が割りにも切り替えて使えるやつだ。

 誰もいない真っ暗な地下街は不気味だった。ぼろぼろの改札口の向こう、ガラスの砕けたデパート地下入り口の中には何かわからないものがいくつもの小山をなし、誇りを被って正体を隠していた。そして別の遠い通路からは何かを引きずる音が時々聞こえる。

「絶対興味持たないでね」

 歯の根もあわない様子の佐奈子に釘を刺された。

 俺たちはホームに上がった。上がったところの番線だけ、明かりがついている。そしてありえないことに列車の近付いてくる音がした。

 電車ではない。工事現場の重機のエンジン音と同じ、ディーゼルの軽やかな音だ。入ってきた車両も古い写真に載ってるような急行車両。ヘッドマークがついているが、読めそうで全く読めない歪な文字が乗っていた。

「のって」

 佐奈子に促されて乗り込んだ。三両編成の真ん中だ。ボックス席はがらがらだが、いくつかには乗客の気配がある。

「これでも飲んでて」

 窓越しに缶ビールを渡された。

「案内してくれるんじゃないの? 」

「私はここまでよ。楯野さんはこれにのっていって。二時間くらいかかるそうよ」

 そんなにかかるのか。列車の行き先は彼女も知らないらしい。

「うち帰って寝たかったんだけどな」

 壁の薄いアパートだが、最近は変な声とか物音立てるでない隣人なので安眠ができる。自分のいびきが迷惑かけてるかもしれないが。

 まあ、二時間と言うから少し寝よう。この列車を見てまわりたい気持ちも少しあるが、他の乗客がやばくないとは言い切れないので動かないほうがいいだろう。

 列車は一際高く唸り声を上げると、がたんと揺れて出発した。手をふる佐奈子が流れ去っていく。エンジンの唸り声はやがて落ち着いたものになり、窓の外には灯りのほとんどない夜景が流れていく。

 森や鈍く光る水面が見える。ついさっきまで都会のど真ん中の駅にいたはずなのにこれはおかしなことだ。人家がたまに見えるが、ほとんどが自然なの風景でその中に田畑のような開豁地がちらりと見えるのはおかしい。人家もこれまで穴塞ぎで行ったことのある片田舎にたまにある茅葺き屋根によく似ている。遠い昔のこの辺の風景でも見せられているのだろうか。ここは裏世界だ。少し過去だった駅前のようにこれは遠い過去の中を走っているのだろうか。

 列車が速度を落とした。最初の停車駅だ。ぽつんと白熱灯に照明された屋根もない片側ホーム。駅名の表示看板は木製ですっかり褪せた文字はよく読めない。最初の一文字が「き」だけなのは読めた。該当する駅に心当たりはないから、既存の路線のことは一旦忘れたほうがいいようだ。

 駅の周りは真っ暗でよく見えないが、ススキか何かよく揺れる丈の高い草むらになっているようだ。人家はそれらしい橙色の光が少し高く遠くに見えているだけ。

 それなのに、数人が乗ってくる気配があった。その一人が俺の横を通っていくつか向こうの席に着いたが。これが生地のいい着物姿の男性で、夜だと言うのにソフト棒を目深に被ってよく顔が見えなかった。

 もしかしたら、顔などなかったのかもしれないがじろじろ見てはいけないという 強い実感があって確かめていない。これもやばい存在だった。

 この人物は次の、真っ白な霧に閉ざされた駅でごとごと降りて行った。

 この真っ白なところでも何人か乗ってきたようだが、俺の横を通った乗客はいなかった。ただ、近い隣の車両で発車後すぐにごきりと嫌な骨の砕けるような音がして、それからしばらく咀嚼音が聞こえたのは聞かないふりをするので精一杯だった。

 幸い、魔力は戻ってきているので護身はなんとかできると思うが、相手のことがわからない以上、こちらから関わることには何の利もない。

 三駅目の停車駅、小一時間ほど経過した頃にはうっすら明るくなってきた。時間を考えると夜明けには遠いはずだ。実際、持ってる時計を見ても宵の口の時間。

 車窓の外は絶景だった。多島海を望む高台の駅でホームは古びたコンクリートに覆われているが鉄骨を組んで作った橋上駅で、大きな荷物を背負った乗客が二人、降車してふらふらと足音を鉄の階段で響かせながら降りていく。乗車したのは一人。背の高い背広の紳士。顔はわからない。狐の面を被っていた。この人物は同じ車両に乗り込んできて、俺をちらりと見てからだいぶ離れた座席に座った。

 通路を挟んだ向かい側に別の先客がいて、彼らは甲高い鳴き声のような言葉で降車駅まで話をしていた。

 四つめの駅は駅とわからなかった。線路上に停止し、色黒の痩せた半裸の人夫たちが持ってきたタラップを踏んで乗降する。周辺は熱帯の森のようで、椰子の葉のようなもので葺いた屋根に泥を塗ったような小屋が散見された。列車を物珍しそうに見ている母親も上半身裸で豊かな乳房を惜しげも無く晒し、抱き抱えられ気ままに乳房を求める赤ん坊はおむつらしい布を腰に巻いている他は素っ裸だった。

 だが、彼らは外国人というわけではないようだ。遠い過去のこの国の姿なのかもしれない。

 この駅で会話していた二人の乗客が降りた。背広の狐面紳士と話をしていたのは、大昔のモダンガールのような服装の女性だった。異様なのはその顔が鶴だったことだけ。もうそのくらいでは驚かない。

 ひゅっと汽笛を鳴らして集落は流れて遠ざかり、列車は長いトンネルに入った。

 それはもう長いトンネルで、反響音を聞きながら一時間経っても出ないように思ったので時計を確かめたが十分ほどでしかなかった。それでも十分に長い。

 見たこともない古風な制服の車掌が独特の喋り方で次は終点と告げて通り過ぎた。制服が見慣れない他は至って普通の係員に見えたのが今では異様にさえ感じられる。

 駅名も唱えていたが、聞き取れなかった。

 反響音が途絶えて、列車は夜の海岸に出た。月のない闇夜で、星あかりにうっすら見える波濤の彼方には漁火らしいポツポツとした灯りが見える。

 電灯ではない、暖かな光の灯具をあちこちにかけた重厚な木造屋根を備えたホームに列車は止まった。あの灯りは石油ランプというやつだろうか。

 降りろ、とばかりに車内の灯りが消え始めた。追い立てられるようにホームに降り立つと、さっきの車掌とよく似た制服の駅員が俺にお辞儀した。

「お迎えが来ておりますよ」

 そして俺の手から切符を受け取ると車内点検のために乗り込んでいく。

 駅員に指し示された方には古びた改札口があってその外に提灯を持ったクソ上司の姿が見えた。いつも通り過ぎて、ここではひどく浮いて見える。

 手招きされるままに舌打ちだけして俺は改札を通った。

 ちりん、とまた鈴の音。

 そして駅の賑わいも灯りも消えた。駅舎も消え去り、記念碑のようなものに化ける。

 だが、クソ上司だけはそこにいた。提灯が電気ランタンに変わっているだけが変化だった。

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