第38話 過疎地の異世界人③
名乗られたらこちらも名乗らないといけない。俺はこっちでの名前だけを名乗った。なんとなくこの老人には知られている気がするが、それでもちょっと隠したかった。
イノシシ姫は老人同様にこちらでの名前と、勇者王の娘としてのボアリスに続くいくつものファミリーネームをお経のように連ねて名乗った。いずれも過去の、あるいは今も健在な王家の名前だった。無垢、悪く言えば無能の彼女には思うところもあるのだろう。
「ようこそ。歓迎しますぞ」
本名を名乗らなかった俺にも、くどいほどに名乗ったイノシシ姫に対しても、老人は何かいうことはなかった。
まずは届け物だ。俺は預かった鞄を差し出した。番号式の鍵付きのアタッシュケースで開けるための番号は教えられていないため、中に何が入っているのかわからない。聞いても答えてくれなかった。
「おやおや、これはどうも」
聞いた通り、池谷老人は番号を知っていた。何が入っているかと思えばファイルケースに入った十枚ほどの書類と、あとは薄い木箱に入った高級素麺。
「僕はここの素麺が好きでね」
にこにこしているところ悪いが、これ、俺がわざわざ持ってくる必要あった?
「そちらの書類は? 」
「いくつかの事業の報告だね。まあ、書留で送って貰えばいいやつだ」
つまり、そいつもわざわざ持ってくる必要はなかった。
「何のために? 」
「君を僕に会わせるためだろうね」
なんのために?
「届け物と、様子見してこいとだけ聞いている。お元気そうで何よりだ」
嫌な予感がする。じゃ、と言って立ち上がって逃げようとしたが、思わぬ邪魔が入った。
「まあまあ、話くらい聞いていきなよ」
イノシシ姫が俺の手首をがっしり掴んでいる。力がめちゃくちゃ強い。元々魔力ではなく筋力で勝負していた女だ。体重は俺の方があるから全身で抵抗すれば振り切れるかもしれないが、体勢が悪い。
「はい座って」
座らされてしまった。
ここまでくると俺にも察しがついた。
「お前、何を知ってる? 」
イノシシ姫は「さあ?」と空っとぼけた顔をする。小憎らしい。
「派手な魔女は何にも教えてくれなかったけどね。そろそろ私のお勤めを終わらせたい。ここにはきっかけがありそうということだけ」
イノシシ姫のお勤め、それはアンカーを引き受け俺の故郷に通じる穴を安定させ、そしておそらく俺をあちらに帰さないこと。
だが、彼女の父親は既に滅んだ。
そのことは既に伝えてある。だが、彼女は信じなかった。俺も彼女も帰る時が来たのだと説得しても聞き入れる様子はなかった。
父親のことは敵である俺の言葉を信じず、自分で確かめるという。そのためにも俺を帰さず、自分の帰れる方法がここにあると信じているのだ。
「それで、話を聞けと? 」
そんな方法があるとしても俺が合意するとは思えない。
「そうね。多分こちらの池谷さんとあんたには共通項が結構ありそうだしね」
直感だけど、と彼女は言った。
「僕も召喚されたくちだ。その点では同じだね」
それはおかしい。
「だが、あんたは異界人そのままの体のようだ。俺のように召喚体に憑依しているわけじゃあない」
「最初はそうだったさ。あることを受け入れることで、本体で過ごせるようになっただけだよ」
あること、ねえ。嫌な予感しかしないんだが。
「僕の場合、あまりに長いことこちらにいたせいなんだろうね。帰っても居場所もないし、知ってる人間もほとんどいなかったし、覚えてもくれなかったようだからこっちの人間になることにした。それだけだ」
そんなことができるのか?
「あなたの生まれたところに通じる穴はどうなった? 」
「しばらく開いたままだったようだ。だが、少し前にとうとう閉じた。それだけははっきり感じた」
ふむ。そんな召喚者もいるんだな。
「感じたということはつながりは完全に消えていたわけはないですね。後悔は? 」
池谷老人は微笑んだ。
「流石に少し寂しかったよ。だが、踏ん切りはつけていたから後悔はない」
ところで、と俺に向ける彼の目は値踏みをする目だった。
「あの子が君をよこした理由については何も知らないようだね」
あの子、というのは池谷老人の孫、つまりクソ上司のことだろう。
「ええ、なんかあるとは思いましたが、何にも教えてくれない上司なので」
「ああ、面倒臭い娘で迷惑をかけるね」
破顔は苦笑となる。池谷老人は俺に軽く頭を下げた。
面倒臭いには全面的に同意だ。
「しかも、どうも焦ってるいるようだ。君はまだ帰ることを諦めてはいないのだろう? 」
なんとなく、読めてきたぞ。クソ上司は俺をこちらにとどめてこき使い続ける気だな。
「池谷さん、こいつ気づいてないですよ」
イノシシ姫はなぜそんな呆れたような声を出すんだ?
「そのようだね」
池谷老もなぜ同意する。
「時期尚早に思えるが、なぜだい」
「いや、待ってくれ。俺には話が全く見えないんだが教えてもらえないか」
イノシシ姫と池谷老は視線を交わした。池谷老は「どうぞ」とその役目をイノシシ姫に譲った。
「あんたは魔女のお気に入りなのよ」
彼女の言う意味がわからない。いいように使われてるという意味ならそうかも知れないが。
「つまり、便利な駒として留めておきたい? 」
「バカ」
即座に言われてしまった。解せぬ。
「あんたはあいつの好みと言ったら流石にわかるよね」
「そんな感じは一切ないんだが」
ぞんざいに扱われてきた覚えしかない。
「あいつが好んでるのはあんたの本体よ」
「はあ? 」
ありえない。あの顔のせいでもてたことなどないのだぞ。
なのに、イノシシ姫に憐れむような顔をされてしまった。
「私も悪趣味だと思うわ。でも言ったでしょ」
ありえないと思って聞き流し、ほぼ忘れていた言葉を繰り返した。
「もともとのお主の女顔、この国の女どもにはこのむのもおるのだぞ」
途方もないことを言われた。俺は救いを求めるように池谷老を見た。もちろん救いの言葉など期待はできない。藁にもすがって見ただけだ。
「ああ、なるほど」
救いは期待していなかったが、まさかの駄目押しが出てくるとは思わなかった。
「君を僕のところによこしたのはそういう意味じゃないかと思ったが、間違ってなかったようだね」
やばい。やばいやばい。俺は立ち上がって逃げようとした。
イノシシ姫にがっちり腕を固められてそれは失敗した。
「それで、時期尚早なのになぜ? 」
池谷老はイノシシ姫にもう一度聞いた。
「私、アンカーなの。そろそろ帰りたいのよね」
「帰れよ」
思わず声が出た。
「そうしてくれれば俺も帰れる」
「そうはいかないのよね。あんたをこっちに留めおくためにいるんだから」
「あんたの父上は亡くなったんだぞ。もういいだろう? 」
「知ってる。だからこれを取り消せる人はもういないんだ」
イノシシ姫はとても悲しそうだった。
俺は帰路についた。イノシシ姫に送ろうかと申し出たのは我ながら似合わないことをするものだと思ったが、これは断られた。
もう少し池谷老と話をしてから帰るのだという。俺たちの対立が明確になってから彼女は俺に対して警戒をするようになった。実際、このまま穴に連れて行って無理やり放り込んだら閉じたりはしないかと言う考えがあったので、なんとなく察しられたのだと思う。
「召喚体で里帰りしたと聞く。君に帰る場所があると感じることができたのなら、それはとても幸運なことだ。大抵の場合、元の居場所は誰かに占められているか、亡くなっているものだし家族や友人は死んだものとして心の整理をつけてしまって、戻っても戸惑わせたり疑いを招いたりするだけになる。居場所は新たに切り開かなければならない」
池谷老にはそう言われた。俺は伍堂のことを思った。あいつはどうだったのだろう。あいつはバカだから全身全霊で体当たりして思うように居場所を作りそうだ。
思わずくすりとしていたのだろう。池谷老には違う理解をされて微笑まれてしまった。
「そうか、君の意思を尊重するよ」
戻ったら、まずはクソ上司と話をつけなければならない。まず、彼女を正気に戻さないと。
長いドライブで疲れ果て、車のキーを置くために事務所のドアを開けた時、聞き覚えのある音がした。
ちりんと鈴の音。
ちくしょう、こんな時に、またかよ。
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