第18話 Just hold on tight, It can be all right.

 馬鹿は今も、馬鹿のままだ。


 前に出ることを諦めて、先を行く奴を見送って。

 もう大丈夫、だなんて。勝手に見切りをつけて、退こうとする。


 これじゃあ、なにも変わっちゃいない。


 馬鹿がどうしようもなく馬鹿だったのは、諦めたからだ。馬鹿は絶対に諦めるべきじゃなかった。最後まで彼女を笑わせる努力をすべきだった。主人公じゃないから、なんて、弱い自分に酔っただけの、ただの言い訳だ。自分は主人公じゃないから、主人公にはなれないから、だから助けられないんだ、なんてうそぶいて、足を止めるべきではなかった。


 主人公じゃない。そうだろう。

 主人公にはなれない。そうかもしれない。

 けれどそれと、馬鹿が諦めないこととは、一切なんの関わりもないじゃないか。


「――――っ、――――!」


 残り百メートルのライン。強く、強く踏む。

 十メートルを先行するサッカー部の背を、睨む。

 短く、しかし深く吸って、腹の底に呑む。


 行く。


 姿勢は疾走。百メートルを行くかのように鋭角の前傾で、踏み足は爪先でトラックを突くように。


 前へ。


 なにが二位の晴れ姿だ。なにがちょっとしたヒーローだ。全力を振り絞らないで、必死になりもせずに、なにを満足してえつに浸ろうとしている。


 まだレースは終わっていない。

 これではなにも変わらない。

 馬鹿が馬鹿のまま、また繰り返す。

 あの後悔を、まだ引きずりたいのか。


 ……御免だ。


 今この瞬間は、今しかない。

 あの後悔は消えない。けれど、


 ……困っている女の子を、助けるため。


 自分を変えられるのは自分だけだ。泣き虫だった馬鹿を変えたければ、まずは引きずり起こすしかない。自分の足で、踏ん張ってみせるしかない。


 俺の涙は俺が拭く。

 最後の最後まで、ちゃんと助け終えるまで、諦めない。


 だから行く。つんのめるように、まろぶように、既に悲鳴を上げている全身を酷使する。


 最後の直線、百メートル。サッカー部の後ろにはつかない。並ぶために、かわすために、二レーンに飛び出す。だからもう一位の背中は見ない。

 見るのは、フィニッシュライン。そのさらに向こう。


 走れ。


 腕を振れ。膝を上げろ。足を回せ。呼吸はスタッカートに。風を割れ。肩で切れ。手のひらは浅く広げ、余分な力を込めない。歯を食いしばれ。ただ前に進め。繰り返せ。


 腕を振れ膝を上げろ足を回せ呼吸は短く差は九メートル風を割れ肩で裂け余計な力は抜け歯を食いしばれ八メートル肘を引け足を流すな顎を下げろ奥歯を食い締めろ視線を前に七メートルもっと速く前に出ろ腕振りが浅い膝がまた低い根性で上げろ喉奥が痛い六メートル歩幅を広げろ跳ぶように走れトラックを突けもっと前に足りそうだ呼吸がうるさい五メートル一位が崩れたまだ間に合う腕をスイング踏み足を流すなストライドを大きく腰を入れろ振りを速く四メートルまだ行ける「かッ」せるくらいなら呼吸を止めろ息を呑み込め攣るなよ足まだ先へ三メートル風が聞こえる一位が気付いたが速度はもう上がらない二メートル声援もうるさいが無視だもっと速く腕を振れ足を上げろ前に出せ一瞬の風になれあと少しが埋まらないまだ終わらない諦めない俺は主人公じゃないがなにもできないわけじゃないことを過去の馬鹿と未来の背景に教えてやれ進め進め進め並ぶもう一歩。


 フィニッシュラインを駆け抜ける。


 体力の限界を超えた速度に乗せていた足はすぐには止まらない。そのまま、レーンに沿ってまっすぐに惰性で走る。


 は、と呼気を吐く。


 途端、詰めていた反動でゲホガハとみっともなくせきを切ったように噎せ返る。鼻水まで出そうな勢いだ。


 そこでようやく、周囲の喧噪がわっと全身に迫ってきた。


 視界が回る。酸素が圧倒的に足りない。それを求めて必死にあえぐ。深く吸いたいのに、喉や肺までもが焼け付くように痛むがために浅い呼吸をひたすら繰り返すしかない。バクバクと暴れ回る心臓が革命でも起こそうというのかというくらいに痛くてうるさいし、脇腹は万力でギリギリと締め上げられているみたいだ。視界に映るタータントラックの赤が滲んでいることから、全身に込めていたりきみと緊張が解けて涙が浮かんでいることに気が付いた。膝に手をついて全身の激痛が落ち着くまでひとしきり噎せたあと、ようやく顔を上げ、滲んだ涙と目に流れ落ちて来る汗とを拭い、よろよろとゴール横のテントへ向かう。

 なにがなんだか、わからなかった。とにかくゼッケンを返して、座ってゆっくりと休みたい。その一心で上がらない足を引きずるように歩き、お疲れ、と声をかけてくれた係員に糸が切れた人形のような動きで会釈して、テントに入り、座り込む。

「……あー……」

 かはっ、とまた噎せた。すっかり枯れて擦り切れた声。揺れる視界。気持ち悪い。

 その視界の半分に、不意にファサッと、覆いがかかった。


「お疲れさま、御社みやしろくん」


 その声は、神子島だった。このテントには混雑を避けるために選手以外入れない決まりだが、神子島はこのあと八百メートルを控えている。既に点呼も終えているのだろう。ん、と頭を下げて応じる。声はまだ戻らない。

 かけられたタオルはありがたく、額や首の汗を拭う。

 あ、くそ、こんなときに。なんかこのタオル、いい香りがするぞ。私物か。


「やるじゃない、御社くん。おめでとう」

「…………?」


 どういう意味かわからず傍らの神子島を見上げると、神子島はすっとトラック、ゴール付近を指さした。

 素直にそちらへ視線を巡らせると、続々とゴールしていく選手たちと、彼らから庇うように一レーン辺りで仁王立ちしている体育教師、その背後に転がっている奴の姿が見える。

 サッカー部だ。ゴール直後そのまま崩れ転がり落ちたのだろう。そして未だ立ち上がれないでいる。胸は呼吸で激しく上下しているし、付近の先生も慌てていないから、危篤きとくというわけではないのだろう。

 だが、それが?


「あなたの逆転勝利よ、御社くん。気付いていなかったの? 最後、ゴールに入る瞬間に僅差きんさであなたが前に出たわ。サッカー部の彼は三連覇失敗。そしてあなたの優勝よ。おめでとう――かっこよかったわ」


 神子島の言葉を理解するのに、たっぷり五秒かかった。

 それからようやく、じわじわと、全身になにかが広がっていく。鈍重な疲労ではない。それはもっと温かく、じんわりとしみ込んでくる。


「……はっ」

 思わず、笑った。もう噎せない。

「ははっ――」

 この感覚。全く不慣れな感情。けれど俺は、一応、この気分の名を知っている。

 喜び。

 最高に――嬉しい。

「……やった――」


 手放しで、嬉しかった。残念ながら砲丸投げでは得られなかった高揚感。

 死力を尽くしたからこその、達成感。


 小さく、拳を握る。

 俺は――勝ったんだ。


 見たか、過去の馬鹿。思い知ったか未来の背景。

 これが、今の俺だ。

 今ここにいるこの俺が、ようやく初めて掴んだものだ。


 よし、と俺は笑む。神子島はそんな俺を見てしれっと、

「本当に、久々にかっこよかったわ。あなたじゃなきゃ惚れてたわね」

「全否定じゃないか……」水を差さないでくれよ。

 まあ、らしいといえばらしいか。


「――さて、それじゃあ私も負けてられないわね」

 軽くストレッチ交じりに、神子島が言う。見上げると、笑みの視線と交錯した。

 ふふ、と神子島は笑った。

「次は、私の番よ」


 千五百の最下位がゴールする。既にサッカー部もトラックを引き上げていて、すぐに係員が女子八百メートルにスタンバイをコールする。

「……ああ」


 く、と拳を上げる。ん、と怪訝な顔になったのは一瞬で、すぐに俺の手の甲に、自分の甲を軽く打ち合わせる。


「私もかっこいいとこ見せてあげる」

「ああ、見せてやれ」堂島に。


 俺の言い方に神子島は怪訝な顔になるも、すぐにふっと笑んで身をひるがえし、後ろ手に手を上げて応えにした。その後ろ姿がもうかっこいいぜ。

 俺はテントに座り込んだままで、スタートラインに並んでいく女子たちを眺める。呼吸や心拍はだいぶ落ち着いてきたが、まだ足が震えている。もう少し休まないと自力では立てない。このあとは個人競技だと百メートルの決勝を残すのみだから、係員も強いて立ち退きを命じてきたりはしない。


 On your mark 、の声で全員が浅く身構え――号砲。


 八人が同時に飛び出した。

 しかしあっという間に順位がバラけていく。突出していくのは三人。

 先頭を突っ切るのは、確か陸上部の女子。次いでバスケ部の女子。


 そして神子島。


 八百メートルはたった二周だ。そのため、みんな最初から全力で走る。初めにつけた差が最後まで響いてきさえする。第二コーナーを回り、オープンコースに入ると、もう順位差は歴然だった。

 先頭三人が固まっている。スタート地点へみるみると近づいてくるも順位は変わらない。が、各人の距離も変わらない。そのまま一分弱で四百メートルを通過、二周目に突入する――一位いちいの陸上部が速い。フォームも綺麗だ。それに対して二位のバスケ部は、さすがに顎が出て来てしまっている。三位の神子島は、フォームこそ崩れていないが速度は上がらない。


 五百メートル。二位がとうとう離された。その背中につく神子島も明らかに速度が落ちている。対して一位は、六百メートルを通過してもまだペースが著しくは下がらない。

 先頭がホームストレートに戻ってくる。二位との差は五十メートルほど。この差はさすがに埋まるまい。


 と、ここで神子島が前に出た。


 ガタガタになっているバスケ部をすいっとかわすと、わずかずつ速度を上げて、まっすぐに走ってくる。

 一位と見比べても、フォームが綺麗だ。

 そのまま、涼しい顔でフィニッシュラインを割る――二位。

 一位同様、いやそれよりももっと涼しげな顔で、ゼッケンを係員に返し、こちらへスタスタと戻ってくる。


「……お疲れ。おめでとう」

「ありがとう」


 どう? と訊いてくる神子島に、俺は苦笑して頷いた。

「ああ、かっこよかったよ」

「当たり前でしょ」

 訊いておきながらしれっとそんなことを言う。なんとなく見合って、お互いにぷっと噴き出した。


「これで」「ええ」


 どちらともなく、片手を上げる。そのまま、パァンと打ち合わせた。

「――公約達成」

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