第16話 アンチヒーローの闘い

 中学の頃は、陸上部だった。種目は二年生の春から砲丸投げ。

 だが一年生の当時は、俺は長距離を専門にしていた。千五百メートルと、三千メートルだ。

 長距離をやっていたのは、小学生からの延長だ――小学生の頃は、親の趣味でよく市民マラソンを走らされていた。一度だけだが入賞したこともある。後にも先にもあれただ一度だが、賞品の楯を受け取ったときは素直に嬉しかった。

 そのまま、深い考えもなく長距離を走っていたのだが、記録はぱっとしなかった。中体連でも予選落ち、県大会になど一度も出られたためしはない。


 転機は二年生の春、新しく赴任してきた顧問が陸上の専門家だったことに始まる。先生は俺に限らず、全員に「いろいろやってみること」を提案した。その流れで俺は短距離や高跳び、幅跳びもやってみている。中でも一番手応えがあったのが、砲丸だったという話だ。

 砲丸投げに転向してから、トラックに立ったことはほとんどない。去年や一昨年の体育祭では百メートルを走ったが、場に流されるままに走ったからほとんど記憶がない。


 千五百のスタートラインに立って、俺はレーンの先を見る。

 戦う、という意気込みをもってここに立つのは、あまりにも久し振りだ。


 スタート位置だけは、クラスに順じて五レーン。俺の他にもそれぞれのレーンに七人が並んでいる。

 ちなみに、横で軽く屈伸しているのが、優勝候補にして三連覇を狙う、サッカー部のエースだ。過去二年、ぶっちぎりの一位を飾っている。二番手は野球部の坊主で、こいつが積年のリベンジを狙っている、という出馬表だ。


 軽い流しを終え、横一線に並ぶ。スタンドから、レース開始のアナウンスが入る。

 優勝候補が隣にいるというのは、ある意味で都合がいい―― On your Mark 、とコール。

 俺はスタートラインに覆いかぶさるような姿勢で立つ。トラックに引かれている白線を見下ろす。


 強く意気込むことはない。自然体で、構える。気負いなく、ひとつ息を吐く。

 念頭に置くことはただひとつ。それ以外は、今は考えない。

 全員が構えたところで、静寂。

 長距離においては、用意、という声はない。



 号砲。



 居並ぶ男子が一斉に前に出る。

 俺は一歩目と同時に、隣を飛び出したサッカー部を追う。

 千五百以上の長距離はオープンコースだから、全員が一斉に内側に入ろうとするためにもつれあい、悪いときには絡まった誰かが転倒して惨事に繋がることもある。万が一にも巻き込まれないようにして、一身速く前に出る。

 ひたむきに注視して追うのは、サッカー部の背中。


 長距離種目の鉄則は、ペースの安定。マラソンになると、これを調整するために選手ではないペースメーカーが先頭を走っていたりする。このペース維持というのは想像以上に難しく、前に誰もいないというのは心身ともに乱れを生じさせる。一番楽なのは、一位の背後についてペースは一位に任せ、自分はひたすらそれを追い続けることだ。ペースを調整する必要がなくなり、なおかつ一位が風除けになってくれたりもする。

 だから俺もそうする。のだが、


 ……はえぇ!


 こいつ、一週目からこんなペースで最後まで走り切れるのか――多少緩めるか、と一瞬だけ思案するが、即座に切り捨てる。

 脳裏に蘇るのは、昨年までのレース展開。

 このサッカー部は、序盤から結構な速度で走り、早々に二位以下を振り切ったあと、確実にペースは落ちていきながらも最後まで逃げ切る。そういう戦い方をしていた。

 ここで振り切られては、もう追いつけない。


 ほとんど四百メートルのペースで三百メートルを通過し、まだ速度は落ちない。カーブに沿う際に視界の隅で、既にぼろぼろと振り落とされている連中を確認する。その中には多分、あの野球部はいない。俺の後ろでふいごのように呼吸しているのが彼だろう。


 サッカー部の背を睨む。その背を、足を、追い続けることだけに集中する。呼吸は短いリズムを刻み、手足から無駄な動きを省く。余分な体力を浪費しないように。


 走る。


 四百メートルを通過。まだ速度は変わらない。さすが、大したものだ。トラックは多少の弾力があるが、サッカー部の練習するグラウンドはただの地面だ。そこで毎日走り続けていれば、自然と足腰は強靭きょうじんになる。その分故障の危険は高まるし、身長も伸びなくなるという噂もある――このサッカー部は背は高いが。とにかく、体力もついてくるというものだ。


 スタート地点を割り、二週目に入る。千五百はトラックを四周強。残り三周と三百メートル。横目にちょうどフィニッシュラインを通過している最下位が見えた。

 まだついていられている。だが呼吸に少しずつ乱れが出てくる。手足がわずかながら重くなってくる。公式大会だと一周のラップタイムがその都度アナウンスされるが、さすがにそこまでのサービスはない。ゴール横では電光掲示板がタイムを刻んでいるが、それを見る余裕もない。サッカー部がわずかにペースを上げた――振り落とそうという腹か。そうはいくかと俺も間隔をぴったりと追走する。俺の背後に張り付いていた呼吸音がわずかに離れた。


 七百メートル。このフィニッシュラインから残り二周。さすがにサッカー部のペースも落ちてきているが、相応に俺も疲労している。聴こえるのは、俺の呼吸音、俺とサッカー部の足音。


 そして風。


 呼吸から、手足の振りから、安定感がこぼれ落ちていく。喉奥のどおくが焼け付くように、脇腹がなにかに握られているみたいに、痛む。辛い、疲れた、もうやめよう。俺のどこかがそう囁く。

 だが、まだだ。九百メートル。もう少し。あと一周半。


 無意識に上がっていく顎を意識して下げる。逆に上がらなくなっていく膝を、腕を振って強引に上げる。

 流れて行く景色を無視。視野狭窄きょうさく的に、眼前の背中だけを睨み据える。


 千百メートル。残り一周だ。サッカー部はやはりペースが落ちている。走るフォームもかなり崩れている。蹴り足は後ろに流れて、苦しそうな呼吸が真後ろの俺にまで聞こえてくる。


 だが、まだだ。はやってはいけない。まだ、もうしばし、辛抱だ。


 カーブを走り抜け、千二百メートル。カーブはあと一度。と、サッカー部が不意に右手に一歩出た。


「…………!」


 慌てて俺も続く。一瞬で抜き過ぎるのは、最下位だ。すぐに七位、六位も抜く。

 ……今のは。

 乱れた。油断した。いくらなんでもサッカー部しか見ていなさ過ぎた。追突こそ免れたものの、不意のことで心が揺れ、動揺が身体にもろに伝播でんぱする。


 かひゅ、と喉奥が鳴った。掠れるような痛み。

 手足が鈍くなる。それでいて芯にまとう重み。


 それでも、懸命にサッカー部を追う――千三百。最後のカーブ。

 サッカー部が速度を上げた。

「――――っ!!」


 ここにきて、この土壇場にきて、まだ加速するのか。

 去年までなら、サッカー部はゆるゆるとペースダウンしながらゴールに転がり込んでいたはず。それが今年になって、残り二百メートルで速度を上げるだなんて、


 ……俺が、背後にくっついているから。


 引き剥がしに来たのだ。

 呼吸もフォームもぐちゃぐちゃの癖に、そんな根性を見せやがるか。

 加速と言っても、目覚ましいものではない。スタート直後の半分にも届かないだろう程度だ。けれども、俺から五メートルほどリードするには十分過ぎた。


 カーブで追い越しを掛けるのは、心身ともにより負担がかかる。追い越しをかけるなら直線だ――残り百メートルで、追い越す。

 俺が、加速するのか。このコンディションで、このメンタリティで?


 できるのか?


 離された、というプレッシャーで、心がさらに揺れる。その揺れのせいで身体もブレる。一瞬の気の緩みが、彼我の距離をさらに広げてしまう。

 およそ、十メートル。


 ……ああ。


 無理だろ、という諦めが、脳裏に差し込んでくる。こりゃ無理だ。いくらなんでも、取り戻せない。追いつけない。届かない。


 ……十分だろ。


 恐らく、三位は遠い。このままのペースを維持しても、二位には入れるだろう。神子島みこしまにだって三位以内って言われてたんだから、これで少なくともはるかちゃんと呼ばれるき目には遭わずにすむ。


 大健闘じゃないか。クラス一の日陰者が、驚きの二位だぜ? 誰も予想しなかっただろう。砲丸投げでは誰にも注目されないが、千五百は誰もが見ている。クラスの連中だって見ているだろう。堂島だって、神子島だって、八瀬さんだって。俺の二位の晴れ姿。頑張ったじゃないか。よくやったじゃないか。これでちょっとしたヒーローだ。八瀬さんだって、もう俯いてはいない。もう俺が足りない力を振り絞らずとも、クラスと一緒に立ち直った。もう俺は、いらない。


「…………、…………、…………」いや。

 フラッシュバックする。

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