第12話 黄昏時の邂逅者
祝祭日でも学校は開放されている。部活動もあるし、各教室も勉強用に進入は自由だ。生徒としては活動場所を与えられているのでありがたいことだが、休日も出勤しなければいけない先生方は大変だろう。遠慮なく使うけど。
昼前に家を出て、途中で記録会を見物したから、学校に着く頃には昼をちょっと過ぎていた。コンビニで弁当を買って、それを食べてからようやく勉強に取り掛かる。
日曜日ともなると、学校はかなり閑静になる。そもそも学校まで出てくる奴はそう多くないし、部活の連中が通らない限りは実に静かで、人の目もないから心持ちのびのびとしていられる。……いや、誰も見てないからって変なことをしたりはしないよ。ただ、ほどよく集中できるという話だ。
ずっとカリカリとペンを走らせていて、気が付けば日が沈み始めていた。おお、と我に返ってペンを置き、ん、と伸びをする。全身が凝り固まっていて、
時刻は午後六時過ぎ。ちょうどいい頃合いだ。まっすぐに駐輪場まで行くと自転車の籠に鞄を突っ込み、いそいそと学校を出る。
向かうのは、市内を通る一級河川の沿岸、舗装整備され、サイクリングロードとなっている道。適当な場所に自転車を停め、上着を脱いでハンドルに引っ掛けると、軽く準備運動を始める。
この堤防をランニングするのは、俺のここ二年の日課だった。
下校する中高生や、犬の散歩をしている人、同じくランニングしている人たちに紛れて、俺は走り始める――鞄も自転車の籠に投げっぱなしだが、盗まれて困るようなものは入れていないし、この街は治安がいいから滅多なこともあまり心配していない。
速すぎず、遅すぎない速度。ハッハッと一定の呼吸を維持。そのまま、走り続ける。
日が沈みつつあるこの時間をいつも選んでいるのは、それなりに理由がある――人目。
夕闇に紛れて、個人の判別は容易でなくなっている。だから、万が一知り合いとすれ違うようなことがあっても、俺だとはわからない。別に悪いことをしているわけではないから堂々としていてもよさそうだが、俺はどうしても、特に
毎夕走っているのは別に、体育祭のためではない。
神子島のアドリブのせいで千五百を走ることになってしまったが、それがなくとも俺はこうして走っているだろう――なぜか、と言えば、運動不足の解消と、勉強のストレス発散。そう答えるのが多分一番正しい。
けれど、もっと本質的な本音を言えば……単純に走りたいのだ。
俺は決して体育会系ではない。はっきり言ってインドア派だ。中学の頃に陸上部に入っていたのだって、
……強くなるためよ。
いつだったか神子島の答えていた、神子島が陸上を続けている動機。
それは恐らくもとをたどれば、中学の頃の俺の動機だ。
強くなりたい。
そんな単純な、いっそ子供じみた願望に最も沿うスポーツは、己の身ひとつ、その極限を競う陸上競技が最適だった、というわけだ。ただでさえ小さい頃からチーム戦と球技全般の苦手だった俺にとって、陸上競技はうってつけだった。俺は夢中になってトレーニングして、大会での成績が大したことなくても、少しずつ伸びていく自己ベストに満足していた。
自分は強くなっていると、そう思っていた。
その自信が、自負が、打ち砕かれる。
たったひとり、泣いている女の子も助けられない。
彼女を笑わせることができるのは、ただ主人公だけで。
背景には、モブキャラには、その他大勢には。どれだけ強くなろうと努力したところで、到底至ることは叶わない。
いくら強くなっても仕方がない。
俺は俺に失望して、陸上部をやめた。それが、神子島には答えなかった、俺が陸上をやめた理由だ。もっとも、あの様子だと神子島は、ある程度のことを察しているのだろうけれど。
陸上競技をやめて、それでも俺は走っている。
そんな俺を見たら、神子島はなんと言うだろう。真相をおよそ把握しながら、それでもどうして続けなかったのかと問う神子島は、どんな顔をするんだろう。
それが怖くて、俺は知られたくなかった。
タッタッタと足音は軽快に。初めの頃は五分で息が上がっていたものだが、二年も続けていれば結構距離も延びてきた。そうは言っても十キロも走れるわけでもないし、速度だって大したものでもないが、走り方や呼吸の配分は身に染みてくるものだ。
あんな作戦を言い出した手前、俺が最下位になるわけにはいかないからな。焼け石に水でも、できることはしておきたい。その程度の意気込みだ。
夕刻の風は穏やかで涼しい。いつも折り返しと決めている橋まで、あと五本。
残り四本のところに、神子島が立っていた。
「…………!」
ちょっと待って。
どうやら記録会後そのままここに来たらしい、学校指定ではなく陸上部のジャージを着ていた。ヘアスタイルもスポーツ仕様、昼間にも見たポニーテールのままだ。
街灯の下、遠目には誰かいるなという程度だったのだが、近づくにつれそれが誰だかわかると、思わず血の気が引いていった。よりにもよって、今一番遭遇したくない相手がどうしてここにいる。呼吸が乱れ、いやな汗が出始める。ここまで動揺するのかと自分自身に呆れながらも、いや、こっちには気づいてないだろうし、このまま知らん顔して走り抜ければバレないかも、暗いし。と期待して速度を心持ち上げる。
が、神子島はばっちりこっちを見ていた。
「――こんばんは」
「あ、ああ」
声までかけられては無視もできない。努めて爽やかに会釈して通過しようとするも、あろうことか神子島はそのまま並走しだした。
「お、おい、なんだ」
「あら、私もロードワークだけれど。なにか不満でもあるの?」
不満というか、不審だ。どうして俺と並走する。
「え、こ、こんな時間にこんなところで、ロードワークですか? き、奇遇ですなあ、神子島サン。たまたまちょっとランニングしようかなあなんて思って出てきたその日に、たまたまこんなところで会うなんて」
「あら、別におかしなことなんてないでしょう。あなた、この二年ほどずっとここを走っているんだから」
知ってたのかよ。それも最初からかよ。
ずっと用心してた俺は馬鹿かよ。
「部活の帰りに、ときどき見かけていたわよ」
「ぶ、部活の帰りにか。あ、もしかして、今日もこんな時間まで部活あったんだ? た、大変だなあ。あれ、もしかして大会でもあったの?」
「ええ、記録会よ。観に来ていたのだから知っているでしょう?」
それもバレてたのかよ。俺の迫真の大根演技がことごとく一蹴されている。大根だからか。
でも、いつ。見られないように注意は払っていたし、神子島だってスタンドの方は
一体どこから。
「ハードルの途中から」
「最初からじゃねえか」
「あなた、悪目立ちするから……ああ、でも安心して。私以外は気付いていなかったから」
そりゃあ、お前以外に俺の知り合いは堂島しかいないんだから、堂島も気付かなければ誰も気付かないだろうけどよ。
悪目立ちってなんだ。
「そりゃあ目立つわよ。あんな食い入るように見ていたら。ガン見だもの。主に女子を。知ってる? 最近は女子のユニフォーム姿を盗撮する不審者に注意って、アナウンスが入るようになったのよ」
「知らないけどな。別にそんなに見てはいなかったよ。普通だよ」
「あら、普通に見てたの。女子を」
「女子だけでもねえし……」
「胸? 脚?」
「部位を限定するな」
そんなに俺を不審者扱いしたいのか。
ふん、と神子島は鼻を鳴らす。
「男子ってみんな、女の子の胸が好きだものね。例にもれず、
「おいおい、俺をそんな一般的な物差しで測ってもらっちゃあ困るぜ」
「それじゃあ男の胸の方が好きなの? 引くわ……」
「どうしてそうなる」
胸筋フェチか。アブノーマル過ぎるわ。いや、世の中にはそういう男もいるかもしれないが、少なくとも俺は違うぞ。
顔をしかめると、そう、と神子島は猜疑の目で、
「でも、女の子の大きな胸は好きなんでしょう?」
「…………」
いや、まあ、否定はしないけどね。でも女子の胸をそんなまじまじと見る機会なんて、そうそうないからね。うん。ないない。だからボクヨクワカンナイ。
「結局女の子の価値は胸の大きさというわけかしら。呆れたものね。これだから御社くんは童貞なのよ」
「待て。巨乳好きと童貞との間に一体どんな論理的関係があるというんだ。童貞非童貞に関わらず男はみんな巨乳好きだぞ……というかそもそもどうして俺が童貞だと決めつける。わからないじゃないか。違うかもしれないじゃないか。万が一があるかもしれないじゃないか」
「あるの?」
「ないですけどね……」
「そもそもあなたは異性以前に同性とすら縁遠いものね。そんな機会のあるわけがないわ。――まあ、それほど気に病むことではないわよ。この年頃ではそれが普通だもの。私だってまだ処女よ」
息ひとつ乱さずに走りながら、涼しい顔でさらっととんでもないことを言いやがる。いたいけな青少年の純情を
「と、とにかく! 俺が未経験であることと巨乳が好きであることには全くなんの関連も存在しないのだ!」
「でも巨乳は好きでしょう」
「いやいや、そんなこともないぞ。貧乳だって結構好きというか、むしろ貧乳の方が好きというか、
いや、ちょっと待てよ。一体なんの弁解をしているんだ。俺が凡俗と変わらないというその幻想をぶっ壊そうと右手を握った結果現実を破壊しかけているというつまり墓穴。神子島サンの半目が冷たいです……どうしてこんな話題になったんだ。妖怪のせいか。
「と、とにかくだな。胸の大きさなんて気にすることないんだぞ、うん。大切なのは器の大きさだからな」むしろそれはステータスだ。希少価値だ。
「……別に、私は自分の胸のことを気にしているわけではないのだけれど」
「あー、ほら、別に胸なんかなくたってだな、お前なんかほら、顔がいいんだから。近年
どうして俺は神子島の御機嫌取りみたいなことを必死に言い繕っているんだろう。確かに神子島は美少女として評判だが、流し目されるよりも、罵られたい踏まれたいっていう男の方が多いっていう噂もあるんだけどな。
ああ、阿呆なことを言っているうちに日が沈んだ。もうすぐ折り返す。この時間にもなると、もう前にも後ろにも誰もいない。聞こえるのは虫と風と、走るふたり分の足音だけだ。
だんだんと遠い目になっていく俺の言葉に、
「……雑なおべっかね。あなたに言われても全く嬉しくないわ」
「ああ、そうかい」
「むしろ屈辱ね。
「してねえよ!」人聞きの悪いことを言うな! そんな中年向け官能小説みたいな!
「あなたを殺して私も死のうかしら」
「心中を決意するほどなんだ……」
「あら、これは私なりの愛の告白よ。まずはあなたを確実に殺して、その後で私は天寿を全うするの」
「愛が重い!」というか、お前は天寿かよ。それ心中じゃなくてただの殺人だよ。
「……それ、あなたも思ってるの?」
「え、心中? いや死ぬのはちょっと」
「じゃなくて……その」
「ん、あ、ああ、神子島モデル説な? 思ってるぞ勿論」いやーお前の彼氏が羨ましいわあ。
ま、堂島くらいのハイスペック男子でもなければ釣り合わないだろうけどな!
……どうして勢い込んでしまったのか我ながら謎だ。
さすがに空々し過ぎたかなあ、怒られるかなあと内心でびくびくしていたが、しかし神子島から反応がない。どうしたんだと訝しんで見ると、神子島はなぜかきょとんとした顔で俺を見ていた。珍しい、神子島の無表情でない素の表情だ。
俺の視線に気付いた神子島は、すぐにふいっと顔を逸らしてしまう。
「……そう」
ぶっきらぼうな声。やっぱり怒らせたかな。ただでさえ暗いから、表情なんてまったくわからない。
「そ――それはともかく、だ。今日の百メートル観てたけど、どうなんだ、調子は」
話を逸らすように言う。ちょっと強引な気もしたが、しかしそもそもどうして胸の話になったのかがわからん。男はみんな大好きだけどな。
俺はと言えば、
「調子は……悪くないわ。いつも通りね」
顔を正面に戻しながら、神子島は答える。何事もなかったかのような、いつもの冷徹な無表情だ。俺はそれとなく安堵の息をつく。
「そもそもお前、大会直後なのにロードワークなんかしてていいのかよ。帰ってゆっくり休んでた方がいいんじゃないか? ましてや明日が体育祭なんだし」
「別に、私の勝手でしょう。クールダウンよ、クールダウン。御社くんがとやかく言うことではないわ」
唇を尖らせ気味に、神子島は言う。言い様が刺々しいような気がしてやっぱりなにか怒っているのだろうかと思うが、しかし普段からこんな感じな気もして判断が難しい。
地雷を恐れて二の足を踏んでいる間に、ようやくこのロードワークの折り返し。神子島は確認もせずに、黙ってそのまま同じく折り返した。マジで俺のランニングコースを把握してるのか……と、今度は神子島から口を開く。
「御社くんこそ、わざわざ記録会を観に来るなんて、ようやくその気になったの?」
反撃、とでもいうようににやにやと意地悪く笑みながら、俺の顔を見る。その気ってなんだよ。
「別に……学校に行く途中で、たまたま近くを通ったら騒がしかったから、なにかと思って覗いてみただけだよ」
「あら、そう? てっきり陸上競技に未練が湧いたのかと思っていたけれど。――まあ、それほど長くもいなかったものね。それにしたって、ついでに練習していけばよかったんじゃない? 長距離はともかく、砲丸投げは自主練なんてできないでしょう。まあ陸上部も三年生には砲丸投げの選手はいないから、あなたならそれほど気負うことはないでしょうけれどね。なんなら、手伝ってあげてもよかったのだけれど」
「余計なお世話だ。買いかぶり過ぎだし……俺はともかく、お前だって高体連が近いんだろう。自分の心配だけしてろよ」
「あら。この私が自分のことだけで手いっぱいになるとでも? それはまた下に見られたものね。心の余裕くらい失くさないわ。器は大きいから。小さいのは胸だけだから」
「根に持つのな……」
「他人に
「御社くん程度の御社くんってなんだ」御社くんは俺しかいねえよ。
「腹立たしいわ。
「それのどこが大きな器なんだ」
「問題ないわよ。心配せずとも、私の器は山よりも深く海よりも高い……」
「逆だ逆」
どんな器だよ。
「お前はそれでいいんだろうけどな……この間だって、堂島に
「
ため息交じりに言う俺に、予想外、というように眉を上げて神子島は驚く。難癖というのはちょっと言いがかりかもしれないが、神子島の反応でまた心がささくれ立ったのでもう気にしない。
「神子島が体育祭に真剣になってるのを
「そうだったの……それで、あなたはなんて返したの?」
「お断りだ、自分で言えよそんなもん、と」
他にもいろいろと言った気がするが、細かいところなんていちいち覚えていないから割愛だ。とにかく、
「神子島が俺の言うことなんざ聞くわけねーだろ、ってな。お陰で冷たい奴とか言われちゃったぜ。俺は大いに傷ついたね」
多少誇張気味な
「……どうして竜賢くんは、そんなことを?」
「さてな。慣れないことをして怪我でもしたら一大事だ、神子島が全国に行けなくなったらどうしてくれる、みたいなことを言われたぞ」
まあどう言葉を選んで乱雑にしてみても、要は「神子島の身を案じている」ということに他ならなくて、これで「竜賢くんが私を心配してくれた!」だなんて嬉しそうな顔をされていたら俺はこの場で全力中腰バック走を敢行する身構えだったのだが、あにはからんや横目に盗み見た神子島は、なにもそこまでしなくてもと俺でも言いそうになる苦々しげな迷惑顔になっていた。挙句、ぼそっと、
「……大きなお世話よ」
おお、ドンピシャ、予想通りだ。この場に堂島がいないことが悔やまれるぜ。
と正直に思うものの、神子島があんまりにあんまりな苦顔になっているものだから、さすがの俺もちょっと忍びなくなって「まあ堂島の言うこともわからなくはないけどな」とか庇うようなことを言ってしまう。が、
「ふうん――あなたも、私が自分のことだけ考えていればいいと思うの? 器も胸も小さいままでいろと」
「いいえ滅相もございません」胸はともかく「まさか夢にも思ってはおりません」
二秒で前言を
「……別に。裏でこそこそされるのが気に入らないだけよ」軽く首を振って、神子島は眉根を寄せたまま言う。「とにかく、これで最近の竜賢くんの様子がおかしかったことには合点がいったわね」
「合点が?」
「少しずつ中距離の練習を始めていたのだけれど、妙に甲斐甲斐しく気遣ってくれていたのよ。あまり目立ちたくないから部活の前後に練習していたのだけれど、竜賢くんも同じ時間に練習していたりして」
正直
おお主人公よ!
「まあ、そんなことはどうでもいいの。多少なりとも大会を観たんでしょう。なにか思うところはないの?」
「……なにか、とは」
「陸上に対して、よ」
横を走るままに、俺の顔をまっすぐに見据えて問う。
「――もし陸上を続けていたらって、考えた?」
俺は、すぐには答えない。口を閉じたまま走る。
思い出すのは昼間、記録会の喧噪だ。
声援と風、新たに叩きだされるレコードと、
積んできた修練とそれに応じた結果。
全身を巡る熱と、興奮に躍る一瞬。
青春のステージ。
「……全く考えなかったと言えば、嘘だけどな」
「でも、続けていればよかったとは、思わないよ」
もしも陸上を、高校でも続けていれば、俺もあの興奮の片隅にいたのかもしれない。堂島や神子島のようにインターハイには届かないけれども、輝かしい舞台には決して上れないのだけれども、それでも多かれ少なかれ満足を得られていたのだろう。
しかしそうは思っても、続けなかったことを後悔したりは、しない。結局俺は俺のままで、誰かを助けられるほど強くなれはしないし、失敗した過去が取り返せるわけではない。
後悔は消えないし、癒えることもないのだから。
「……そう」
またなにか冷言を重ねてくるかと思いきや、神子島の反応は短かった。心なしか、素直にしゅんとしているように見える。
え、なんで?
「そ、それにしたってお前もつくづく物好きだよな。そうやって再三俺をせっついてさ。どうしてそんなに俺を陸上に向けたがるんだよ」
恋人同士、堂島と仲良くしていればいいじゃないか――とは冗談なしに殴られそうなので言わないが、これも何度となく繰り返してきたやり取りだ。だから今回も同じように返ってくると思ったのだが、しかしまたしても神子島は俺の予想を裏切った。
「――そんなの」
視線を眼下に落としながら、ぼそっと答える。
「あなたと一緒に続けたかったからに、決まっているでしょう」
「……え、と」
ど、どうしたんだ、今日の神子島は。なんだかいつになく感情的じゃないか? どうしたんだ。なにかのフラグか。死亡フラグか。誰のだ。俺のだ。
さてはまたいたいけな高校男子の純情を
勘違いをするな、俺!
神子島にとっての俺は、ストレス発散のためのサンドバッグなんだぞ。
「そ、それにしても、いよいよ明日が体育祭なわけだが!」
なんだか湿っぽくなってきた空気を打破するために、気負って大きく声を張る。近くに誰もいないから別にいいだろう。急に大声を出した俺に驚いて、神子島も「え、ええ、そうね」と戸惑いながらも合わせてくれる。
「神子島から見て、どうだ。五組は目標達成できそうか」
「そうね……士気の高さは、申し分ないわ」
軽く頷く。
「この間の最後の体育の授業、男子が円陣を組んでいたでしょう。ほら、あなたがハブられていたあれよ」
「べ、別にハブられてたわけじゃないんだからねっ」
ただ、ちょっとさらっと忘れられていただけで……どっちのほうが傷つく?
「いや、そこは嫌がらずに参加するべきだろう」
「ああいう空気って苦手なのよ。団結するのはいいけれど、熱くなるのは嫌なの。なんなら私のこともハブにしてくれていてよかったのに」
お前、それマジでナチュラルハブにされてる奴の前で言うなよ。されたことないくせに。結構本気で切なくなるんだぞ。
「ひとりも手を抜かない、ということはさすがにないと思う。でも、勝てるかもしれないという希望は、みんなの確かな原動力になってる――出し抜く快感っていうのが、思いのほか効いてるみたいね」
「まあ、そうだろうな。さすがは神子島サンの弁術。お前、政治家になれるぞ」
「それならあなたは参謀ね。あれはあなたの発案よ」
……大枠だけだぞ。
俺の示した型に説得力を
しかし本人はそうは思っていないようだった。
「あなたが行先を示さなければ、私が導きに立つこともなかった。今回の件、全てあなたが始めて、あなたが動かしているの――気分はどう?」
問う。
「いかがかしら? 舞台の中心で物語を回す気分は」
冗談めかしているのは言葉面だけだ。声音も、視線も、そこに
いつだったか、談話室で俺に迫ってきたものと、同じ。
答えろと、視線が迫る。
「……俺は」
言い、しかし声は掠れていて、黙る。顔を逸らす。視界から神子島が消える。
やっぱり、違う。
主人公は、俺じゃない。
「俺は舞台の上にはいない――実際に物語を回しているのは、お前や、堂島だ。誰に訊いたってそう答えるだろうさ。誰も俺のことなんか見向きもしていない……主人公っていうのは、一番輝いている奴のことだ。そいつは、俺じゃない」
ぼそぼそと言う声には、我ながら情けないほどに張りがなかった。弱々しく、自信がない。
これだけ神子島に言われても、まだ逃げている自分が、素直に情けなかった。
視界の外から、短く神子島のため息が聞こえた。
「……あなたも、強情よね」
落胆の色は、あまりなかった。含んでいるのは呆れだ。
恐る恐る視線を戻すと、神子島は微笑していた。
仕方ないわね、という感じ。
「あなたがどうしても認めたくないのはわかったわ。でも、私は認めないあなたを認めないから」
きっぱりと言う。なんだか宣戦布告でもされているみたいだが。
「確かに、主人公というものは波乱万丈に光り輝いている人かもしれない。誰もが憧れるのはそういう主人公よ。剣を手にした勇者や、杖を携えた魔法少女――でも、別にそれだけが主人公じゃないわ」
いい? と神子島は俺の鼻先に人差し指を突き付けた。
「アンチヒーロー」
歯切れよく、神子島は言う。
「アンチって……それじゃあ主人公の敵なんじゃ」
「いいえ。ダークヒーローと言ってもいいのだけれど、それも立派なヒーローよ。つまり」
突き付けた指先がいよいよ俺の鼻に突き刺さる手前にまで寄せて、神子島は笑った。
「情けなくて、かっこ悪い主人公。つまりは御社くんみたいな、ね」
「…………」
なんだか嬉しくないな。
でも……そうか。
そういう主人公も、いるのか。
俺は、どうだろうか。
目指しても、いいんだろうか。
「ちなみに他に例えるなら、の
「俺の決意を返してくれ」
あんまり並べられて嬉しい連中じゃないぞ。基本的に酷い目に遭ってるじゃないか。
顔をしかめる俺に、神子島はふふっと声に出して笑った。
「とにかく。御社くんは私にとってのヒーローだから――だから、明日も頑張ってね」
「……ん、まあ、頑張るよ」
俺がどうして神子島のヒーローなんだ?
そう問い返したかったのだけれど、なんだか聞きそびれる。
俺は別に、神子島になにかをしたことはないのだけれど。
でも、なんだか素朴に、嬉しかった。
誰かに支持してもらえるというのは。
「ああ、それと。さっきも言った通りこの件の発案者はあなたなんだから、もし作戦が失敗して五組が最下位だったりしたら、来期の生徒会選挙で会長に立候補ね」
「それは日陰者に対する最悪の制裁だな!」
「じゃあ、私に告白する、でもいいけれど」
「……え」
一瞬、なにを言われたのか理解が追いつかなくて思わず神子島を見るけれど、神子島はあらぬ方へ顔を向けている。
……えーっと。
「それはお前、キッツイだろう……」
クラスメートにすら認知されていない地味男が生徒会長に立候補した挙句に一票も入らず無かったことにされるのもダメージでかいけど。
「冗談でも傷つくものは傷つくんだぞ……」
「どうしてフラれることが前提なのかしら」
ふん、と呆れるように鼻を鳴らして、神子島は顔をこちらに戻す。いや、だって。
どうしたって俺じゃあ神子島につり合わないし、俺ってなんにもいいとこないし、サンドバッグだし。
というかそもそも、神子島には正統派主人公の彼氏がいるんだから、それもう完全に死んでこいってなもんで。
それくらいなら生徒会長に立候補して無視される方がダメージは少ないよな、と見ると、神子島はなにやら小声で「告白すること自体は問題ないのね……」とか呟いていた。
……ん、んー。
「と、とにかく。明日それなりの結果を出して来ればいいわけだ」
「ええ、まあそうね。せいぜい頑張るといいわ」
どうして上から口調なのか気になるが。
ようやくこのロードワークのスタート地点が見えてきた……ゴールだ。街灯の光の下に、俺の自転車が浮かび上がっている。結局、神子島は最後までついてきたな。
しかし神子島の息がほとんど乱れていないのは、やはり積み重ねてきたものの差か。
「ああ、そういえば、御社くん」
あと十数メートル、というところで不意に神子島が言った。なんだ、と見ると神子島は俺へ
「私、胸は御社くんの御期待には添えないのだけれど、お腹なら自信あるのよ」
「……割れてるのか?」
「バキバキよ」
「……、いやいや! ――見たら
とか言って、実はちょっと見てみたかったりして。
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