第11話 明暗

 記録会、という大会がある。


 確か、陸上競技と競泳くらいにしかない大会だ。大会と言いつつも、これは大会ではない。

 記録するための戦いだ。


 陸上競技が誰との戦いなのか、というと勿論、ともに競技する選手との争いではあるのだが、究極的には自分自身との戦いであり、記録との戦いだ。


 自己最高記録。あるいは人類最高記録。


 オリンピックで優勝すれば、確かに世界一の覇者にはなる。だがそれはあくまでも当代一位であって、人類最強とは必ずしも一致しない。

 世界記録を塗り替えなければ、絶対的王者とはなりえないのだ。


 まあ世界規模の話はスケールが大きすぎるけれども、小学生だって陸上競技者というものは、どの大会で何位に入った、よりも自己ベストはどれくらいだ、ということの方をより気にする。記録会というのはまさしくそれを計るものであって、恐らく日本全国どこでも、定期的に開催されている。順位はつかないし、表彰もされないけれども、公式記録として自分の実力を記録することは、決して無益ではない。大会によっては、この公式記録によって出場の可否が決められたりもするくらいだ。


 その記録会が、学校に向かう途上に通りがかった陸上競技場でちょうど真っ最中だったので、俺はなんとなく覗きに入っていた。

「…………」


 日曜日だ。天気もよく、絶好の日和ひより。そして体育祭を明日に控えた、最後の日曜日でもある。この天気が明日も続いてくれればいいが。しかしスタンド席は屋根なんてついていないから、黙って立っていると熱中症にでもかかりそうだ。

 スポーツ公園、と銘打たれた運動施設集合地域の一角に構えられたこの陸上競技場は、やや古いがれっきとした競技場である。トラックが砂であったりなんかしないし、フィールドの芝も丁寧に整備されている。全国大会は無理でも、県大会は持ち回りで開催されるくらいにはちゃんとした競技場だ。

 俺の通う高校はやや離れているが、自転車で行ける範囲ではある。確か陸上部の練習は大概ここでやっているはずだ。この規模の施設を常日頃の練習で使えるのだから、環境に恵まれていると言えるだろう。ちなみに俺が中学生の頃も、自転車でここまで通って練習していた。だから、勝手は大体心得ている。

 そして、明日の体育祭もまた、ここでやることになっている。半日貸し切りになるのだから、贅沢ぜいたくな話だ。


 ハードル競技が終了し、係員が次々とトラックに並べられていたハードルを撤去していく。漠然とアナウンスを聞いていた限り、どうやらうちの高校にはハードル選手はいなかったようだ。

 記録会だから、見物客なんてそんなにいない。俺は最前部で手すりにもたれかかって、なんとなく眺めている。――万が一にも神子島なんかに見つかったら気まずいから、人目はそれとなくはばかっているけれど、まさか気付かれることはないだろう。俺を知っている奴がそもそも神子島と、あとは堂島くらいのものだし。

「…………」


 眼下では走り幅跳びが始まっている。ひょろっとして身体の出来上がっていない一年生らしき男子や、筋骨隆々に仕上がった三年生が、次々と跳んでいく。読み上げられる記録を聞いて、悔しがるもの、ガッツポーズを取るもの。


 何年か前までは、日常だった光景。


 俺は投擲とうてき、砲丸投げをやっていたから、タイムというものを気にしたことはなかったが、試技に成功して自己ベストを出したときはさすがに嬉しかったものだ。練習の成果なわけだからな。

 あの高揚感も、今となってはもう思い出せないけれど。


『次は、男子百メートル、一組目――』

 アナウンスが入る。準備ができたようだ。走り幅跳びに下ろしていた視線を、百メートルのスタートラインへ移動する。

 今まさにスタート位置に着こうとしている八人。その後ろにも、レーンごとにかなりたくさんの選手が並んで待機している。百メートルは男女ともに、競技者人口がダントツに多い種目だからな。得意種目が決まらなかったらとりあえず百メートルを走っておけ、くらいのノリだ。俺も一度、記録会で走ったことがある――俺の場合は、中学一年のとき、記録のふるわなかった長距離から別の種目を開拓しようという顧問のお達しで、いろいろと試している最中だったのだが。砲丸投げに落ち着いたのはそのすぐ後だ。ちなみに百メートルの記録は平均に毛が生えた程度だった。


 On your mark 、というコールで、八人がそれぞれにスターティングブロックに己をセットする。あのコール、俺が中学を卒業する直前に、どういう趣向か英語に変わったんだよな。それまでは「位置について――」という小学校の運動会でよく聞く号令だったんだが。英語にしたところでなにが変わったという感じはしない。まあ俺はトラック選手じゃなかったからな。


 Get set 、という声で全員が腰を上げる。見ている側も思わず緊張する一瞬。


 号砲。


 一斉に八人が走り出し、徐々に姿勢を上げ、ゴールラインを走り抜ける。あっという間だ。一位で駆け抜けた奴の速報記録が、ゴール横に置かれた電光掲示板に表示される。十一秒六三。ピンと来ないが、結構早い方じゃないかと思われる。それを確認した一位は、よし、とガッツポーズを取った。自己ベストだったようだ。

 そんな調子で、次々と消化されていく。スタートのやり直しなどもなく、快調な進行だ。そして、八組目。


 堂島がスタートに並んだ。


 遠目だから目鼻立ちなんてはっきりしないし、うちの陸上部のユニフォームも初めて見るから個人の判別なんて無理そうなものだが、三レーンで悠々と流しを取る堂島は明らかに他の選手たちとは、存在感が違った。

 鍛えられた筋肉の仕上がりもそうだが、恐らく最も一線を画しているのは、気負いだ。

 無理がない。無駄がない。眼前の一本に集中し、余計なことの全てを捨てている、ように見える。

 多分、俺がいつも奴に見ている主人公オーラとはまた違う――強者の。

 全国出場経験者の、圧倒的上位者の余裕だ。

 コールが入って、堂島もクラウチングスタートの姿勢を取る。そして腰を上げ――出る。


 一歩目から、圧倒的だった。


 スタートを切った瞬間から、加速するまでのフォーム。鮮やかで淀みない制御は、相応の加速を生み出す。

 他の選手を大きく引き離して、ぶっちぎりでゴールラインを駆け抜ける。


 速報タイムは、十秒六六。本日初にして唯一の、十秒台だった。客席や、応援の中から喝采かっさいが湧く。けれど堂島自身はと言えば、それほど喜ばしそうには見えなかった。ベストタイムではないのだろう。

 向上に余念ない。現状に満足していないということは、これからもまだ強くなるということだ。

 成程これを目にしてしまえば、堂島が体育祭を適当に済ませようとする気持ちも、遺憾いかんながら想像できてしまう。公式記録にもならず、並び立つような強者もいない体育祭なんて、完全にただの遊びにしかならないだろう。しかも、それなりのリスクを伴った遊びだ――それでも球技よりはマシだと思うが。

「…………」


 物思いに沈んでいる間にも、タイムテーブルは粛々しゅくしゅくと進む。堂島の組が男子の最後だったようで、続いてすぐに女子の百メートルだ。

 一組目に神子島がいた。

「…………」


 堂島ほどの威圧感はない。けれど神子島もやはり、並んだ他の女子とはなにかが違う。

 とはいえ神子島は、いつだって冷淡に無表情だから、日頃となにかが違うという雰囲気はない。ただ、自然体なのだ。


 On your mark 、とコール。Get set ――号砲。


 女子の場合、男子よりも差が明確だった。

 同組にそれほど早い選手がいなかったのかもしれない。ほとんどの女子が、言っちゃあ悪いがのたのたとした重そうな走り方だ。

 その中で神子島だけはあっという間に突出する。フォームから段違いなのだ。腕を振り、膝を上げ、ポニーテールに結われた髪を風になびかせる洗練された姿勢は、ゴールの瞬間まで崩れない。神子島が駆け抜けてゆうに数秒を空けてから、ようやく二位以下がゴールする。

 速報タイムは十一秒九八。

 またわっ・・と歓声に沸くけれども、当の神子島は別段の反応もなく、淡々とゼッケンを外して係員に渡し、スタスタとゴール横の選手テントに入っていく。ベストだったのかどうだかもわからない。自分の記録に全く興味がないようにすら見える。高校だとよくわからないが、女子で十二秒を切れるのは相当凄いはずだ。


「……ふん」


 鼻を鳴らして、俺は手すりから離れた。万が一にも神子島なんかに見られないように、遠回りするようにしてスタンドを下り、競技場から出る。

 さすがは、主人公カップル。ふたりそろって大したもんだ。文句の付けようがない。順当にいけば、今年もインターハイにはふたりとも出場することだろう。

 スポットライトなしでも、自分の力で輝ける。あいつらは、そういう連中だ。余りある才能と、それを無駄にすることなく尽くされる努力。凡人としては、ああいう人類と知己であるというだけでもほまれ高いと思わせられてしまうような、そんなレベルの人間。


「……全く全く」

 下らねえ。


 あいつらを羨ましいと、ほんのわずかでも思ってしまう自分自身を、無性に殴り飛ばしたくなった。

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