第9話 慣れない来訪者たち

 放課後。

 俺はいつものように談話室にいた。また、教科書やノートは広げたまま手つかずで、俺自身はと言えば天井を見上げ、馬鹿みたいに口を半開きで呆けていた。


 ずいぶんと長いLHRロングホームルームだった、気がする。

 議事の中核を担ったのは、ほぼ全てが神子島みこしまだ。俺がやったことと言えばせいぜい、黒板に名前を列挙したくらいのもの。実質なにもしていないようなものだ。

 それに、神子島が披露ひろうした演説は最後のアドリブを除いて全てが、昨日の放課後にここで神子島と打ち合わせていたものだったが、実のところ、俺はそれについても大枠を示しただけで、具体的なところ、つまり誰をどの種目に割り当てるかということを埋めたのは、全て神子島だ。……まあ、俺はそもそもクラスメートの顔と名前が全く一致していないから、手伝いようもなかったのだが。


 困っている女の子を助けるための、たったひとつの冴えた策略。


 なんて、そんな大それたものではないけれど、もっと他に良案があるのかもしれないけれど、今の俺に思いつくことのできる唯一の方策。

 ある意味で、正攻法だ。

 楽しんで勝ち、勝って楽しむ。それは普通のことで、他のクラスであれば議題に上ることもないであろう前提。

 それは不可能事ではないと、俺が言ったのはそれだけだ。

 あとはオーダーも演説も神子島が組み上げた。本当に、大した奴だよ、神子島は。

 それだけに、どうして神子島が俺如きごときにかかずらうのかが理解できない。


 神子島は俺になにをさせたいのだ。

 困っている女の子を助けろと、そう仕向けた。


 結果的に俺は多少なりとも乗せられて、一切表立ってはいないものの、この件に一枚噛んでしまった。脚本に口を出すだなんて、背景担当にあるまじき越権行為だ。大いに反省しなければならない。もう二度と、こんなことのないように――二度と。

 舞台の上に憧れて、そこに立とうと思うようなことが、あってはならない、のに。


 神子島は、それを俺に望んでいる。

 腑抜けていると、叱咤しったしてくる。


 結果的に、この体育祭に関してはいい方向に進みつつある。だが決して、俺がなにかを為したからではない。舞台に立っていたのはあくまでも神子島で、俺はやはり背景を塗り潰していただけに過ぎなかった。


 俺はなにも成し遂げていない。

 俺にはなにもできないんだ。


 神子島は、言うまでもなく主人公サイドの人間だ。舞台の上に、物語の中心に立つに相応ふさわしい存在だ。俺なんかとは、明確に違う。そしてそういう人間は、自分にとって価値も関係もない人間に関心を持つことをしないし、必要ともしないもの。例えば同じ主人公サイド筆頭の堂島が、俺と一度も話したことがないようなものだ。人望のあついスクールカースト上位者は、存在感の希薄きはくな下々の庶民と好んで関わり合いを持とうとはしない。せいぜい「あんな根暗そうな奴とも親しくできるだなんて素敵」などと自分上げのダシに使うくらいだ。


 そういうものだ。

 けれど神子島は違う。


 自分上げがしたいのなら、人の目があるところでないと効果は薄い。しかし神子島は、教室では滅多に話しかけてこない。お互い、関係のない間柄という距離感だ。

 神子島が俺に毒舌を吐きに来るのは、いつだって談話室。人の目がないわけではないが、自分の株価には繋がりにくいだろう状況。


 目的はなんだ。

 どうして神子島は俺を動かそうとする。引きずり出そうとする。

 まるで、俺を主人公にしようとでもしているみたいじゃないか。


「……冗談じゃない」


 そんなのは、御免だ。

 身の丈に合わないことをしようものなら、手痛いしっぺ返しを食らうはめになるのが常。この高校に入学して以来ずっと成績不振になっているのがいい例だ。

 神子島は俺になにを求めている。


「――はン」


 あえて鼻でわらって、考えるのをやめた。

 馬鹿馬鹿しい、考えるだけ無駄だ。他人の真意なんて、ましてや優等生神子島の考えていることなんて、下等庶民の俺にわかるわけがない。そんなえきのないことに拘泥しているくらいなら、勉強していた方がずっといい――そう思って、天井を見上げ続けて痛み始めていた首をさすりつつ視線を前に下げると、ガラガラと引き戸を開けて誰かが入ってくるところだった。

 おや、知った顔だと思ったら堂島クンじゃないですか。ジャージスタイルでスパイクシューズを提げている。部活の最中にスポーツドリンクを買いに来たのだろう。まあ鉢合わせたところで話しかける間柄ではない。それどころか会釈を交わす程度の関係でもないから、俺は構わずさらに視線を下げる。


 白紙のノート。

 さて、と問題集を紐解き、問題文を読み始めたところで、足音がゆっくりと移動し、ノートの上に影がさした。

 誰かが俺の前に立っている。誰か。

 堂島しかいない。


「…………」


 え、なに。恐る恐る顔を上げると、俺の正面に塗り壁の如く立っているのはやはり堂島だった。見下ろす視線は無感情だったが、俺と目が合うとすぐさまと愛想のいい笑みが浮かんだ。

「やあ……えっと、ちょっといいかな」

 いつもの、人当りのいい物腰。相対者あいたいしゃの警戒を程よく解き、懐に入り込む距離感。天然だろうが計算づくだろうが恐ろしいスキルだが、いずれにしても俺には逆効果だ。理不尽なくすぶりしか起こらない……とはいえ、まさか理由もなく突っぱねるわけにもいかない。

「……なんスか」

 ぞんざいな返答がせめてもの抵抗だ。

 主人公アレルギー。無条件に敵意と反抗心を発動する。

 ましてや堂島とはこれが初会話なのだから、同じ主人公でも神子島に対するそれの比ではない。


 だが堂島はさすがに百戦錬磨、俺のちっぽけな警戒心など歯牙にもかけず、

「今日のLHRのことでね。ほら、玲花れいかがいろいろと言ってただろ」

 なんだ、自分の希望が通らなかったことに文句でも言いに来たのか? しかしどうして俺のところに来る。まさか俺が発案者だとバレてる? 神子島が自分で言うわけはないが……しかし。

「…………」


 玲花、ねえ。

 ふーん、へえ。ほぉーう。

 まあ、そうですよね。


「……言ってたな。それが?」

「ああ、そのことについて、君に頼みたいことがあってさ。ちょっと説得してほしくて」

 説得? 誰をだ。神子島をか? どうやら俺に文句を言いに来たわけではないようだが、しかし説得とはなんだ。まさかあれだけ趨勢すうせいが傾いた後で、てのひらを返すよう俺に言えと? そんなことは不可能だということもわからないのか、こいつは。いや、そんなわけがない。


「……どうして俺?」

「うん、同じ中学出身の奴に聞いたんだけど、君、玲花と同じ中学の出身なんだってね。しかも陸上部だったそうじゃないか。知ってると思うけど、玲花って結構頑固なところがあってさ。俺が言っても、あの会議の後だし、聞いてもらえないかもしれないんだけど、でも君の言うことならもしかしたら聞いてくれるんじゃないかと思って」

「…………」


 昔の話を持ち出して、知ったようなことを。確かに俺は神子島と同じ中学の出身で、同じ陸上部で三年間活動していたが、それだけだ。別に特別な関係にあったわけでもなんでもない。それなのにどうして、現在進行形で親交を深めているお前よりも、俺の話を聞くっていうんだ。

 加速度的に俺の内心に不穏が満ちていくが、堂島は気付かない。それどころか俺の無言を了承と受け取ったらしく、立ったまま話し始めた。

「これも知ってるとは思うけど、陸上部はもうすぐ高体連が近い。で、俺たちは三年だから、これがインターハイに繋がる最後の大会なんだ。みんな、全力で、ベストのコンディションで挑もうと練習している」

 ……早くも話が読めてきたな。


「この大事な時期に、もしものことがあっちゃいけないんだ。だから、」

「神子島に、体育祭はサボれ、と俺から言えってか」


 先を取った俺の言葉に、堂島は苦笑した。

「そこまでのことは言わないよ。ただ、玲花はどうやら、どういうわけか今年の体育祭に妙にやる気を出していてね。最近は部活でも、みんなより早く練習を始めて、みんなが帰る頃になってもまだ残ってる」

「やる気があるのはいいことじゃないか」


 神子島は馬鹿じゃない、どころかうらやむ気も起きないほどの才媛さいえんだ。無理と負荷の境界線くらい把握しているだろう。

 しかし堂島は、そうなんだけど、と肩をすくめてみせる。動作のいちいちがさまになる奴だ。つまりいちいち気に入らん。


「確かにそれは否定しないよ――本種目の限りでは、ね」

「あ?」

「玲花はここしばらく、八百メートルの練習もしている」

 八百メートルの? 思わず眉根が寄る。


 俺と神子島が体育祭について打ち合わせをしたのは昨日だ。しかも八百メートルに出場すると決めたのは今日のLHR最後での、アドリブだったはず。

 違うのか? 堂島は、ここしばらく、と言った。

 もっと前から考えていた?


「俺も初めは気付かなかったんだけどさ。部活の練習中は本種目の練習しかしてないから。玲花が八百の練習をしてるのは本練習の前後だった。まさか体育祭のためとは思わなかったけれど……でも正直、俺は玲花に八百の練習なんてしてほしくない」

「……どうして。神子島ならそつなくこなすだろ」

「でも玲花は短距離の選手だ。中長距離の選手じゃない」

 わかるだろ? と堂島は前のめり気味に詰め寄ってくる。

「確かに玲花なら八百だって問題なくできるだろう。けど、慣れないことはするべきじゃない。ましてやこんな時期なんだ。百や二百と八百メートルは使う筋肉だって違うし、練習メニューも変わってくる。やり慣れない練習で万が一にも怪我なんかしたら大変だ」

「……まあな」

「玲花がわけもなくそんなことをするはずがないから、なにか理由があるんだろうとは思う。けど、どんな理由があったって、高体連よりも重要なわけはないだろう」

「……そうだねえ」

「百メートルで全力を尽くすのはいいよ。俺も、決まったからにはちゃんとやる」テキトーに濁そうとしていたくせに爽やかな開き直りだ。「でも慣れていない種目で怪我なんかしたら冗談にならない。こんなことで前途有望な玲花の全国への道を閉ざされるなんて、あっちゃいけないんだ」

「そーなのかー」


 俺の返事が空虚になって行っていることに、堂島は気付かない。自分の考えを語ることに熱くなっていて、俺の様子をかんがみない。対して俺は、堂島がたかぶるのと反比例するように冷めていく。

 なにを言っているんだか。


「そういうことは、顧問が言うもんじゃないのか。厳しいんだろ、陸上部の顧問は」

 堂島が言うまでもなく、はっきりと「体育祭なんかサボってしまえ」と言っていそうなイメージだが。あくまでもイメージだ。陸上部の顧問の授業を受けたことがないから、人柄なんて知らない。もっと言えば担当科目がなんなのかも知らない。つまり聞きかじりからの偏見だ。


 堂島は、表情を曇らせて語調を鈍らせる。

「まあ、そうなんだけど……先生も、そんな下らない遊びなんか本気でやるなって言ってるんだけど。でも玲花は、あんまり先生の指示って聞かないから」


 マジか。淡々と飄々ひょうひょうと、風を見ることもなく波に乗っていくのが神子島であることは知っているが、まさか堂々とサボタージュを推奨している鬼教師の命令を真っ向からシカト決められるとは。


「……それ、怒られないのか?」

「玲花の場合はね。どういうわけか先生も、玲花には強く言えないんだ」

 熱血漢ですら口を出せない程とは……恐るべし冷血嬢。今度会ったら雪女って呼んでやろうか。

 まあ、そもそも普段から怒られるようなミスを犯さないからだろうけれど。

 巷間に言う、日頃の行い、というやつだ。


「俺も俺で、玲花には強く言いにくいし……体育祭のことがなくてもね。でも、君ならそういうこともはっきり言ってあげられると思うんだ」

 ここぞとばかりに、また身を乗り出して堂島は言い切る。そりゃあ、大事な彼女とは喧嘩なんてしたくないんだろうがな。そこでどうして俺なんだ。俺なら殴られても構わないと?

 確かにサンドバッグ扱いは慣れているけれども。

 なにを根拠に。


「ほら、君、一年の頃から放課後はいつもここにいるだろ。で、玲花もよくここに来て君と話してるのを見るんだ。……わかりにくいだろうけど、君と話してるときの玲花って、部活にいるときとかとはちょっと表情が違うんだよね。こう……楽しそう、というか」

 少なからず悔しそうな顔に見える。


 はン、なに、妬いてんの?


 とか言ってみようかと本気で検討するが二秒で却下する。俺が空しくなるだけだ。

 しかし、表情ねえ……あの鉄仮面に、表情なんてあるものか。

 部活やってるときの神子島の顔なんて見たことはないけれど、別に変わらないと思うぞ。気のせいだろう。確かに神子島はたまに笑顔を見せるけれども、それは決して好意的なそれではなくて、もの凄くサディスティックな笑みだ。弱者をいたぶるような嗜虐的しぎゃくてき喜びの顔。


「…………」

 そんな特別は、嬉しくないな。


「そもそも、玲花が誰かと積極的に話してるっていう光景があんまり見ないからさ。玲花は人気があって、人望があるけれども、自分から誰かに関わっていくタイプじゃない」

 まあ、そうだな。さすが彼氏、よくわかってるじゃないか――て、さっきから俺はどうして妙に卑屈になっているんだ?

 これだから主人公は。向かい合うだけで弱者に弱さを自覚させてくる。歩く公害だな。


「とにかく、君と玲花は仲がいいんだろう。中学からの仲なんだ。そこを見込んで、お願いしたい――これは、オヤシロくんにしかできないことなんだ」

 そう言って、にっこりと笑う。その真っ白な歯をぶち抜いてみたいという欲求はひとまず置いておいて、俺は一瞬固まる。

 誰にしかできないって?


「百メートルで頑張ることは、いい。でも八百メートルは考え直すように、言ってくれないか。いや、八百だけじゃない、重複出場すること自体を、思いとどまるように説得してもらいたいんだ、オヤシロくん――オヤシロ・ヨウくん」

 念押しの効果を高めるように、堂島は呼びかける。このタイミングで名前を持ち出すことが、相手の心象により深く踏み込むための、堂島のつちかってきたトーク術のひとつなのだろう。けれど俺は、それどころではなかった。いや全く。頼みの内容が頭に入ってこないくらいに。吹き出すのを堪えるので精いっぱいだ。


 オヤシロ・ヨウくんですか。

 誰ですかそれ?

 ボクは御社みやしろはるかですよ?


 笑い出してしまわないよう頬を引き締め、むっつりした顔になった俺を、この反応は予想外だったらしい堂島は怪訝けげんそうに見る。そりゃまあ、そうだろう。堂島のシナリオでは、ここは俺が堂島の大層な演説にいたく感銘を受けて、神子島の説得にロケットスタートを切るところだったのだろうからな。


 でもお前、名前は間違っちゃいけないだろう。少なくともこのタイミングでは。


 いや、わからないでもないよ? 間違ってしまうのも仕方ないだろうよ? 堂島は今まで、俺みたいな奴のことなんか眼中になかったんだからな。まさに背景、背を向けている俺のことなんか、一度も意識に上らせたことはあるまい。

 だから、名前だって今の今まで知らなかったはずだ。実際、思えば堂島は昨日も今日もLHRの最中は俺を「議長さん」と呼んでいた。知らなかったんだ、俺の名を。興味がなければ一度聞いた程度ではすぐに忘れる。

 けれどそこは主人公、俺を説得するにあたって利用するために一度確認したんだろう。その手段はいくらでもある。座席表でも、役員名簿でもいい。


 御社・陽。

 読めなかったのだ。


 確かに俺の名前は、姓も名もなかなか一発では読まれない。名の方の誤読率がぶっちぎりだからそうでもないように思われがちだが、御社だってよく間違われる。「オヤシロ」なんてよくあるし、ときには「オンシャ」って読む考え過ぎの人もいる。まあ、姓を誤読されたときには俺も訂正するさ。名の方に関しては俺自身が気に入っているとはお世辞にも言い難いものだし、訂正すれば今度は変な顔で見られるのが恒例だから、誤読されるがままにしているけどな。

 しかし、姓名ともに、ここまでかっこよく爽やかに間違えた奴は初めてだ。しかも本人は全く気付いてないという。

 爆笑を堪えるのが大変だ。


「オヤシロくん?」

「ああ、いや、悪い」


 内頬を噛んで笑いを堪え、ようやくまともに応答する。とはいえ笑いそうになっていたことは気取られたらしく、どうしてこの場面で笑うのかと、堂島は眉根を寄せている。


 悪かったよ。

 間違え方があんまりにもカッコよかったものでな。

 まあ、正してやらないけどな。


「悪い悪い。で、なんだっけ」

「玲花を説得してほしいという話だ」

「ああ、そうそう、それな。そうだった」


 俺は軽快に頷く。さっきまで俺の中に溜まっていっていた屈託くったく鬱屈うっくつが、一発で吹き飛ばされてしまった。もう緊張感もなにもない。俺は、はン、と笑って正面から堂島を見返した。

 もとより返事は決まっている。


「お断りだ」

「……どうしてかな」


 あまりにあっさりした、気負いのない俺の拒否に、堂島は目を細めて抑揚薄く問うてくる。

「どうしてもなにも。俺には全く関係のない話だからな」

 嘘じゃない、本音だぜ。……おいおい、そんな怖い顔をするなよ。

「関係のない話じゃないだろ。玲花は君と」「仲がいいとか、そんな話じゃないだろ」

 堂島の言葉を遮って、俺は言う。

「お前が最初に言ってたんじゃないか。神子島は頑固だって。そうだよ、その通りだ。あいつは自分で決めたことは最後まできっちりとやる。誰かになにか言われたところで、修正することがあっても、撤回することはまずない」


 自分の発言の責任は、最後まできっちり自分で取る。

 そういう奴だ。

 そういう、誇り高い奴だ。


 誰が言ったとしても同じだ。神子島が俺を仲のいい相手と思っているかどうかは別として(大いに怪しいものだが。サンドバッグだぞ)、俺がなにを言ったって聞きはしないだろう。例の冷たい視線で見下ろすだけだ。

 というか、彼氏のお前が言って聞かないんじゃ誰の言うことも聞かねえよ。


「あれは神子島が決めたことだ。俺が口を出すようなことじゃない。どうしても止めたければお前が自分で言え。他人を頼るな」


 そして痴話ちわ喧嘩はよそでやれ。


「慣れないことをして怪我をするかもしれない? おいおい、なにを言ってるんだ。怪我のリスクなんてどこにでもあるだろう。どれだけ気を付けていても、どこでなにをしていようとも、怪我するときはするもんだ。慣れていようがいなかろうが関係ない。階段を転げ落ちるかもしれない。花瓶が降ってくるかもしれない。街角で食パンくわえた転校生とぶつかるかもしれない。空から女の子が降ってくるかもしれない。かもしれないかもしれないかもしれない、だ。そんなことをいちいち心配していられないだろう。そういうのをなんていうのか知ってるか? 杞憂きゆうっていうんだぜ」


 我ながら驚くほどすらすらと言葉が出てくる。


「大体、そんなリスクくらい、神子島自身が一番わかってるだろうよ。あいつのリスクマネジメントは万全だ」だから陸上部の中でも飄々ひょうひょうと生き抜いているんだろう。「仮に神子島に、お前の言うような忠告をしたとするぞ。そうしたら、神子島はこう言うだろう、『大きなお世話よ』ってな。賭けてもいい」


 ついでに、それを言ったのが俺だった場合、神子島は間違いなくこう続けるだろう。『御社みやしろくんにそんな心配をされるだなんて、私もちたものだわ。反省しないと。猛省しないと。一生の不覚と言える、いえ、人生の汚点と言うべきかしら。薪に寝転がりながらなまの肝を舐めている気分だわ。苦汁くじゅうを舐めているわ。苦渋くじゅうだわ。随分と甘く見られたものよね。完全に下に見ている相手に忠告されるとか、末代までの恥よ。私にそんな恥をかかせるだなんて、あなた一体どういうつもりなの? 面の皮の厚さに驚きで声が出ないわ。確かに世界には賢者も時には幼児から学ぶべきという教訓があるけれど、御社くんはそれを私に思い知らせようとしてくれているのかしら。随分思い上がったものじゃない? そもそもあなたという人間は』うわイメージの神子島の罵倒ばとうが止まらねえここらでやめておかないと俺の心が折れる。しかも神子島の視線が『あらこのゴミは口をきけるのね』的な絶対零度なのだから俺でなくても膝をつくだろう。リアル過ぎるイメージ映像に俺の今までの苦難が改めて身に染みてわけもなく泣きそうだ。


「……つまり、玲花を説得してはもらえない、ということだね」

 目許を押さえて俯く俺を、冷ややかな目で見下ろしながら抑揚なく言う。


「そう言っている」

「そうか……残念だよ」


 少し前までの懐柔するような口調は微塵もなく、凍てついた声音と視線。言葉面に感情が全く見えない。

 一歩を引き、半身になりながら堂島は無表情に俺を見下ろす。

「本当に残念だ……君がこんな冷たい奴だとは思わなかった。玲花があんなに信頼しているんだから、それに見合う人間なんだと思っていたけれど、とんだ勘違いだったようだね。いいよ、君はもう頼らないから」

 邪魔したね、と肩で風を切って、ようやく堂島は離れていった。その背に向けて、俺は失笑を禁じ得ない。


 君がこんな奴だとは思わなかった? おいおい、そもそもお前、ちょっと前まで俺の存在すら知らなかったんだろうが。どんな奴だとも思っていなかったんだろうが。いちクラスメートと談話室のなにがしを、結び付けたことなんてなかったんだろう。勘違いだった? 俺の人格以前に、まず俺の名前から勘違いしてるんだからな、堂島クンよ。


 しっかりしてくれよ主人公。


 思うに今の捨て台詞が、堂島渾身の非難だったのだろうが、そして堂島に心酔する他の連中なら今の台詞でこの世の終わりみたいな顔になるのだろうが、生憎あいにくと俺には全然効いてないんだよ。「お前はもう死んでいる」くらいな効果もない。ひでぶもたわばも言ってなんかやらない。

 視線の冷たさも、言葉の尖り具合も、神子島には遠く及ばない。お前、ちょっと彼女に秘孔ひこうの突き方、もとい罵倒の仕方を習って来いよ。

 やれやれ、と突っ込みどころの多過ぎなヒーローの背を見送る。ガラガラとやや荒っぽく戸を開けて、一顧だにせず出て行った。あいつ自販機でなにも買っていかなかったけど、いいのか?


 と、見ていると別の誰かが入ってくる。しかもまた知った顔だった。

 八瀬さんだ。


 出ていく堂島とすれ違ったのか、なんだか不安げな顔で後ろをちらちら振り返りながら、おどおどと談話室を見回して、不覚にも顔を上げっぱなしだった俺と目が合った。

 一応、会釈はしてみる。また俺をクラスメートと認識しておらず、無視されたらどうしようと不安になったが、幸か不幸か八瀬さんは俺のことを覚えていたらしく、そっと会釈えしゃくを返してくれた。妙な安堵に包まれながら、俺はようやくノートに視線を下す。


 未だにそこは真っ白なままだ。

 堂島のお陰ですっかり勉強の気分ではないけれど、さすがにまだ切り上げるには早い。一問くらい解いておかないとなとシャーペンを構えると、白紙のノートにまたしても影がかかった。


 おいおい誰だよ。

 八瀬さんしかいないけどよ。


「あ、あの、御社みやしろくん」

 八瀬さんは読みを間違えなかった。そういえば、一昨日も八瀬さんは御社が俺だと思っていなかった(女子だと思っていた)だけで、読みは姓名ともにわかっていたな。

「……なにか?」

 しかし俺が八瀬さんに話しかけられる理由に心当たりがない。今は神子島はいない。俺と八瀬さんは、たまたま会ったからといって世間話をするような間柄でもないはずだ。それとも、会釈を交わしてしまった相手とは言葉も交わさないといけない主義なんだろうか。どんな主義だ。


「いや、その、なんと言うか……」

 話しかけてきたくせに、なぜか八瀬さんは挙動不審になる。あからさまに視線を泳がせて、せわしなく前髪をいじり、緩いお下げをくるくるともてあそぶ。


「なに?」

「ええと、なにっていうか、だから、その」


 全く要領を得ない。なんだか冷や汗までかいていて、傍から見たら俺が問い詰めている図みたいだけれど、いや困ってるのは俺の方だからね?

 無視してノートへ戻るのはさすがに愛想がないし、かといって目を見ようにも八瀬さんは一向に視線を合わせてくれない。やり場を探す俺の視線は、自然な流れで、そうあくまでも流れる水のように八瀬さんの顔よりもやや下に下がる。


 ……うーむ。


 豊かだ。あまりまじまじと見つめるのは無作法だとわかっているつもりだが、しかしそれでも無意識に視線が吸い寄せられてしまうのが悲しいかな青少年の習性であってその点は遺憾ながら俺も変わらない。こう、なんと比喩したものか、富士山というかキリマンジャロというかエメラルドマウンテンというか……イイネボタンはどこだ。


「あの、御社くん……?」

「おおっと、はいはい、なにかね」


 八瀬さんの呼びかけに、慌てて俺は意識と視線を引き戻す。俺としたことが、紳士のたしなみを逸脱いつだつしてしまったか。いつもなら決してこんなことはないのだけれど、さては長時間主人公オーラに当てられてバグが湧いたか。おのれ堂島、許すまじ。


「な、なにかね八瀬さん。紳士なワタシになにか用かね?」

 精いっぱい爽やかな笑顔で応じるけれど、自分でも頬が引きつっているのがよくわかる。とても堂島のようにはいかない……あいつどんな顔筋がんきんしてるんだ。

 まさか視線に気付かれててお叱りでも受けるだろうか神子島に報告するのだけは勘弁願いたいんだけれどと内心に恐々としている俺に対して、しかし八瀬さんの顔に険は一切なかった。


 不安。

 眉尻の下がった、困ったような笑みだ。


「…………?」

「ご、御免、やっぱりなんでもない。勉強頑張ってね」


 訝しんで首を傾げる俺に、とうとうそう言って八瀬さんは身をひるがえしてしまった。そのまま小走りに談話室を出ていってしまう。

 また、八瀬さんもなにも買わずに出ていったけれど……なんなんだ一体。


 体育祭のこと、か? だがあれは神子島の演説のお陰で上首尾に決まったし、八瀬さんの本意でもあったはずだ。まだなにか不安に思うようなことがあるのか? それにしたって、どうして俺のところに言いに来る?

 俺ひとり取り残された談話室に、虫の羽音のような自販機の駆動音だけが満ちる。


「……ダメだ。もう勉強のテンションじゃねえ」


 集中できない。堂島の主人公オーラのせい、ではないとは言わないが、そもそも一日にふたり以上の人間と会話したのが久し振りだった。堂島ではないが、慣れないことをするのは肩が凝る。いつもなら、神子島が来ない限り俺は一日中誰とも会話しないからな。冗談でなく。クラスにいても俺に話しかけてくる奴なんてひとりもいないんだぜ? みんながみんな、自分の仲良しと内輪で盛り上がることに忙しいからな。


 俺はさっさと荷物を鞄にまとめて、立ち上がる。

 どのみち、今日はちょっと早く帰るつもりだったから、悪いことはないな。

 校門を出るまでに神子島とすれ違わなければいいな、とちょっと思うくらいだ。

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