第3話 困っている女の子

 俺は放課後になると大抵、学校の閉まる時間まで談話室で勉強している。

 さすがに授業をひとつも出ないで談話室にいるというのは外聞が悪そうだから直帰するところだったが、一応、五限に半分ほど出席したからな。今日俺がそこにいることについて、特に問題はないはずだ。まあ誰が指摘するんだという話だが、先生に気付かれると挨拶に困るからな。そうなっても今の俺は、出席はしてましたという免罪符は持っている。そんなわけで俺はいつものように、HRホームルームが終わるとすぐに談話室へ直行する。居座るのは、自販機に近く窓を背にした一席。


 ここは、不思議な空間だ。


 俺の通うこの東旭あずまあさひ高校は市内トップクラス(そして県内で上の中)の進学校で、自習室が数多く解放されている。放課後になれば普通教室だってそうだ。この談話室も、一応はそのひとつという位置づけなのだが……ここはやや向きが違う。


 談話室、なのだ。


 普通教室の半分ほどの広さの空間に、大きな机が四基。そして重要なことには、自販機がある。校内で唯一自販機の設置されている場所なのだ。

 そうともなれば当然、全校生徒が自販機を求めてやって来る、非常に出入りの多い場所である。ときには空いている机に座って談笑する奴もいる。こんなに空気の動く、騒々しい場所で勉強に集中なんて、普通はできないだろう。


 けれど、俺はなんとなく、ここが好きだった。

 確かに、たまには死ぬほどうるさい連中も出てくる。だが、いつもではない。

 机の一隅に居座って黙々と勉強していると、多少うるさくてもあまり気にならないし、終始鳴っている自販機の、羽音のような駆動音が、妙な落ち着きをくれる。勉強に疲れて気を抜いたときに、偶然隣の机に居合わせた奴らの他愛のない会話が、気分転換になってくれる。極め付けには、ここには西日がまっすぐに射し込むから、なんだか感傷的な気分にさえしてくれる。

 右を見ても左を向いても黙々ガリガリと勉強し続ける陰気な奴らしかいない自習室なんかよりは、ずっと具合がいい。

 なにより、誰も俺に見向きもしないのだ――顔の広い奴なら、出入りする連中にいちいち話しかけたり、話しかけられたりするのだろうが、校内に顔見知りのほぼいない俺に話しかけてくる奴なんて皆無。自分の存在感のなさを大いに満喫できる――


「ねえ、御社みやしろくん」


 ――満喫できる、はずなのだが。

 あ? と俺に話しかけてきた奇特なやからはどこのどいつだと顔を上げると、俺を見下ろして立っていたのは、クラスメートの、


「……神子島みこしまサンジャナイデスカ」

「どうして片言なの」

 呆れ果てた、という顔をしやがる。


 神子島・玲花れいか

 セミロングの黒髪に、怜悧れいりな顔立ち。その恵まれた容姿はやはり評判がいいようで、この談話室でもときどき噂を聞く。涼やかな視線やしなやかに伸びる手足は明らかに同世代の女子とは一線を画しており、街を歩けばすれ違う男の十人中八人が振り返ること請け合いである。二度見しない男のひとりは恐らく硬派な球児で、残るひとりはこいつの本性を知っているこの俺だ(俺は硬派でも球児でもない。球技は全般苦手だ)。とはいえ、噂立つ理由は別にその容貌だけによるものでもない。


 理知聡明にして運動敏達びんたつ。陸上部のエース。才色兼備とは彼女のことだ、と。

 唯一の欠点を強いて言うならば――滅多に表情を動かさないこと。


 常に冷徹な無表情で、男女を問わず誰を前にしても喜怒哀楽を表に出さない。冗談を言ったって愛想笑いひとつ浮かべない。そんな鉄仮面では嫌厭けんえんされそうなものだが、しかし不思議と人望がある。男子だけでなく女子ですら、なんとかして神子島の笑顔を見ようと躍起やっきになる。


 まあ、俺は見たことあるけどな。それも何度も。

 蔑むような笑みならな。


 どうして俺が、クラスメートの男子の名すらまともに覚えていない(そして覚えられてもいない)この俺が神子島をちゃんと覚えているのかと言えば、別に特別な理由があるわけもなく、ただ出身中学が同じだった、というだけだ。神子島が談話室にいる俺のところに来るのも、別にこれが初めてというわけでもない。俺がここを定位置と決めたのは一年生の夏あたりからだったが、その頃からときどき俺のところへやって来ては二、三言皮肉を置いて去っていく。


 俺はこいつが、ちょっと苦手だ。


 陸上部期待の才媛さいえん

 主人公サイドの人間。


「……なによ、その胡乱うろんな目つきは」

「いや、別に」


 含みのある視線が気に入らなかったのか、神子島は口をへの字に曲げている。

「……それで、なんの用だよ」

 別に理由もないのだが、やや喧嘩腰な口調になってしまう。秀でた人間と相対あいたいするときはいつもこうだ。無意識に身構えてしまう。俺のその癖を知っている神子島は、その点には眉ひとつ動かすことなく、「連絡よ」と言った。


「連絡?」

「ええ。……もう見たんだろうとは思うけれど、クラス役員。あなたが体育祭実行委員になってたの、知ってるでしょ?」

「ああ、見た」


 どうしたものか、と考えていたところだ。やはり担当の教師のところへ直接行った方がいいのだろうか……と思いを巡らせていたところで、神子島がおもむろにバサッと数枚のプリントを出した。

「…………? なんだこれ」

「委員会で配られた資料。――御社くんが休んでいる間に、既に一度委員会があったのよ。うちのクラスだけ誰も出ないというわけにはいかなかったから、私が代理で出ていたの。私は体育委員だから」

 これがその資料、とぞんざいに寄越してくる。扱いは雑だが、しかしこれは助かった。


「ありがとう」

「……いつも思うけれど、ひねくれている割りにお礼は素直に言うのよね、御社くんって。――正直ちょっと、気持ち悪いわ」

 お前それ、正直に言うなよ。傷つくぞ。


「読めば全部わかるけど一応教えておくと、体育祭は例年通り陸上競技。日取りは二週間後で、来週の頭までに出場種目の名簿を提出。これは明日と明後日のLHRロングホームルームで決められるわ」

「陸上競技か……よかったな、大活躍じゃないか」

 神子島は昨年も短距離種目でインターハイに出たほどの猛者もさだ。素人ばかりの体育祭で負けることなんてあるまい。さぞかしクラスでも担がれることだろう、という皮肉を込めたつもりだったのだが、神子島は涼しい顔で「それはどうも」と受け流しやがった。慣れたものだな。


「……連絡ありが――どうも。これから部活か」

 思わず言い直してしまった。気持ち悪いと言われたのが地味にショックだったらしい。

 ジャージスタイルを見れば訊くまでもないが、場繋ぎの世間話のようなものだ。ええ、と頷きながら、神子島はなぜかそのまま向かい側に椅子を引き寄せて座った。

「おい、部活なんじゃないのか」

「今すぐじゃないもの。掃除が終わるくらいまではまだ暇なの」

 あ、そう、と返すけれど、それが俺の前に座る理由にはならないと思うのだが……しかも座って頬杖をついたきりなにも言わずこちらを見るばかりなので、居心地が悪くなってプリントに視線を落とす。読んでいる振りをするけれども、神子島の視線が気になって全く頭に入って来ない。


 数分、プリントの表面に視線を上滑りさせたところで、早くも俺は堪えられなくなった。

「……おい」

「ねえ、御社くん」

 なんなんだ一体、と問いかけようとした、まさにその瞬間を狙っていたかのようなタイミングで、被せるようにして神子島が口を開いた。

 マジでなんなんだ一体。


 半目で口をへの字に曲げる俺に対し、神子島は普段と全く変わらない淡々とした顔のまま、

「御社くんは、どうして陸上競技を続けなかったの?」

 ……またそれを、問うか。

 俺は、すぐには答えない。問いの真意を窺うように神子島の顔を見るが、平素となにも変わらないそれからは一切読み取れない。


 ……俺が神子島を記憶している理由には、実のところもうひとつある。

 中学で、同じ陸上部に所属していた。

 神子島はあの当時から才気に満ちていて、俺は可もなく不可もなく。

 そして神子島は高校に入ってからも陸上競技を続け、俺はそうしなかった。


「……別に。深い理由なんてない」

 神子島にこの問いかけをされるのは、初めてではない。数か月に一度だが、繰り返し神子島はこれを問うてくる。

 どうして陸上競技を続けなかったのか。

 対する俺の答えも、繰り返しだ。

「ただ、疲れただけだ――続けたところで、なにかに繋がるわけでもなかったしな。大体、もう俺らも三年だぞ? 今から心機一転して再開したって一朝一夕にできるようになるものでもないし、むしろなんでお前がそう何度も同じことを訊いてくるのかってことの方が、教えてもらいたいね」

「気になるからよ。決まっているでしょう」

 淡々と、なんの感情も感じられない声で神子島は即答した。

 当たり前のことを、当たり前だと言っているというだけのように。


 ガラガラと戸を開けて、騒がしい一団が入ってきた。運動部だろう、揃いのジャージを着て、自販機の前に群がる。さりげなくそちらへ視線を流しつつ、俺はあくまでも軽い調子で言う。

「なにが気になるんだか知らないけどな。俺がいたっていなくたって、別になにも変わらないだろ」

「そうね、なにも変わらない。むしろいない方が平和だわ」

 しれっと言いやがる。俺がいたって万丈な波乱なんぞ起こらないっての。


「でも、私のテンションが変わる」

「……ど、どういう風に?」

「上方向に。――暴言を吐いても後腐れのない関係って、貴重よ。あなたがいれば、私はわざわざここまで来ることなく、もっと日常的にストレス発散できるのに」

「俺はサンドバッグか」

 一瞬、ちょっとだけ脈がズギュゥゥゥゥンしてしまったことを内心で恥じる……いや、違うから。ときめいたりとかしてないから。

 よくここに来て皮肉を言っていくのが、ストレス発散だというのはなんだか納得だが。


「ストレスね。そんなにギスギスしてんの? 陸上部」それなら、入らなくて正解だったと思うところだが。「愚痴を言う友達もいないのか」

「ギスギスしているわけではないわ。友達がいないわけでもない。むしろ仲はいいはずよ」

 はず、というのが微妙に距離を感じさせるけれども。


「話を逸らさないで。私のことは別にどうでもいいのよ。あなたの話よ、御社くん」

「……ちっ」逸らしきれなかったか。

「あなたはもともと、続けた先に得られるなにかを求めていたわけではないでしょう。適当なことを言って誤魔化そうとしないで」

「……だから、どうして他人のことでそんなに躍起やっきになるんだ。高体連も近いんだろ。他人の心配してないで、自分のコンディションのチェックしてろよ」

「別に心配しているわけではないわ」

「…………」あ、そう。

 それならそれで、別にそこを拾わなくてもいいだろうに。


「じゃあ、なんで」

「決まっているでしょう。――アナタノコトガスキダカラヨ」

「ワーソイツハウレシイネエ」

 これであからさまな棒読みでも無表情でもなければ少しはドキドキするんだけどねえ。鉄仮面。怪しげな外国人でももう少しマシなイントネーションで話すっての。

 そう何度も揺らされるか。


「見ていられないのよ、今のあなたは」

 戯言ざれごとは戯言として、神子島は改めて言う。しかしなんのことだかわからない。

「……なら見なきゃいいだろ」

 どういう意味だか知らないが、どうせロクな意味でもあるまいし。

 けれど、今度の神子島は軽口を挟まなかった。

「今のあなたは……いいえ、高校に入ってからのあなたは、中学の頃に比べて、ずっと――ずっと、府抜けている」

「まあな、成績が悪いからな」

 県内上位の高校だ。冗談ではなく背伸びし過ぎたようで、成績は常に低空飛行。そりゃあ井の中の蛙だった頃よりは府抜けているだろう。

 自分が、どちらかと言えば出来のいい人間だと思っていた勘違いが、正されたのだから。


 けれど、違う、と神子島は首を振った。

「そんな外部的なことではないわ。あなたは最初から、別に成績なんて大して気に留めていないでしょう」

 ……いや、そんなことはないけど。俺が毎日ここで勉強している事実を全否定か。

「私が言いたいのは、もっと精神的な部分――根本的な部分で、あなたは弱くなった」

「……昔は強かったとでも?」


 そんなわけはない。俺は弱かった。中学の頃から――いや。

 最初から。


 けれど神子島は頷いた。先程入って来ていた集団が談話室を出ていって、やや静かになった部屋に、神子島の声が凛と響く。



「少なくとも今よりは、ずっと。――主人公になろうとしていた」



 主人公。


 その言葉を聞いた瞬間に、自分の顔面が凍り付くのを感じ、しかし咄嗟に取り繕うこともできない。


 主人公。

 それは、俺が最も嫌う言葉。


「今のあなたは、徹底して舞台に上がろうとしない。斜に構えて、挑む前から諦めている。自分が弱いと決めつけて、思い込んでいる」

「……俺には別に、お前みたいな才能とか、ないからな。背景担当の方が、性に合ってる」

「関係ないわ」

 ばっさりと、神子島は俺の苦し紛れを斬り捨てた。

「才能があるとか、能力があるとか、そういうものではなかったでしょう。あなたが求めていたのは――今も、引きずっているの?」


 あのことを。

 神子島はそう言った。


 あのことというのがどのことなのか、神子島はそれ以上言及しない。しかし俺の中には、該当する記憶はひとつしかない。

 これだから、同郷の出というのは――しがらみは。

 まだこんなところにまで付きまとってくる。


「……俺は――」

 言い返さなければ、そう思い口を開くも、言葉が続かない。そして苦しい思いの中で上げた目に映ったものに、とうとう思考までもが凍ってしまった。

 神子島の、表情。

 常に冷徹で、情というものを一切表さないその顔が、わずかに揺れていた。

 目元に、ほんの少しだけ見える、感情。

 その感情の名前は――



「あ、レーカちゃんだー!」



 不意に降ってきた声に、一切が断ち切られてしまった。無意識に詰まっていた息を、ふっと吐く。誰だか知らないが、助かった。

 緊張を解かれたのは神子島も同じようで、一瞬だけ眉根を寄せると声の方へ振り返る。

「――あら、こんにちは」

 何事もなかったかのように平然と応じる神子島。その顔には既に、先程垣間見えたなにかは完全に消えている。


「なにか用かしら」

「ううん、別に。ただ見かけたから声かけただけだよ。……あれ、もしかしてなにか邪魔しちゃった?」

「……いえ、別に」


 能天気な声に、低いトーンで返す神子島には、別になんの感情も見取れないけれど、ちょっと苛立っているようにも感じられた。間が悪かったのだろう。俺にとっては救いだったが。

 さて、それでは俺を救ってくれたのは一体どこの誰だろうと、ようやく俺はその乱入者を改めて見る――女子だな。それくらいしかわかることがない。


 茶髪交じりの髪を緩くお下げにしている。顔立ちは悪くない方だとは思うが、如何せん神子島と並んで見ているから前向きな感想をつけにくい。強いて言えば、神子島のような美顔というよりは小動物のように愛嬌のあるタイプ。どこかで見た顔だとは思うけれど……強いてもうひとつ言うと、一極集中的に胸が豊かだ。神子島と並ぶとより一層。


「…………」


 成程、これが世に言う胸囲の格差社会。

 ふと神子島と目が合った。今度はあからさまに不機嫌そうな顔で横目に俺を睨んでいる。

「な、なに?」

「どこを比べてんのよ、下衆が」

 強烈な蔑みの目。

 うわお、不覚にもちょっとゾクゾクきたぜ。


「レーカちゃんはこれから部活だよね。大会近いでしょ。調子はー?」

「そうね、悪くないわ」

「頑張ってねー、応援してるよ。それで、行かなくていいの?」

 神子島の素っ気ない応答は、ときに相手の機嫌を損ねることもあるのだが、どうやらこの女子は慣れているようだ。話し振りからして陸上部ではないようだが、それ以外の友達なのだろうか。

 などと、完全に傍観者、蚊帳の外を決め込んでいる俺の方に、神子島がそっと口を寄せてきた。


「多分あなた、この子が誰だかわかってないんでしょうけれど」

「ん、ああ。お前の友達なんだろ」俺は面識ないけど。

 はあ、と神子島はあからさまにため息をついた。なんだよ、と見返すと、神子島はまた小声で、

八瀬やせ愛生あきさん。クラスメートよ」

「……え」

 クラスメートだった。

 道理で顔を見たことがある気がしたわけだ。


 驚きと納得の表情になる俺を半目で見た後、神子島は顔を八瀬さんに戻した。

「体育祭実行委員の仕事の連絡よ」

「あ、そうなんだ。えっと、御社みやしろさんだっけ。可哀想だよねえ、休んでる間に決められちゃって」

「……ええ、そうね」

 神子島が、さげすむ視線から一転して今度は憐れむような視線を投げてくる。表情筋は鋼鉄のくせに視線だけは情緒豊かに器用な奴だ。さすがに俺も把握したが、その視線はやめろ。

「それで、御社さんは? 今日は学校に来てるの?」

「ええ、来てるわよ。ここに」

 ぴ、と渋面じゅうめんの俺を指さす。え、と八瀬さんは神子島と俺とを交互に見てから、首を傾げる。まだ理解していないようだ。

 だから、とでも言うかのように神子島が俺を指さしたまま、

「この木偶でくの坊が、その御社さん……もとい、はるかちゃんよ」

 え、と八瀬さんは今度はまじまじと俺を見つめて、え、と仰け反り指さしで、


「えぇ――――! 陽ちゃん!?」

「おい、ちゃん付けで呼ぶな。あと指さしもやめろ」


 信じられないあり得ないという顔で全力の驚愕である。失敬な奴だな。あと神子島の紹介の仕方にも文句を言ってやりたいところだが、当の神子島はそっぽを向いていやがる。

 もとい、じゃねえよ。

 ハルカという名前で性別を勘違いされるのは物心ついた時分から何度となくあったことだ。全く、悪意としか思えないような名付けである。これでせめて紅顔の美少年に生まれついていればまだしも、


「全然ハルカちゃんって顔じゃない……」

「はっきり言ってくれるなよ失礼極まりないなお前。あとちゃん付けで呼ぶな」


 余程衝撃だったようで、八瀬さんは自分を抱きかかえるようにしてぶるぶる震えている……いや、新学期初日に全員が自己紹介しているんだから、そのときに一度聞いているはずだろう。そのときはさすがに俺も出席してたし。

 ……まあ、俺は俺でこの女子のことをさっぱり覚えていなかったのだが。

 つまりは、お互い様か。

 興味のないことって記憶に残らないどころか、そもそも意識に入ってこないもんな。


「もう用は済んだから、すぐに部活に行くわ。そろそろ掃除も終わる頃でしょう。八瀬さんは教室で自習かしら。頑張ってね」

「あ、う、うん、またねー」

 最悪な紹介などなかったかのように、平然と八瀬さんを送り出す神子島。こいつの厚顔さは見習いたいところだが。

 しかし、まさかクラスメートだったとはな……名前を憶えないことはともかく、せめて、クラスメートだってことは認識できないと、今後に問題あるかな。

「……名前も憶えなさい」

「あれ、今、口に出てました?」

「顔見ればわかるわ」

 どんな顔をしていたというのか。俺は自分の頬をこねてみるが、別にいつもとなにかが違う感じはしない。そんな俺に対し、神子島は呆れたように吐息する。


 と。


 なにげなく目で追っていた八瀬さんが談話室を出ようと戸を開けたところで、別の女子二人組とかち合うのが見えた。いや、それくらいなら別に強いて目に留めるようなことでもないのだが……その途端。

 空気が、変わった。


「――あれえ、八瀬ちゃんじゃん。元気?」


 二人組の一方が八瀬さんに話しかける。しかしその顔は好意的とは全く言い難い。

 好戦的な笑みだ。

「なんか久し振りだねえ、八瀬ちゃんがいなくなって以来じゃない?」

「……そう、だね」


 二人組に対して、どういうわけか八瀬さんの歯切れは酷く悪い。二対一だから、というだけではなさそうだが……と思ったところで、二人組がそれぞれぶら下げているものに気が付く。

 青い布袋。恐らくはスパイクシューズ――陸上部。

 思わず正面に座る神子島を見るも、

「今日はちょっと曇ってるわね……」

 頬杖をついて、わざとらしいくらいの角度で窓から空を見上げている。背中越しに八瀬さんと陸上部女子ふたりの会話は聞こえているだろうに、まるで注意を払っていない。

 マジか、と見る間にも向こうでは会話が続く。


「そういえばもうすぐ体育祭だよね。また陸上競技だけど、八瀬ちゃんはどう? 今年は」

「また『みんなで楽しくやろー』とか言ってんでしょ。でも確か、そんな感じで去年は最下位だったよね、八瀬ちゃんのいたクラス。楽しかった?」

「…………」

 なんか、凄いいびられ方してるな。八瀬さん、俯き加減に黙ったまま動かない。

 八瀬さんとふたりの間になにがあったのかは知らないが……。

「助けなくていいのか?」

 さすがに見かねて小声で神子島に言う。だが神子島は、

「どっちを?」

 素っ気ない。どっちをって、と反駁しかけたが、いや、それはある意味でもっともな答えだ。


 八瀬さんは、クラスメート。

 対するふたりは、神子島と同じ部活で練習する朋輩ほうばいだ。

 ならばここで、神子島はどちらに加勢できるというのか。


「……いや、でも仲裁くらいはできるだろ」

「私が、いえ、誰が間に入っても、いい結果にはならないわ。これは彼女たちの……違うわね。彼女の問題よ」

 彼女、というのは八瀬さんだろうか。

 しかし、八瀬さんの問題とはなんだ?

 俺が疑問している間にも、ふたりの口撃は続いている。


「楽しくやるって言ってもさあ、やっぱり勝たなきゃつまんないよね」

「そうそう。負けてばっかりじゃつまんないし、『負けたけど楽しかった』なんて、絶対に言えないよね」

「そんなこと言ってへらへらしてる奴とか、なんかムカつくし」

「結局、勝てなきゃ意味ないよね――」

 そこまでだった。


 ふたりの言葉をじっと聞いていた八瀬さんは、しかしとうとう抑えがきかなくなったのか、ふたりの間を押しのけるようにして廊下へ出て、走り去っていった。

 なにも言わず、俯いたまま。

「…………」


 なんなのあいつ、などと八瀬さんの走り去った方を向きながら肩をすくめ合っている二人組。それを、注視してしまっていた自分に気が付いて視線を戻すと、今度は自分がじっと見られていたことに気が付いた。

 神子島の視線が、まっすぐに俺を射抜く。

 強い視線。


「――あ、玲花れいかだ。なにしてんのここで」

 談話室に入ってきた例の二人組が、神子島に気が付いて声をかけてくる。そこでようやく神子島は視線を逸らし、「別に」とふたりへ振り返って応じる。神子島の視線に縫い止められていた俺は、細く、静かに詰めていた息を吐いていく。

 何なんだよ、本当に。


「体育祭の関係で、クラスメートに事務連絡よ。すぐに終わるから、ふたりは先に行ってて」

「ん、わかった。練習遅れんなよー」

 スポーツドリンクを買って、ふたりは出ていく。その背を見送って、再度神子島は俺へ向き直った。

 再びあの、強い視線で。


「なにか訊きたいことは?」


 眉も口元もフラットに、しかし確かな意志を持った目で、挑発するかのように言う。

 ……どうしてこいつは。

 俺の底を掘り返そうとするんだ。

 俺になにをさせたいんだ。


「……さっきの、陸上部だよな」

 強引に目線を切って、体育祭の書類に視線を落とす。けれど考えるのは、別のことだ。

「八瀬さんは、陸上部となにか関係があるのか。確執かくしつありそうだったけど」

 顔を合わせるだけで険悪な空気になるのだから、確執なんてありありだろうが。予想通り、ええ、と神子島は頷いた。


「うちの部の方針、知ってる?」

「いや、知らない」

「勝利至上主義よ」


 端的に、神子島は言った。だがそれ以上の説明はないだろう。

 わかりやすい。


「顧問の先生が厳しくてね。どんな厳しい練習も、どれほど死力を尽くした努力も、勝利として結実しなければ意味がない――喜びが欲しければ成果を出せ、勝利で努力を実感しろ、勝てない過程は無意味である、飛べない御社みやしろくんはただのゴミだ、ってね」

「さらっとお前の個人的な暴言が混ざってるぞ」飛べる御社くんなんていねえよ。

 神子島みこしまは淡々と言っているが、しかしそれは凄絶せいぜつな方針だ。それを聞くだけで、練習がどれほど強烈なのかも容易に想像がつく。

「やる気のない奴や遊びの気持ちでやっている奴は真っ先に振り落とされる……」

「その通りよ。そして八瀬さんも、振り落とされた人間のひとり、ってわけ」

 苛烈な練習について行けなかった人間、か。


「自分を苛め抜くことが生き甲斐だった御社くんには、理解できないかもしれないわね」

「誤解を招く言い方はよせ」

 意味が変わってきかねないじゃないか。筋トレは確かに好きだったが。


「八瀬さんが陸上部にいたのは、一年生の夏まで……半年もいなかったわ。最初から、空気が合っていなかったのよ。八瀬さんはそれこそ、みんなで和気藹々あいあいと、楽しく部活動がしたかった。けれどうちは、そういう考えの人間を甘いと切って、一番初めに捨てていく部だった」

 だから切って捨てられた。

「やめたのは八瀬さんだけじゃないけどね。さすがに顧問に直談判じかだんぱんはしなかったけど、八瀬さんは頑張っていたと思うわ……楽しくやろう、ってね。どうしても殺伐としがちなチームをなんとかして盛り上げようって。でもダメだったのよ」

 その結果が、あれか。


「……神子島だって、勝たなきゃ意味ない、ってタイプには思えないんだが」

「私は、そんなものどうでもいいもの。勝つことも、楽しいことも、私が陸上競技をやる動機ではないから」

「じゃあ、どんな動機なんだ?」

「強くなりたいからよ」

 ……だから、どうして俺を、そんなまっすぐに見るんだ。

 俺は視線を逸らす。


「お前は、八瀬さんとは仲が悪くないんだな」

「彼女が部にいた頃から、私はどちらの側にもついていなかったから。八瀬さんとしても、多少は話しやすいんでしょう」

「……ああ、そうかもな」

 同意するのは、八瀬さんの内心ではない。神子島のスタンスだ。


 どちらにも与しない、けれど蝙蝠のように付和雷同するというわけでもない。

 さながら全く関係のない第三者のように、飄々ひょうひょうと振る舞う。

 神子島のそんな態度は、容易に想像がつく。中学の頃からそうだったからな。

 我道独進がどうどくしん


「どうするの?」

 唐突に、神子島が訊いてきた。なにが、と見返すと神子島は焦れるように、

「八瀬さんのことよ。どうするの」

「どうするもなにも。どっちにも関係のあるお前がなにもしないのに、どうして俺がなにかをするっていうんだ」

「女の子が困っているのよ」

 さらっと、神子島はそんなことを言った。

 む、と俺は反射的に言葉に詰まってしまう。即座に鼻で嗤うべきところだとはわかっているのに。

 口をつぐんでしまった俺に、噛んで含めるような調子で神子島は言う。

「困っている女の子がいる――それなら、なんとかしようと思うのが、あなたなんじゃないの?」

「……それは、主人公の仕事だろ」


 主人公の、ヒーローの役割だ。

 背景担当の――俺の出番じゃ、ない。

 困っている女の子を助けるだなんて、そんな仕立てられたかのような青春イベントに、俺の立ち入る隙なんて全くありはしない。

 必要なのは、主人公だ。

 俺ではない。


 苦し紛れながらもなんとか言い返した俺を、強く睨むようにして神子島が見つめる。

 どれほど時間が経ったか。一分もなかったかもしれない。とにかく神経をすり減らすような時間ののち、ようやく神子島は視線を下した。

 そう、と吐息する。

「あくまでもそうやって逃げるのなら、もうなにも言わないけれど」

「…………」

 引っかかる物言いを。

 苦々しく見る俺に構わず、神子島は鞄を肩にかけながら立ち上がった。

「とにかく明日のLHRロングホームルームで選手決めよ。一応、体育委員が手伝うことにはなってるから、書記くらいはやってあげる。せいぜい上手に進行しなさいね」

 棘を全く隠すことなく言い放つと、ふいっと顔を逸らし、肩で風を切って出ていった。窓越しに見送るも、凛と伸ばされた背は一度も振り返らない。


「……なにを期待してるんだか知らないけどな」

 誰もいなくなり、自販機の駆動音だけが残った談話室で、俺は小さくつぶやいた。


「俺は、主人公じゃないんだよ」


 そうとも。

 ヒーローは俺じゃない。

 俺以外の、誰かなんだ。

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