第3話 君子は以て経綸す
第2話 君子は以て経綸す
2022年1月14日 V.1.01
2022年3月13日 V.1.03
このキャプテンは就任から退任までの2年間、形而上下(心と目に見える事象という両面)から、部員たちを観察し、同じく、心と身体、精神力と運動能力、心のケアと拳法の技術という両面で彼らを指導・育成してきた。
自分やOBによる技術指導を、部員たちが効果的に受け入れることができるよう、部員たちのメンタル面を徳育・涵養することに細心していた。
故に、彼女は日本拳法部を運営・経営するばかりでなく「経綸した」というのです。
「綸」とは糸のこと。単に、部員数とか予算とかいった数字で部を見るばかりでなく、人の心(のあや)を見てという、いかにも日本人らしい(心の)経営の仕方です。
日本映画「君の名は。」新海誠 2016年で、
おばあちゃんが孫たちにこう言います。
「糸をつなげることも結び、人をつなげることも結び、時間が流れることも結び。・・・わしらの作る組みひもも、時間の流れそのものを表しとる。より集まって形を作り、ねじれて絡(から)まって、時には戻って途切れ、またつながり、それが結び、それが時間。・・・」
このキャプテンに関して、私は以下の三つの情報しか知りませんでした。
① 2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)【明治大学-学連選抜】で、学連選抜の中堅(当時2年生)として出場し、対する明治の永岡里沙子さん(同じく2年生)と壮絶な打ち合いを演じた(引き分け)。
明治・永岡さん → 後拳20本 (前拳無数)
立教・高橋さん → 後蹴り12本+後拳3本 計15本
両名2年生らしい激しい突きと蹴りの応酬です。しかも、軍鶏のケンカ(ただ、がむしゃらに殴り合う)のではなく、互いにしっかりと自分の場を意識し、ギリギリの間合いから適切なタイミングで攻撃を繰り出すという、素晴らしい名勝負を見せてくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=zOGwTaiEymM
② 2021年5月9日 横浜武道館で行われた第34回東日本大学リーグ戦(無観客試合)で青山学院大学の山田桃香さん(高橋さんと同じく4年生)との激しい戦い(ライブで観覧。映像が暗く不鮮明で音声もほとんど聞こえないのため、どちらが勝ったのかわかりませんでしたが、そのぼんやりした映像から彼女たちの激しい戦いぶり・もの凄い闘志がガンガン伝わってきた。)
③ そして、今回のブログ
https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/entry-12712966333.html
2021年11月28日(日)に横浜武道館で行われた東日本総合選手権大会の翌日、その結果報告という題名で書かれた「高橋さん最後のブログ」。
わずか一晩で、しかも(おもちゃのような)スマホからチョコチョコと入力したにもかかわらず、極めて論理性と整合性、そして効果的な写真と相まって、豊かな文学性に富んだ壮大な叙事詩になっています。
そこで、上記①②で観戦した彼女の闘志と、その闘志と愛をそのまま文章にしたような③の文章から、彼女のキャプテンとしての(形而上)methodology(方法論)を、私なりにデコード(復号化)してみました。
①②だけでは彼女の日本拳法のテクノロジーtechnologyの細かな部分はよくわかりませんが、methodology(方法論)なら③を鏡として写し出すことができるのではないか。
彼女は③のなかで、「楽しむ」という言葉を21回、「成長」を9回、「愛」を6回(可愛い、は除く)使用しています。これをキーワードとして抽出し、今度はフラットに展開すると「日本拳法を楽しんで。そのためには自分の成長を実感し、他人の成長を見てあげる愛が大切である」という彼女の指導方針がはじき出されてくる。
彼女の文章は、明確な意思と強い意志を中心に、豊かな文学的感性に裏打ちされた論理的で整合性が取れた展開と収縮が特徴となっている。微細な論理の明確さ(ミクロ)と全体的な整合性(マクロ)に基づいた文章を、彼女自身のポリシーである「楽しんで」読めるように、表現力の豊かさ(多角的視点)と語彙の豊富さ(多元的表現)で肉付けしている。
そこで、今度はそれを①②に見る現実の彼女の拳法に投影してみれば、激しい闘志と強力な指向性をベースに、攻撃の位相を変化させたり多彩な次元を駆使する立体的な拳法であることがわかる。
で、今度はここで明らかとなった彼女の日本拳法を彼女がどう後輩たちに指導・伝達してきたのかを、改めて彼女の今回のブログと、たまたま読んでいた「易経」という本を触媒にして、より立体的に浮き彫りにしようというのです。
ここで明らかとなったmethodologyは、立教大学日本拳法部と同じように、プロパー(その大学に入学してから日本拳法を始めた部員)だけで日本拳法部を運営する学校にとって、よき参考となるでしょう。
「易経」
紀元前8世紀にその原型がまとまったといわれる占いの原典。
亀の甲羅や獣骨を焼いてその文様から吉凶を占ったというのだが、それは「運を天に任せる」というように、最終的な判断を自然現象(火によるひび割れ)に拠ったというだけで、易の基本は膨大なデータにある。
紀元前8世紀以前、数千年・数万年という気の遠くなるような長いレンジで蓄積された、自然現象やあらゆる人間生活での出来事の内、占いとして当たったものばかり(予測と結果)が「口承」として蓄積され、そこから規則性や法則性を見出してまとめられたのが「紀元前8世紀頃」であったということ。西洋の星占いなどとは比べようもないくらい、膨大なデータに基づいた経験則という点で、様々な西洋の科学など子供だましに見えてくる。
西洋の学問とは、ぐちゃぐちゃに混じった血の薄い人間たちが、即効で知恵をつける手段であり、中国人のように、気の遠くなるような長い年月の間に蓄積された膨大な経験則がDNAとして刷り込まれているような民族や、何万年も孤島に隔離されて生きてきた日本人のような血の濃い人種には馴染まない。(日本にはあまりにも地震が多かったので、大陸や半島の人間は寄りつかなかった。 → ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」参照)
早い話が、西洋人は(ギリシャ)哲学やシェークスピアの作品(に描かれた人間性・教訓的文言)を金科玉条のようにして信奉していますが、膨大な中国の古典という経験則の前ではあまりにも幼稚で、経験に裏打ちされていない子供か青二才の妄想であり、しかも、そういう虚構を現実にしようとしてやたらと戦争を始めるから、なお恐ろしい。わずか過去2千年間、たった数万人程度の「優秀な」科学者だの文学者だの哲学者の妄想・虚構で現実を作ろうとするところに、すべての不幸の原因があるのです。
もちろん、世の中計算どおりにはいかないから、そこは「あたるも八卦、あたらぬも八卦」、最後は「サイコロを振る」わけで、それが骨を焼くという「自然現象にお伺いを立てる」という行為(占い)であり、現代では手間のかからない筮竹という道具によって代替されているわけです。
この何万年にもわたって蓄積されてきたデータこそがきわめて貴重であり、それ故に「易経」は古代では儒教の経典となり、宋代には形而上学の主柱となり、現代ではより簡潔に箴言・名言の書として多くの人に親しまれているわけです。
<追記>
高橋さんに関する情報は、上記①②③以外に、もう一つありました。
雨上がりの一日
2021年04月15日(木) 11時50分25秒
https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/entry-12668761329.html
→ 「第4話 状況証拠」参照
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