第8話 トルーダムとモア

「トルーダム」

 モアに背を向けたとき、シャンリー三世の口から弟の名が漏れた。

 ソフィア正教圏最強の騎士の名でもある。

 信頼し遠征軍の指揮権を与えた。

 年の離れた異母兄弟。

 シャンリー三世の息子の四世とは年が五つしか離れていない。

 シャンリー三世は、この男の誕生を喜びはしなかった。

 そして幼くして父を亡くしたトルーダムはシャンリー三世に同質のものを求めた。

 シャンリー三世はそれに答えるだけの技量を持っていたが、その崇拝の視線は多くの場合、わずらわしかった。

「優しくしてやれ、悪い男ではない」

 モアはシャンリー三世に言った。

 モアは根無し草だ。

 モンダル山の出身というだけで、エスカチオン国どころか自国であるサルディーラにも心からの忠誠を期待できなかった。

 彼の父親は罠猟師で、魔力があるから、三年ほど坊主の修行をした、賭けチェスに夢中になり道を踏み外した。

 字の読み書きができるから、市役所に勤務する。

 その美しさと若さに目を引きリリア・サルディーラの父親の王室秘書をやる。

 リリアにとって不幸だが父の死がなかったら、モアは歴史の表舞台に現われなかった。

 それとも運命はモアを放さなかっただろうか、何者かの手によって彼は歴史に見いだされ、現在の人々の心に中に、その名を刻んだろうか。

 ノーマ帝国はモアの才能に目をつけヘッド・ハンティングを始めた。シャンリーの頭には『この化物をノーマに渡すぐらいなら殺してしまえ』そんな考えがよぎる。

 実の弟に優しい言葉一つかけられない男が、モアを「息子よ」と呼んだ。

「体中を虫が這いずり回る気分だ。いつもどおり呼んでもらわねば歯茎の病気に成る」

 モアが大笑いしながら口にした。

 娘のアルテシアなど「お父さん。捨てないで」と言って泣き叫んだ。

「お父さんがいなくなったらカロに復讐される。お父さん行かないで」

 モアは娘を抱き上げながら口にした。

「誰に知恵つけられたのか知らんが、私はどこにもいきませんよ。

 僕の可愛い娘の小さな胸を、張り裂けんばかりに狂わせた人にこう伝えなさい。

 サルディーラを裏切れば、僕を誰も信用しない。

 ノーマ帝国に行ったところで、暗殺されるのが関の山だ。

 余り自分の欲望だけで人の心を覗き込むのは良くない。

 お父さんは遥かに冷静だと伝えときなさい」

 娘の顔は輝いた。

「それに」モアは片目をつむる。

「それにお嬢さん。僕は君の魅力にとりこですよ」

「やっぱりね」娘はモアのほっぺにチューした。

 シャンリー三世や、リリア・サルディーラの心配はよそに『トルーダムに優しくしてやれ』それだけを口にした。

 ノーマ帝国の勤きとは別に、シャンリー三世は長期にわたって、獲得したばかりのエリンバラ地方の防衛と統治をモアとトルーダムに任せた。

 だが今回の遠征の最後を飾る戦いにトルーダムを外した。これはトルーダムの側に多くの責任があった。

 トルーダムは先の遠征でマジックアイテムにガチガチに固めた吸血民族レアが誇る最強奴隷戦士の首をはねるのに成功した。

 正々堂々とした戦いであり、誰に恥じる事のない、素晴らしい事であり。

 多くのソフィアの騎士に勇気を与えた。

 トルーダムの個人的な武勇はともかく、全体の戦いは勝負なしに終わった。

 世界の熱狂に運合軍は答えられなかった。

 各国の民衆の理解を得るために必要以上に恐怖心をあおった。

 今風に言えば扇動政治デマゴギーの一言ですむ。

 当時はそれに当たる言葉がなくてモアも表現に苦労していた。

 ただモア以前の哲学に「大衆は女だ」という言葉もあるが理解できていない。

 モア個人は大衆の熱狂に同情的であった。

『ソフィァの教えに欠陥があるとは言わないが、教義ドグマや戒律が八百年を得て複数の人間にいじられている。

 解釈もまちまちで異端と呼ばれる分派までできた。

 普通の人間が生きるために必要なことまで『罪』とされた。

 それならばいっそ助からなければいいのに、巧妙に天国への道が用意されている。

 まして金持ちは贖罪金しょくざいきんを払えるが、貧乏人は払えない。

 鞭打ちによって清められる人もいるらしいが、世の中そんなに暇なのは坊主ぐらいだ。

 怯えて暮らしている善良な人々の中に痛いのが嫌だという人も沢山いる。

 そこで十字軍がささやかれる。

『神が望んでおられる。我らの神はそれを望んでおられる』

 どの顔も晴れやかな顔をしている。

 これは教育によって生み出された必然であり、この一時の熱狂だけをケーキを切るかのごとく取り出したところでナンセンスだろう。

 敵も不幸だが。

 こちらもヤられる訳にはいかない』

 当時のモアの認識であった。

 私から言わせれば、『それでも、騙されたほうが悪い』ですむのだが。

 やはりモアは貴族であり。『無垢なる民』という概念がある。

 基本的に今と教育も違った。

 そして、勝利を得られなかった軍隊に民衆は失望した。

 やがて、遠くない未来。

 人類は吸血民族の奴隷となる日がくる。

 だれの心にもそのように錯覚された。

 そして英雄が誕生した。

 相手の軍事力や思想的背景を知るのはほんの一握りだった。

 普通の人々は悪魔の親戚が襲って来る程度の認識であり。

 少し教養のある人間でも、宗教が違い、人間であり、女を奪って妊娠させることができる。

 戦争に負ければ略奪されほうだい。

 この程度の思考しか出来なかった。

 何ができるのか、どういう攻撃ができるのか、どういう防御をしてくるのか。

 相手の思想を含めたことを、合理的に考えて判断できるのは世界中の全ての文化人をかき集めた所で百人にもならなかった。

「彼こそがソフィアの騎土だ。彼がいる限り世界は決してレアの手に落ちることはない」

 そう思わせるだけの説得力を持った英雄の急造が必要だった。

 そしてトルーダムは祭りの供物に選ばれた。

 時の教皇ハイエロフォントはトルーダムに多くの送り物を贈った。

 彼こそがソフィアの騎士である。賛辞を惜しまなかった。

 モアはトルーダムの側に行き、忠告した。

「あなたは、それを受け取ってはいけない。

 一度、エスカチオン王の元に戻り、全ての勲章を預けなさい。

『全ては王のご威光の賜物です』

 頭を下げ、他人行儀に話しなさい。

 その後を全ての品物があなたの手に帰します、私が必ず致します。

 私の顔を立てると思って、言う通りにして下さい」

 モアは頼み込んだ。

 トルーダムはエスカチオン王族だった。

 鷹の目、金髪、青い瞳。そして、気高い誇り。

 モアのような人種を描く時、倫理と名誉が後回しになる。

 国家運営より国家経営と呼ぶほうがふさわしい。

 勲章と言うものは『あなた個人にとって、あなたの命が大切です。

 そのお金では買えない命を投げ出して、国家に貢献していただきました。

 故に私達国家は、決してお金では買えない栄誉礼をもって、あなたを称えます』

 一種の礼節である。

 命を懸けて、先祖代々の文化の上にある秩序を守る行為を『倫理』と呼ぼう。

 集団運営のルールだけでは足りないものがある。

 トルーダムには「死して護国の鬼となる」

 彼には高い責任感があり、名誉の対して高い価値を置いた。

 国家にはこのような人間も必要である、モアのように損得勤定ばかりだったら、物事が上から下にスムーズに流れない。

 どちらかに傾き過ぎても破滅だけだ。

 だが、トルーダムは口にした。

「人様から貰ったものだ、大金を積まれても渡せない。

 まして、小人の嫉妬を回避するだけの茶番に付き合わねばならない義理はない」

 トルーダムは軍師になれるほど頭は良くなかった。

『名誉』の美しさや崇高さが理解できない程、頭が悪いわけでもなかった。

『妥協できるのは、自分が可愛いからである。自分の中で何か大切なものを捨てる行為を言うのである』モアの『妥協論』にかかれている言葉だが。

 彼は妥協=エゴイストの理屈をトルーダムから学んだのかもしれない。

 美しい理想を抱くがゆえに、他人と取引できないことを。

 そしてモアはトルーダムには悪いが洞察した、彼には王族としての『甘え』がある。

 彼がただ強いだけの素朴な騎士なら、モアの進言にびっくりして政争に巻き込まれたら適わんと思い、自らモアの進言に従ったはずだ。

 モアには彼の心の中のメカニズムを感じた。

 トルーダムは善人だから、他人の善意を容易に信じる。

 最強戦士は王族に生まれたため不幸になる。

 モアは知っていた。

 シャンリー三世が警戒していることを。

「トルーダムは私に向ける忠誠と、同じ量の忠誠を四世に向けるだろうか」

 トルーダムの勇姿を眺め、熱狂し歓声をあげる部下を跳め、最後にモアを見て、そして聞いた。

 未だ戦争に出たこと無いシャンリー四世、宗教的戦士であるトルーダム。

 国民の人気は桁違いであった。

 四世は気にしているだろう。

「無理でしょう」

 モアはトルーダムの性格を考えて冷静に評価した。

 あの二人が緩やかな人間関係を築くときは、四世がトルーダムに対して多くの事を譲るときに成り立つ。

 互いに自然体で馬が合うということは、絶対に有り得ない。

 トルーダムには高い武力がある。

 四世も無能ではない。

 誇り高い四世がトルーダムの武力を期待せねばならない状況以外。

 将来、あの二人が衝突するのが自然だろう。

 モアには家庭があり、領地がある。

 その上、エスカチオン国の外交、戦争、政治までこなさなければならない。

 浮気もしなきゃならん。

 本も書かねばならん。

 ギャンブルも好きだし、強い。

 基本的に忙しいのだ、四世の個人教授などしたくはないのだ。

 彼のほうがモアを探しだし、質問責めにするのだ。

 しかも、ほとんどが戦争の話。

 こっちはしばらく赤いものすら見たくない。

 戦争なんか忘れて女の人と話がしたい。

 雅な音楽の調べ、恐ろしき妻の目を盗み。

 今夜駄目でも、明日、明後日、明々後日、そのまた先の夜の約束でもできないものか。

 いろいろ複雑な事を考えている時だ。

 四世はモアの手を握り締め、ぐいぐいと誰もいないカーテンの裏や控え室へ引っ張り込むと、瞳をキラキラさせながら戦争の話を聞いてくる。

「なぜ、敵はこの様に動いたのか」

「仕掛けられた謀略、その是非」

「外交において、なぜこの条件まで引き出せたのか、なぜここで妥協したのか」

「統治時に、かつての敵勢力を据えることがある。その場合予想しうる、権力の二重構造について」

 正直にいえば、酒呑んで気分のいいときにする話ではない。

「オヤジにでも聞け」と突き放したいところだが、未来の殿様である。

 子子孫孫まで考えるならば、『めんどくさい』だけで、邪険にはできない。

 掴まりさえすれば(それ以前は床を這いながら隠れ移動するが)、親切丁寧に、生徒が納得いくまで付き合った。

 四世はモアがドキッとする質問をすれば「こんな事も分からないのか」と安心させるときもあった。

 モアが一言残している「優秀な生徒ではないが、創造力と想像力がずば抜けている。良い外交をするだろう」

 どうも王と王子様の関係はモアが考えている親子関係より疎遠である。

 ただ各国共通の問題ではなくこの親子の個性である。

 三世は家庭では戦争の話を一切せずに四世は勝利の報告を世話役やメイドから受けた。

 遊びにふけるほど愚かになれず軍隊から疎外感を受けた。

 彼の回りにいる坊主や大学教授や職業軍人で構成される優秀な家庭教師群は、四世の直感以上の能力。

 情報を分析する能力に対して上手に答えることができなかった。

 彼等は神の教えを守る善人であり、モアが著書『妥協論』で提唱した。

『安易に民族代表の政府を滅ぼせば、数多くの難民をうみ、生きるために小さな犯罪組織を多数作り、各地で展開するだろう。

 どこかに精神的拠り所を作っておかないと、こちらの手の届かない、農村とか、貧民居住区とかで犯罪が絶えない。

 犯罪は法律によって罰する。

 しかし、捕まえることが前提条件としてある。

 相手に敗北を認めさせて。

 ある程度の征服を終えたならば。

「法律によるリスクがあっても、犯罪者になって構わない」と人間を開き直らせないだけの。

「豊かさと自由」を与えなければならない」(この場合、自由とはある程度、選択する権利。もちろん、義務が伴う)

 モアの精神の有り様はソフィアの教えといかに乖離していたか、超越した視点の持ち主であったか。

 そして四世の取り巻きたちは「王者の徳」などを口にする。

 戦場から帰った勇者達に聞いても自慢話ばかりで「俺は知らない」と答える男は親切な方である。

 独善的に批判し子供扱いをした。

 四世の頭脳の中では、『戦場は遂行される戦争の一部にすぎない』かなり若い内から成熟した考えを持っていた。

 モア以外の人間では話が物足りないのだ。

『戦争は血を流す政治であり、政治は血を流さない戦争にすぎない』史実、四世が残した名言の一つである。

 後世の人間が『ソフィアが産んだ。望まなかった子供の一人』とまでののしり、騎馬民族ミリディアから『ソフィアの毒蛇』とまで恐れられた。

 彼には感じることができた。

 人間の弱さ、あるいは人の欲望が何を求めているか。

 だから退屈だった。

 彼は一人の天才劇作家の作った人間像によって、今まで多くの人々の心の中で、残酷な理解の中にある。

『その日は、ソフィアが静かに涙を流し、小さな雨音と共に、決して晴れることのない霧に覆われた』シャンリー四世の誕生はこうやって罵られた。

 彼もモア同様ソフィアの教義ドグマに従わず、冷静な判断を下した。

『白い手の王者などいない』と墓石に刻まれている。

 モア自身はすでに結論を出していた。

 君主としての器は四世の方がトルーダムを凌駕している。

 トルーダムが保身に走らなければ「太陽が二つあると眠れない」との理屈を元にして…。

 四世は三世の死後、これまでの全ての国家的貢献や宗教的功績を無視して、トルーダムに連なる全ての人間を滅ぼすだろう。

 非情だがヤルだろう。

 その時が来たなら、モアは息子ジオン・サルディーラに「四世の味方をしろ」と答えていた。

 エスカチオンに暮らす全ての階級にとってこの世にシャンリー四世を残し、トルーダムを除いたほうが多くの階級でたくさん幸福になれる。

 例え最悪・戦争することになったとしても。

 四世のほうが被害は少ない。

 そして、戦争のほうが、誰が王になるかを問わずに巻き込むだろう。

 後知恵ではあるが、歴史は新興国・騎馬民族ミリディアを送り出した。

 彼等と戦うならばトルーダムではなくて四世だった。

 すべてのソフィア正教圏が、必ず巻き込まれる運命にあった。

「お父さんが生きていたら、どっちに昧方するの?」

 幼い息子のジオンに分からなかった。

 四世が城でヌクヌクと守られている間。

 吸血民族レアと直接戦っていたのはトルーダムと父のモアだった。

 気位の高い英雄さえモアの前では素直に頭を下げる。

「この人はお父さんの優れた能力に甘えているだけでなく、精神的にも頼りにしている」

 ジオンが感じた。

 優しい所のあるモアに戦友を捨てることができるのだろうか。

 友情と呼ぶには同格の人間ではなく、トルーダムはモアに甘えていた。

 そして、モアは全てを見抜いていた。

 父親が息子を叱るように怒鳴りつけることもあった。

 ジオンが二人の関係を回想すると、モアが常に大人であった。

 モア  「トルーダムは何かを求めている、だが、彼には決して手にいれることができない、

 誰にも何を求めているのか理解できない」

 ジオン 「『愛』ではないのですか?」

 モア  「違うな、もっと宗教的な理想社会だ、『天国』のような物だ」

 ジオン 「それは、『愛』ではないのですね。僕は男女の事だけを口にしているわけではありません、親子とか、隣人愛とか色々含んで…」

 モア  「お前が『愛する』と言うならば勝手だが、『愛』のような物体は地球上のどこにも転がっていない、『全ての愛』が想像と創造を常に続げる状態の空想的化学物だ。お前の心の中では与えられる物だと勘違いしている。いや、たくさんあるのならば与えてもいいのだろうけど、だが、相手に恩着せがましく確認するな」

 ジオン 「?」

 モア  「ボランティア精神だ、愛を与えたならば、忘れてあげることだ」

 ジオン 「…忘れられた女が気の毒(脱力)」

 モアは幼いジオンに答えた。

「四世は優秀な人間だ。

 膨脹国家継承。

 歴代の王が誰もやらなかった難事業に乗り込む。

 私の忠誠心だけにかけたりはしない。

 もっと自らの力や国際社会の力学を計算する。

 四世の精神のあり様からいって屈辱的だろうが、トルーダムに膝を折ってでも。

 王室の分裂を避けるだろう。

 彼は部下の必要性は知っているが甘えて全てを託したりしない。

 まだ、征服国は死んでいない。

 わがサルディーラの軍隊は巨大化している。

 そして、それぞれの地域の民衆には、かつての主人を懐かしむ気持ちが残っている。

 私が存命中にそんな馬鹿なことをするなら、エスカチオンをお前にやるよ。

 巷の噂ではサルディーラ軍は世界最強だからな。

 ただ、彼自身は、『待つこと』を知っているぐらい、優秀な男だ」

 モアは冷静であり、公正である。

 強者の驕りも、弱者の甘えも許容しない。

 だから、彼の裁きは非情に見える。

 モアが目指した物が、我々との間にズレがある。

『福祉大国』や『ユートピア』ではなく、『正直に働く者が、馬鹿をみない国』であり、あらゆる理想を排除した。

 モアの言葉には弱肉強食の残酷さがある。

 けれども、答えが解らずに近付いてくる者を「自分で考えろ」と突き放したりしない。

 それが良い事か、悪い事か、私には永遠に解らない。

 人それぞれが、ださねばならない答えがこの世にある。

 あなたがだす答えは、エゴイストであって欲しくはない。

 他人の言葉の受け売りではなく、多方面から多角的に物を見て、多くの意見に耳を傾け、公共の福祉パブリック・マインドにそった答えであってほしい。

 他でもない、あなたの人生のために。

 これは、祈りであり、願いだ。洗脳でもなく、教育でもない。

 だから、モアは必ず答えた。

「私は、こう思う……」。

「私は、こう生きてきた……」。

 答えをだしてきたがゆえに、批判されてきたが、かれが戦争遂行者であり、味方の将兵の命を第一と考えたがゆえに、君主間の道義に無頓着だった。

 けっしてサディストではない。(むしろマゾだろう)

 モア程の洞察力があれば。多くの人が、宗教世界の観念の中を泳いでいることを知っていたはずだ(古来ある哲学の中にも、人はいかに生きるべきか、納得のいく美しい人生になるのか。絶えず研究され、自殺さえ肯定された時代もあった。

 モア以前、人は政治的動物、あるいは経済的動物ではなかった)

 モアは、軍隊を組織する上で、部下の反応速度に差があるのは仕方がないにしても、伝達速度で差が出るのは最善でないと考えていた。

 政治判断や社会生活にも応用しようと考え、自然科学的な思考手順を書物にした。

 モア自身が政治に感情を持ち込まなかった。

 だから反対意見を恐れなかった。

 彼ならば全員一致の方がおかしいと思うだろう。

 この時代のモアの書物と出会った知識階級は、彼が放った言葉を生きるための背骨にするか、ぶつかるべき壁とするかは個人で決めなくてはならない。

 人間の核となる部分にモアの声が響く。

 精神障害トラウマの如く、首輪をつけて連れ回らなくてはならない。

 人間は運命を生きている。

 結果としての運命は個人で判断した物だ。

 例え誰かの話を聞いたにせよ、断れば命がないという状況でも、非情だが死より生を選んだ自分の姿がある。

 そして判断は、密かに…。

 全てを秘め事にして。

 ソフィアの目の届かぬ場所にて。

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