第24話 罰が誘う死

光来は体勢を崩し、背中から落ちた。一度テーブルの上でバウンドし、床に叩き付けられた。テーブルが多少のクッションの役割を果たしたが、それでもかなりの痛みが走った。


「ぐえっ!」


 衝撃でルシフェルを放してしまった。ゴッと鈍い音を立てて落ちた後、カラカラと回転しながら滑り、光来から離れてしまった。


「うう……」

「タバサはな……」


 重量感のある呟きに、光来ははっと身を起こした。

 瓦礫により生じた土煙が、徐々に薄まり視野が回復していく。うっすらとした影がぼやけた輪郭を次第にはっきりさせながら、近づいてきた。

 キリガが憤怒をまとい目の前に立っていた。キリガの背景が歪んで見えると錯覚するほどの激しい怒りを感じた。


「新しい世界を拓くことで、この荒んだ世界を救おうとしてるんだ。自分の視野だけの狭い世界で生きてるおまえなんかが、邪魔してんじゃねえっ!」


 キリガは、渾身の蹴りを光来の顔面に放った。


「がぶっ!」


 格闘家のように訓練された蹴りではないので、力は分散され急所も外れた。しかし、受け身など取れない光来には充分効いたし、なにより恐怖をあおる効果は絶大だった。

 惨めに這いつくばった。輪郭がはっきりしたキリガが、今度は涙で滲む。滲んだキリガは、燃え盛る炎が立ち昇っているように揺らめいた。これはもう、怒りではなく憎悪だ。


「おまえのような奴に……」


 キリガには、反撃もせずにうずくまる光来の姿が情けなく映った。その弱々しい仕草が苛立ちを刺激した。

 しかし、光来の中では沸々と湧き上がってくるものがあった。それは怖れに隷属すまいと踏ん張る矜持であり、リムやシオン、ズィービッシュを思う慈しみであり、『黄昏に沈んだ街』を阻止しなければならないという使命感だった。

 歯を食いしばり、へたり込む四肢にむりやり意志を注ぎ込んだ。


「ちっぽけな世界だと……」

「あ?」

「たった一つの世界しか見たことがない奴が、上からものを言うなっ!」


 光来は床を蹴り、転がっているルシフェルに飛びついた。


「遅いっ」


 キリガの銃が、光来のこめかみを捉えた。だが、引鉄を引く前に、キリガの眼前を弾丸が横切った。


「なにっ?」


 壁にめり込んだ弾丸から、イージアンブルーの魔法陣が拡がった。

 電撃の魔法ブリッツが発動し、蒼白い光が魔法陣の中心から拡散する。その一筋が、キリガの銃に触手を伸ばした。


「うおっ!」


 電撃から逃れようと、キリガは銃を離して飛びのいた。その一瞬の隙があれば充分だった。

 光来は握ったルシフェルを、キリガに向けた。


「くっ」


 形勢が逆転した。ルシフェルの銃口に睨まれ、キリガはその場に貼り付けられた。


「いいタイミングだったな」


 ズィービッシュが、リムから与った銃を片手に、部屋に入ってきた。


「ズィービッシュッ!」

「銃なんて初めて撃ったが、彫刻刀を入れるより簡単だな」

「今までどこにいたんだっ?」

「大変だったぜ。ゴロツキたちを上手く誘導するのはよ。だが話は後だ。キーラ、早くこの野郎を仕留めろ」

「ああ」


 光来は、指先に力を込めた


「待てっ! おまえ、タバサに興味があるんだろ? タバサがなんでおまえに執着してるか教えてやる」

「キーラッ、耳を貸すな」


 キリガの諭すような話し掛けに、ズィービッシュは警戒を抱いた。しかし、『黄昏に沈んだ街』は、元の世界に戻れる方法になり得る。その可能性を知っていた光来には迷いが生じた。


「どうしたっ。早く撃てっ!」

「タバサは、おまえがいなければ『黄昏に沈んだ街』は完成しないと言っていた。俺は信じちゃいないが、タバサは、おまえこそが異世界への扉を開く鍵だと思っているのさ」

「俺が鍵? どういうことだ?」

「俺が知るかよ。方法なんざどうだっていい。俺はこの腐りきった世の中を変えられりゃ、それでいいんだ」


 キリガの言葉は、コールタールの上に落ちた小石のように、ゆっくりと光来の心に沈み込んでいった。

 俺が鍵? 俺がいなければ完成しない? つまり、俺が協力しなければ『黄昏に沈んだ街』は発動しない。でも、それだと俺が元の世界に帰る手段が……。いや、違う。今の話はなにかが食い違っている。なにかが矛盾してないか?

 光来の中に芽生えた迷いを、キリガは見逃さなかった。

 ルシフェルの銃口が僅かにズレた隙を突いて、ベルトのナイフを抜きながら、そのまま光来めがけて投てきした。


「キーラッ!」


 ズィービッシュが踊り出し、光来を突き飛ばした。


「うっ⁉」

「えっ?」


 キリガが投げつけたナイフは、ズィービッシュの胸に突き刺さり、刃が魔法陣へと姿を変えた。漆黒の魔法陣がズィービッシュの胸を覆う。


「うおお……」


 魔法陣が砕け散ると共に、ズィービッシュは糸が切れたように崩れ落ちた。


「ズィービッシュッ! うああっ!」


 光来は、フリーレンの魔法を床に撃ち込んだ。一瞬で張られた氷に脚を覆われ、キリガは体の自由を奪われた。


「ズィービッシュッ」


 光来は、倒れたズィービッシュの容態を確かめようと、四つん這いになって覗き込んだ。魔法の刃が刺さった箇所に異常は見られないが、ズィービッシュの顔はどんどん青ざめていく。まるで、なにかに生命力を吸い取られているようだ。


「これは……、罰だ……」

「喋るなっ!」


 なんだ? なんの魔法が発現したんだ? 出血はしていないが、刃を象った魔法なら斬撃の魔法シュナイデンか?

 背後から、キリガの声が絡みついた。


「とぼけんなよ。おまえも見ただろ? 真っ黒い魔法陣をよ」


 光来はキリガを眼で刺した。


「持ってるのは、おまえだけだと思っていたのか?」


 死を司どる禁忌の魔法『トートゥ』


 震える手を必死に伸ばし、ズィービッシュは光来の襟首を掴んで引き寄せた。


「……キーラ、ナタニアに……」


 そこでズィービッシュの言葉は途切れた。掴んでいた手からは、力とそれ以外のなにかが抜けて、ごとりと床に投げ出された。


「うああああっ!」


 光来はズィービッシュに銃口を向けた。

 リムを助けた時と同じように、治癒の魔法を精製するつもりだった。銃口から漆黒の魔法陣が拡がるのを見ながら、鼓動が激しく脈打っているのを止められなかった。

 来いっ。彼の者よっ。もう一度俺に力を貸してくれ!

 強くイメージするんだ。もっとだ。焦るな。あの時はもっと集中できただろっ! なにがなんでもズィービッシュを助けるんだ。なにがなんでもだっ!


「絶対に助けるっ!」


 魔法陣が黒から灰色に濁り、ついには純白の輝きへと変化した。模様も書き換えられていく。

 来たっ!

 光来の身体がぶるっと震えた。

 魔法陣が変化する様を見て、光来はさらにイメージを強調した。ズィービッシュが何事もなく立ち上がり「なんだ今のは? いきなりなんでビビったぜ」とニヤリと笑う映像だ。

 真っ白い魔法陣は、光来を覆うほどの大きさまで拡大した。

 一部始終を見ているキリガには、信じられない光景だった。魔法陣が途中から変化するなどあり得ない現象だ。


「こいつ、魔法を書き換えているのか? まさか?」


 限界まで拡がった魔法陣に、光来は手ごたえを感じた。リムを救った時と同じ感覚だった。


「頼むっ!」


 光来は、ズィービッシュに向けて名も冠さぬ魔法を解き放った。白く輝く魔法陣がズィービッシュを照らし、砕け散って浸透する。

 その様子を、光来とキリガは無言で見つめた。


「これで治るはずだ……」


 光来は、ズィービッシュが目覚めるのを待った。一秒、二秒……。三秒経過しても、ズィービッシュは目覚めなかった。緊張を孕んだ沈黙が針となり、光来のうなじを細かく刺した。


「ズィービッシュ。早く起きろ。放った魔法は完璧だった。俺のイメージと彼の者がガッチリ噛み合ったのが実感できたんだ。魔法は絶対に成功したんだ」


 ズィービッシュはピクリとも動かず、光来の言葉は素通りした。光来はたまりかねて、ズィービッシュの襟を掴んで乱暴に揺さぶった。


「ズィービッシュッ! なんでっ! 早く目を覚ませっ! 起き上がってくれっ!」

「はっ!」


 パニック寸前の光来の耳に、キリガの吐き捨てる声が投げ込まれた。


「バカかっ? 死んだもんを生き返らせる魔法なんかあるわけねえだろっ。古代魔法だって不可能だっ」

「っ!」


 息を呑んだ光来は、苦渋の唸り声を上げた。そして、再びルシフェルをズィービッシュに向けた。


「無駄だって言ってんだろっ」

「うーっ! うわあーっ!」


 ルシフェルの銃口から、一気に白い魔法陣が発生した。先程のものより大きい。


「戻ってこいっ! ズィービッシュッ!」


 光来は、バレルも灼けよとばかりに、弾丸にありったけの気迫を込めた。

弾倉に収まっている弾丸すべてを吐き出した後も引鉄を引き続け、撃鉄が三度ガチンと虚しく泣いた。

 漂う硝煙と火薬の匂い。呆然と立ち尽くす光来の視界が、次第にぼやけてきた。


「嘘だ。こんな……。ズィービッシュが死んだ?」


 突然降り掛かってきた悲劇を、光来の頭は受け入れるのを拒否した。危険な目にはあっても、最後は全員で帰れると信じて疑っていなかった。

 とどめと言わんばかりに、キリガの冷たい言葉が突き刺さる。


「その男はおまえを庇って死んだ。おまえさえさっさと協力していれば、そいつは死なずに済んだんだよ。今の事態は、おまえが招いた結果だっ!」

「う……、うう……」


 息を切らす光来。その胸中には、様々な光景が浮かんでいた。

 森の中で、初めて会った時のこと。自分を疑って銃を突き付けた時の冷たい視線。詐欺師のように人々を振り回して騒動を起こした手腕。そして、兄を心配して泣きそうなナタニアの表情……。


「ズィービッシュ……。気に入らないところもあったし年齢も離れていたけど、あんたはこの世界でできた俺の友達だった」


 光来は上を見上げた。床も壁も崩壊し、部屋の中にいながらにして空がはっきりと見えた。雲がゆっくりと流れ、二羽の鳥が戯れながら飛び去って彼方に消えた。

 光来は、ガンベルトから弾丸を抜き取り、弾倉に込めた。


「無駄だって言ってんだろ。生き返らすことなんかできるわけねえっ」


 打ちひしがれる光来に辛辣な言葉を続けるキリガは、ルシフェルからドス黒い靄が立ち昇っているのに気づいた。

 ……こいつ、やはり魔法を書き換えて……、いや、それよりも……?


「……生き返らせることができなくても……」


 不気味な黒い靄が、そのまま言葉になったと思わせるほど、暗く重たい声が光来の口から発せられた。好戦的なキリガが、全身の毛が逆立つほどゾクリとする声だった。


「殺すことはできる」


 混じり気のない殺意を向けられ、キリガは心底怯えた。今更ながら、身動きできない状況が、この上なくやばいことに気がついた。

 心の最下層まで、ストンと怖れを落としてしまったことを自覚し、キリガは己の身体を制御することができなくなった。氷で固定された部位を除いて、全身が壊れた歯車のようにガタガタ震えた。歯を食いしばって己を保とうと踏ん張ったが、どうしても止められない。


「やめろっ! おまえ、なにをしてるか分かってるのか? 俺たちの行為は世界を救う正義なんだっ。この世には飢えや貧困に喘いでいる奴らがどれだけいると思っている? おまえはそいつらを救う手段を潰そうってのか?」


 こいつは、いったいなにを言っているんだ? 人の命を奪っておきながら、世界を救うだと? その行いが正義だと?

 後悔の念を少しも漏らさず、謝罪の一つも口にしない。

 結局、こいつらが掲げる理想とは、自分に都合のいい世界だ。「みんなのため」とか「争いのない」とか言っていながら、自分のことしか考えていない。

 人の命を奪って実現する世界に、未来などあってたまるかっ!


「誰もがなんの不安も持たない世界を作れるんだっ! その素晴らしさがなぜ分からないっ」

「なんの不安もない世界だと……? だったら俺が連れてってやる。なんにもない世界、あの世にっ!」


 光来は、ゆっくりとした動作で、黒い靄が漏れ出ているルシフェルをキリガに向けた。


「おいっ!」


 慄きで引きつったキリガの顔が、さらに歪む。

 そして、光来は、やはり緩慢な動きでキリガに顔を向け黒い瞳で刺した。ルシフェルからは、漆黒の魔法陣が炎のように揺らめきながら拡がっていく。


「俺の友達を殺しやがって……。おまえも死ねっ!」

「やめろおぉぉぉっ!」


 キリガの懇願の絶叫をかき消し、ルシフェルが吠えた。残響と共に、キリガは弾けてのけぞり、その反動で前屈みに崩れ落ちた。

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