第20話 森の中の戦慄
僧帽筋と指先が、何度かピクッと動いた。しかし、その度に他の部位が先走る筋肉を制止する。
外すことは絶対に許されない。あの巨大な腕でなぎ倒されたら、ケガどころか胴体が真っ二つに切断されかねない。
「動物が相手じゃ、取引を持ち掛けるなんてできないわよね」
「お喋りしてる余裕はない。集中して」
「わざと余裕かまして、肩の力を抜いてるのよ」
リムの軽口は、冗談だけではなかった。実際に、ほんの少しだけ構えを弛めて熊を誘った。一定の距離まで近づくまで引きつけるつもりだった。
熊は溜めの姿勢を取ったと思ったら、後ろ脚で大地を蹴り一気に距離を縮めた。周囲の空気を纏い、木々の枝葉まで引っ張られそうな勢いだ。重たそうな巨体からは想像がつかない、信じられないスピードだった。
「しゅっ!」
気後れはしたものの、リムの射撃は正確だった。森の中に、再び銃声が響き渡る。
熊の眉間にめり込んだ弾丸からイージアンブルーの魔法陣が発生し、砕け散った。
「ゴオオオオオオッ!」
ブリッツを喰らった熊は、森全体を震わせるような咆哮を放った。四肢から力が抜け、勢いはそのままに、頭からリムに突っ込んできた。まるで巨大な土砂崩れの真ん前に立たされたような、圧倒的なエネルギーの塊だ。
「うあっ⁉」
リムは素早く横っ飛びして、紙一重でかわした。熊はリムとかすめそうになりながら、すり抜けていった。瞬間的な出来事だったが、リムは熊から獣の匂いをまともに浴びせられた。これまで何十、何百という森の動物たちを屠った凶暴で強烈な匂いだ。
その森の覇者が倒れかけている。
「効いたっ⁉」
リムがそう思ったのは、ほんの一瞬だった。熊はつんのめりそうなるのを堪えた。人間なら大男でも一撃で倒せる電撃を喰らいながら、転びもしない。野生の持つ理不尽なまでの強靭さに、思わず身震いする。
熊は反転し、体勢を立て直した。自分よりもかなり小柄な生き物から反撃を喰らったので、面食らっている様子だ。だが、逃走する気配はない。まだ自分の方が優位だと信じている。なにより、火のついた闘争本能が簡単に鎮静しなかった。
威嚇のために牙を剥き出しにして、食いしばった口からはよだれが滴り落ちている。荒く吐き出される息は蒸気のように熱い。
仕留めるには至らなかった攻撃は、熊の凶暴性を引き出してしまった。殺戮マシーンと化した熊は、魔法を喰らう前より獰猛な目でリムに迫り、瞬く間に距離を縮めた。
「ちぃっ!」
リムは再び狙ったが、彼女が撃つより先にシオンの放った弾丸が熊の側頭部、こめかみを捉えた。拡がったのは、やはりイージアンブルーの魔法陣で、強烈な電撃が熊の全身を駆け巡った。
「ガアアアアアアッ!」
のけ反った熊は、後ろ脚だけで立ち上がった。前脚を頭上に掲げ、今にも襲い掛かる姿勢を取る。枝葉が掠れ、乾いた音を立てて怯えている。迫ってくる姿は巨大な壁だったが、立ち上がった姿は天を突き刺す塔に見えた。
「いい加減、しつこいよ」
リムは二発目の弾丸をデュシスから解き放った。合計三発の電撃を喰らった熊は、さすがに耐え切れなかった。神の雷により崩れ落ちたバベルの塔さながら、その巨体は地に伏した。
その風圧で舞い上がった落ち葉が、まるで紙吹雪のように二人に降り注いだ。
「野生の力は底が知れない。二発は撃ち込まなきゃダメ」
「油断した……。ありがとう」
リムは倒れた熊を見下ろし、完全に気を失っていることを確認した。
危ないところだった。これからグニーエを討つつもりなのに、動物に襲われて再起不能になったのではシャレにもならない。
脅威が引いたと同時に焦燥が押し寄せてきた。今の銃声は絶対にまずい。シデアスの耳に届いただろうし、もしかすると、こちらのおおよその位置まで知られてしまった可能性もある。
早くこの場から離れなければならない。
「いつまでもこの場に留まるのはまずい。行こう」
「ええ」
二人とも銃を収めて歩き出したが、熊に襲撃された場所から二十メートルも離れていないところで足を止め、互いに視線だけの合図を送った。そして振り向きざまに一撃放った。二つの銃声が重なり、木霊となって森に響いた。二発分のブリッツを受けた大木は、鈍い音を立てて砕け、葉は瞬時に燃え上がった。
リムもシオンも、熊に襲われたことで神経が鋭敏になっていた。まさかと思いながらも、冴えた勘が危険な匂いを感じ取った。
「……鼠が噛みついたか」
砕けて人の背より低くなった木の後ろに、シデアスが立っていた。
「君たちを使うのは骨が折れそうですね」
ぞわっと全身に鳥肌が立った。
追いつかれてた? いつの間に? 熊との戦いで追いつく時間を与えてしまったのか。しかし、熊と対峙した時間は一分もなかった。熊と戦っている時から、既に近くまで迫っていたのか。
近くに立っているシデアスの顔つきは柔和だった。しかし、直感的に危険だと感じ取ったリムの印象は変わらなかった。だからと言って、こちらが臆していることを悟られるつもりなどない。
「誰を使うって?」
「君たちには、キーラをおびき寄せる餌になってもらいます」
「残念ね。キーラはそんな手に乗らないわよ。ワタシたちの目的はグニーエを倒すこと。そのためなら、いざという時には互いを見捨てるよう決めてある」
リムが口にしたことは、とっさのでたらめだ。そんな取り決めなんかしていない。
「ワタシたちなんかより、グニーエという餌を差し出せば? キーラはすぐに喰い付くわ。これ以上はない最上の餌だもの」
「グニーエさんが餌……。ずいぶんと高級な餌ですね。しかし、餌で釣果が決まるわけではありません」
シデアスは呟くと、リムの挑発を流していきなり反撃してきた。
いち早く気配を察した二人は、身を低くしてかわした。背後の木が二本、ほぼ同時に崩れ落ちた。破壊の魔法ツェアシュテールングだ。
早い。そして正確な射撃だ。リムは体勢を立て直し、木を盾にして身を隠した。
こいつ、やはり強い。
たった一度の攻撃で、リムは自分の直感が正しかったことを確信した。格闘家が相手の微かな立ち振る舞いで実力が判断できるように、シデアスの無駄のない動きは、リムの危険を感知するセンサーに触れた。
弾倉を開き、込められている弾丸を確認した。木々が密集する森の中だ。炎の魔法ブレンネンは使えない。シュナイデンか、それともフリーレンを使うか……。
シオンと目配せの合図を交わして、二人同時に木の影から飛び出した。
シデアスは地面に向けて一撃を放った。素早い一撃だった。スカイブルーの魔法陣が拡がり砕けて、突風が二人を吹き飛ばした。風の魔法ヴィントだ。
「うあっ!」
射撃態勢も取れず地面に叩きつけられた。呼吸が止まるほどの衝撃が背中から突き抜ける。
倒れながらも、シオンは一発撃ち返した。しかし、無理な態勢からの反撃だったので弾丸は空を裂き後方の木にめり込んだ。シュラーフの魔法陣が砕け散ったが、木が相手ではなんの効果も発揮されない。
魔法が特別に強力というわけではない。自分で精製したものか、あるいはグニーエから渡されたものか。いずれにしても、魔法の威力自体はリムやシオンと同等だ。しかし、シデアスには二人を凌駕する技能があった。最小限の動きで的確な魔法を使用し、敵の動きを確実に抑える。一年や二年修行しただけでは、とても身に付けられないほどの卓越した技のキレだ。
「シオンッ。一度退くわよ」
シオンは無言で頷き、駆け出した。リムも態勢を立て直す。
「逃しませんよ」
「しゅあっ!」
リムは地面に向けてエクスプロジィオーンを放った。激しい爆発により地面が削り取られ、肥沃な土や落ち葉が派手に吹き飛んだ。
シデアスが放った弾丸は、うまい具合に盾となった土塊に当たり、リムたちに届く前に効果が発揮された。まるで鋭い一太刀が過ぎったように、落下中の土塊が二つに分離した後、何事もなかったように大地に帰った。刃の魔法シュナイデンだ。
「ほう……。機転の効く人だ」
攻撃が遮られたにも関わらず、シデアスは飽くまで冷静だった。普通、自分の行為に結果が伴わなかった場合は舌打ちの一つもするものだ。しかし、そんな素振りも見せずに淡々と状況を分析している。その落ち着きぶりが、リムの焦りを誘った。
あれは絶対的な自信の表れだ。鍛錬に鍛錬を重ねた者だけが到達できる精神の域だ。こいつに負けるかもしれないという発想はない。
「しかしっ!」
リムはこれまでの経験で、勝負に絶対はないことも知っていた。どれだけ実力の差があろうと、時の運や地の利が絡んで、天は勝者を選ぶのだ。
弱気になるな。気持ちで負けてしまったら勝機を逃す。
「シオンッ! 盲撃ちでいいから、撃ち続けてっ!」
「分かってるっ」
言われるまでもなく、シオンは撃ち続けた。二対一であるにも関わらず、シデアスから強力な圧を感じていた。
ダーダー一家と対峙した時にも恐ろしさは感じた。しかし、それでも歯を食いしばって、恐怖に絡め取られる事態は回避できた。このシデアスは、抗うことすら諦めて受け入れてしまいたくなる魅力があった。自ら進んで邪神の生贄になる狂信者にまで堕ちてしまう抗い難さ。だからこそ、どんなに無様なあがきであっても抵抗を止めるわけにはいかない。
シオンは、呪縛から解き放たれようともがく呪われし者の如く、ひたすら引鉄を引き続けた。
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