第18話 世界が滅ぶとも遂げる正義
緩やかな山道をやや早足で登っているため、自然と呼吸も深くなる。もしかしたらその逆で、心にこびりついたイラつきが呼吸を荒くし、歩調を速めているのかも知れなかった。
途切れることなく舞い散る葉を目にして、今年の冬は寒さが厳しくなるかも知れないと思った。そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いた。さっきはあんな態度を取ってしまったが、タバサはこれまで確実に準備を続けてきた。
ここで動きが停滞しているのには、必ず理由があってのことだ。信じなくてはならない。周囲からどんなに謗られようが、タバサの行為は正しい道だ。皆が笑顔になれる世界へとつながっている道だ。
その高尚過ぎる目的ゆえ、周囲から理解は得られず、向けられる視線は冷たい。キーラ・キッドやリム・フォスターなどという敵対する者まで現れる。彼のすぐ横にいる自分が信じて助力しなくてどうする。この胸のイラつきは、到着点を目前にして少しだけ足早になってしまっているだけのことだ。
シデアス・ロウドは、タバサが仕掛ける魔法『黄昏に沈んだ街』を、なにがなんでも成功させなければならなかった。
待ちに待った時が近づいているためか、シデアスはこの数日、繰り返しあの日の出来事を思い出していた。彼の倫理観が崩壊した日のことを。
「…………」
シデアスは裕福な家庭に生まれた。両親の寵愛はもちろん、充分な教養を与えられ、食事ができなかった日などなく、ひもじい思いなど経験したことがなかった。友人を含め、周囲は気品ある人々で固められ、なんの苦労もない人生が続いた。それはシデアスにとって死ぬまで続くと思われていた生活だった。
ある日のこと、シデアスは一人で街に出た。普段なら足を踏み入れることなどない貧民街にだ。天候は曇りだったのは覚えているのに、足を向けた理由は忘れた。なんとなしの気紛れだったのかも知れないし、社会勉強と称して大人ぶった行動を取りたかったのかも知れない。とにかく、一人だったという背景がシデアスの運命を転がした。
歩いていてしばらくすると、街の人々が自分に注目していることに気づいた。羨望なのか妬みなのか、あるいは憎悪か。丸みを帯びた視線ではなかったので、シデアスは落ち着きをなくした。
ここは、自分がいていい場所じゃない……。
そう思い至り、引き返そうとした時、一人の少年がシデアスにぶつかった。
「うっ?」
シデアスの腰の辺りまでしか身長がない幼い少年だった。人の往来が激しいわけでもない道で、いきなりぶつかってきたことに疑問は持ったが、シデアスはとっさに少年の心配をした。
「大丈夫かい?」
シデアスは声を掛けたが、少年は既に駆け出していた。違和感を抱いたシデアスが、ポケットを確認すると財布がなくなっていた。財布と言ってもポケットサイズの麻袋で、中身もコインが数枚入っているだけだった。仮に落としたとしても、諦めがつく程度のものだ。それでも、落とすはずのない物がなくなっているのは納得がいかなかった。
驚いて少年を目で追うと、その小さな手にはシデアスの財布が握られていた。
「誰かっ! あの少年を捕まえてくれっ! ワタシの財布を盗んだ!」
しかし、シデアスの声に反応した者は、ただの一人としていなかった。誰もが見て見ぬフリ、いや、見ていながら露骨にニヤついている者までいた。
太陽に向かって真っ直ぐ伸びるヒマワリのように育ったシデアスにとっては、信じられない経験だったし、子供によるスリだろうが見過ごすことはできなかった。それに、明確な形を成さないストレスが腹の奥底に落ちてきた。人の物を盗むという少年の行為はまごうかたなき悪だが、それを黙認する連中もまた悪ではないか? しかも、大の大人がだ。
ベルトからナイフを取り出すと、少年の足元目掛けて投げた。魔法で形成された刃が地面に突き刺さると、魔法陣が拡がり砕け散った。
「うわっ⁉」
青白い光が地面を這って拡散し、少年はその場に尻餅をついた。発現した魔法はブリッツで、微かな電撃が少年を痺れさせたのだ。
シデアスは、少年の前に立ちふさがった。
「あ…う…」
身体の小さな少年にとって、上から見下ろすシデアスは、さぞ恐ろしく映っただろう。小刻みに震えていた。
「くっ」
少年は盗んだ財布をシデアスに投げつけ、逃げ去ろうとした。しかし、シデアスは少年の手首をがっちり掴んだ。少年は抵抗したが、力の差は歴然で、少年の足はその場で地面を引っ掻くだけだった。
「離せっ! 離せよっ! 財布は返しただろっ!」
「返せば君の罪が帳消しになるというものではない。なぜ、こんなことをしたのだ?」
「金が必要だからに決まってるだろっ! 離せよっ!」
「金が必要なら、働けばいい」
「俺みたいなガキを雇ってくれるとこなんてどこにあるっ」
少年は目に涙を浮かべて訴えた。少年の必死の形相に、シデアスは少したじろいた。
「……ご両親はなにをしている? 君が盗みを働かなくてはならないほど、収入が少ないのか?」
「父ちゃんはとっくに死んだっ。母ちゃんは過労で倒れて五日前から寝たきりさっ」
聞けば、少年は三日間水だけ飲んで、空腹を凌いでいたという。
ひもじさを味わったことのないシデアスには衝撃的な話だった。こんな環境下で生活している人々がいるという事実は、両親も周囲の大人たちも教えてくれなかった。
シデアスは財布からコインを一枚取り出し、少年に差し出した。少年はシデアスの行為が理解できず、コインとシデアスの顔を交互に見つめた。
「どんなに辛くても、他人を傷つけたり困らせる行為はしちゃいけない。これで食べ物を買って家に帰りなさい」
少年は戸惑ったが、シデアスがコインを乗せた手をずいと近づけると、ひったくるようにコインを掴んで駆け出した。
シデアスは、少年が一言の謝罪や礼を口にしなかったことは気にならなかったし、善行をしたという意識もなかった。ただ、自分ももう帰路についた方がいいだろうと思い、遠ざかる少年に背を向けただけだ。
「ぐっ!」
二〜三歩進んだ時、背後から少年の声が聞こえた。あまりに慌てて転んだのだろうかと振り返ると、予想もしなかった光景が飛び込んできた。
少年はうずくまり、腹部から血を流していた。極寒の風に晒されているように、ガタガタと震えている。
「おいっ⁉」
シデアスは駆け寄り、少年を抱えて起こした。
「ううっ⁉」
少年は刺されていた。肋の下からとめどもなく血が流れ続け、あっという間に顔面は蒼白になっていった。
シデアスは刺された箇所に手をあてがったが、そんなことでは出血は止まらなかった。その時になって、シデアスは少年がコインを持っていないことに気づいた。周りの地面を見渡すがどこにも落ちていない。
たった一枚のコインのために襲われたのか? まさか?
少年を襲った犯人は、まだ近くにいるはずだが、捕まえなければとか追い掛けなければなどという考えはまったく浮かばなかった。ただ、己の腕の中で震えている少年を助けなければならないという思いだけが意識を支配した。しかし、この時、シデアスは治療魔法クーアを持っておらず、精製する技術も持ち合わせていなかった。
「誰かっ! 医者をっ、医者を連れてきてくれっ!」
周囲の人々は、さすがに無関心というわけではなかったが、二人の周りに集まるだけで、誰も動こうとはしなかった。
「なにをしているんだっ! 早く医者をっ!」
「この辺りにゃ、医者なんていないよ。治療費を払える者なんていないと知ってるのさ」
老人のしゃがれた声が冷たくのし掛かった。
なす術もなく、少年はその場で息を引き取った。
その瞬間、シデアスの中の正義が逆転した。
シデアスは不条理な世の中を正そうと奔走したが、いくら一人で駆け回ろうが、できることなどたかが知れていた。両親に協力を求めても「おまえは関わらなくていいことだ」と宥められ、友人に貧民街で起こったことを話しても「コインをばら撒けば、そいつら餌に群がる猿のように寄ってくるのかな?」と嘲笑するだけだった。
周囲からの協力は得られないと悟ったシデアスは、一人で活動を続け次第に孤立していった。
タバサと出会ったのは、失望の重みで疲労しきっていた時だった。シデアスはタバサから聞かされた新世界の話に魅了され、自ら協力することを申し出たのだった。
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