第7話 波間に漂う

「おまえ……」


 歯ぎしりする光来を満足そうに眺め、ルビィは口元を醜く歪めた。


「これが最後のチャンスよ。ワタシと一緒に来なさい。クラールハイトの魔法が効いている今なら、仲間に気づかれることなく立ち去れる」

「…………」

「選びなさい。自分が消えるか。仲間が消されるか。これだけ人がいたら、ワタシを狙えないでしょ」


 小さな男の子が光来にぶつかった。男の子は、不思議そうな素振りをしたが、すぐに後方に走り去った。

 周囲の賑やかさとは逆に、光来とルビィの間は、時間さえ凍り付いてしまったかのような不動の空間が固定されていた。

 光来は、電光石火の早業でルシフェルを撃った。


「なっ?」


 光来の早過ぎる射撃に、ルビィはまったく動けなかった。遅れて聞こえてきた銃声と、光来がルシフェルを手にしているのを見て、撃ったのだろうと認識できたくらいに、光来の射撃は刹那的だった。

 そして、予想外の光来の反撃に、ルビィは動けないまま固まった。


「人が盾になっておまえを撃てないなら……」


 デッキからオレンジレッドの魔法陣が二つ同時に拡がった。ルビィは、見覚えのある模様に驚愕し、一発だと思っていたのが二発撃ち込まれていたことに戦慄した。


「盾を取り払えばいい」

「こ、こいつ……」


 魔法陣が、限界まで拡がり砕け散った。

 エクスプロジィオーンが発動し床から爆炎が吹き上げ、轟音が響いた。船から発せられた爆風と振動にあおられ、巨大な波紋が生じた。鏡なような水面が砕かれるほど、凄まじい衝撃だ。


「機関部が爆発したっ!」

「助けてぇっ!」

「沈むっ! 沈むぞぉっ!」


 船内は瞬く間に混乱の坩堝と化した。ある者は走り出し、ある者はその場で固まっている。パニックに陥った人間の怖さは、ラルゴで経験済みだった。あの街で、いざという時に強靭な精神力を発揮できる人間が少ないことを知った。


「混乱に乗じて逃げ出すつもり? 無駄なことをっ」


 体勢を立て直したルビィは、光来にルビィは銃口を向けた。だが、前を横切ったりぶつかったりする人々に邪魔されて、狙いが定まらなかった。


「くそっ、邪魔だっ!」


 ルビィは、悪態をつくほど焦りが生じた。どんなに罵っても、圧倒的な人の濁流の前ではなす術がなかった。自分を守るべき魔法が、状況が変わったことで逆に足枷となってしまっている。

 光来には、ルビィの苛立ちが手に取るように分かった。急いでいるのに、歩きスマホをしてゆっくりと歩き、道を塞いでいる阿呆が目の前にいる心境だろう。もっとも、この世界の住人である彼女にはそんな経験ないだろうが。


「そんなに苛つかなくても、俺は逃げないよ」


 光来の一言に、ルビィは怪訝な表情を見せた。


「この船は沈没しないと知ってるからな」

「…………?」


 騒然とした船上に、水夫の声が真っ直ぐ飛ぶ矢のように通った。


「慌てないでくださいっ! 救命ボートはこっちですっ」


 一瞬の静けさの後、わっとなにかが弾ける感情の渦が生じ、フライパンで跳ねる油のように不規則な人の動きは、やがて一方向に集中した。

 ルビィは光来の言葉の意味を知った。船で爆発が起これば、誰でも機関部のトラブルだと思う。であれば、一刻も早く逃げだそうとするのは当然だ。光来は魔法による爆発を演出することで、乗客の動きをコントロールしたのだ。

 光来はとっさに手摺りまで避難した。リムを探した。すぐに見つけることができた。機関室は船体の中央部にあるのに、そこから離れたデッキが爆発したことに不審を抱いている。いつでも抜けるようにデュシスに手を置き、様子を伺っている。

 それでこそだっ!

 光来は心の中で喝采した。リムは決して慌てふためいたりしないと確信していた。しかも、見過ごせないなにかが進行していることに勘づき始めている。ずっと一緒に行動してきたからこそ、リムの行動が予想でき、こんな手段に訴えることが可能だった。

 魔法による爆発は瞬間的なもので、延焼には至らなかった。まだ、小さな火と風に流される煙が残っているものの、デッキは沈静化した。なにより、あれほど賑わっていた人影がなくなり、今や光来の視野に入っているのは、ルビィとリムの二人だけとなった。

 クラールハイトという魔法は、その者の存在を消し去る魔法だ。つまり、俺がやられれば魔法の効果は帳消しになる。俺がやられても、リムはルビィの凶行に即座に気づいてくれるはずだ。そして、彼女なら必ずルビィに制勝することができる。状況は整った。これで心置きなく対峙することができる。


「正真正銘、一対一だ」


 光来は、敢えて一対一と言った。リムや他の乗客を攻撃をさせないために、意識を自分一人に集中させた。


「おまえ……」


 奇しくも、ルビィの口から先ほど光来が吐いたのと同じ憤怒が漏れ出た。彼女の全身から青白い怒りが立ち上った。

 魔法により陥れた状況を脱した上に、生意気な口を叩く。聞いていた話では、こんな大胆な行動には移れない臆病な性格のはずだ。そんな少年に挑発されている……。

 ルビィは気づかれないように深呼吸をした。もう、お互いに銃を抜いている。あとは外さずに撃つだけだ。

 波の音が聞こえる。後方では、我先に救命ボートに乗ろうとする人々の喧騒が続いている。それなのに、それらすべてがルビィを素通りしていった。

 もしかして、自分たちの存在感が消えているのではなく、周りのものすべてが違う空間に行ってしまっているのではないか。そんな錯覚すら覚えた。

 危険を知らせる汽笛が鳴り、それが合図となった。ルビィは光来を銃口で捉えようとしたが、その瞬間には全身に爆ぜるような痛みが駆け巡っていた。


「あああっ!」


 体の感覚がなくなり、視界が遠のいた。立っていることも叶わなくなり、天と地の区別も付かなくなった。朦朧としたまま後退し、崩れ落ちた。手摺が腕に引っ掛かり、ルビィは辛うじて船から落ちるのを免れた。その手には、もう銃は握られてなかった。

 光来は、ルビィの銃を狙った。イメージした通り、電撃の魔法ブリッツを撃ち出すことができた。光来は、前の戦いで気づいていた。自分は魔法を自在に書き換えられるようになりつつあることを。『彼の者』はイメージを鋭敏に捉える。光来は人を撃ち抜くところを想像してしまい、弾丸がトートゥに書き換えられてしまっていた。ならば、人を撃つことを考えなければいい。体に当たらずとも、魔法ならばダメージを与えることが可能だ。

 密かに考えていたことを初めて実践した。上手くいくはずだと疑ってなかったが、実際に成功したことで、さすがに胸を撫で下ろした。


「……タバサは、あなたを欲してたけど……」


 ルビィは手摺に体を預けたまま、視点の定まらない眼を向けた。眼力はまるで感じられないのに、不気味な怖さがあった。光来は思わず身震いしてしまった。


「なんだと?」

「間違いだわ。危険過ぎる……」

「……タバサは、なんで俺が現れると知っていたんだ?」

「タバサは、あなたの代わりに……」


 意識が混濁しているのか、ルビィは光来の問いに答えているというよりも、独り言を呟いているようだ。


「最初から間違っていた……。二人は出会うべきでは……」

「あっ?」


 ルビィが身を乗り出した。光来は慌てて駆け出し手を伸ばしたが、ルビィの体がずるりと落下する方が早かった。

 気を失っているのか、なにも考えられず受け身も取れないのか、ルビィはなすがままに頭から川に突っ込んだ。小型客船とはいえ、高さは三階建ての建物に匹敵する。


「ルビィッ!」


 光来は叫んだが、その声は風にさらわれ彼方に消えた。派手な水飛沫が跳ね、重たい音が響いたが、光来以外、誰一人として人が落下したことには気づいていない。


「ルビィ……」


 海原のような川に投げ出され、生き延びることなどできるのか?

 光来の心配など置き去りに、ルビィはどんどん流されていき、やがて見えなくなった。

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