第3話 静かなる虚構

 光来は熱いコーヒーを啜り、ほっと息を吐いた。

 次の目的地はエクズバウトだ。グニーエ・ハルトが忽然と姿を消した場所だという。つまり、リムの父親が殺された場所でもあり、それを考えると気が滅入る思いだ。

 リムはおそらく、グニーエと対峙した時、冷静ではいられなくなる。ディビドでははっきり「死ぬべき存在」と口走った。やはり、彼女の復讐の成就は、グニーエを殺すことでしか成し得ないのだろうか。

 前にリムから聞いた話を思い出す。魔法による殺人は最大の禁忌であり、実行した者は極刑に処せられる。


「…………」


 彼女に人殺しをさせるわけにはいかない。俺がなんとしてでも止めないと……。

 思いに耽っていると、船尾に続く扉からズィービッシュが現れた。


「ズィービッシュ」


 光来が声を掛けたが、ズィービッシュは気づかず向かってきた。


「一緒にコーヒーでもどう?」


 光来は、カップを掲げて誘った。行動を共にする以上、打ち解けておきたかったし、リムとどんな会話を交わしたのか聞き出せればという目論見もあった。

 しかし、ズィービッシュは光来の目の前に来ても見向きもせず、通り過ぎた。そして、そのまま、まるで光来などいないかのように扉を開き前の船室に行ってしまった。


「……なんだよ。感じ悪いな」


 光来は、掲げたカップをそのまま口に運んで傾けた。しかし、すでに空になっていることに気づき、ウエイトレスを呼ぼうと手を挙げた。

 食堂はそれほど混んでいるわけではないのに、なかなか気づいてもらえない。そのくせ、他の客が手を挙げたら、すぐに反応して近づいていった。

 ちょっぴり気分を害したが、戻ってくるタイミングに合わせ、ひらひらと手を振った。だが、それも無視された。

 え……?

 今のに気づかないなんて、よくウエイトレスが務まるな。不思議に思いながらも、仕方なく声を掛けた。


「すみません」


 それでも、ウエイトレスが振り向くことはなかった。まるで光来から注文を受けるのを頑なに拒んでいるようだ。

 ……なんか変だ。なにかがおかしい?

 ここに至って、光来に不安が拡がった。

 光来は立ち上がり、ウエイトレスに近づいた。目の前に立つまで接近しているのに、まるで反応がない。

 ウエイトレスの顔の前で、掌を広げて左右に振った。まばたき一つしなかった。

 これは……。

 今度は、ウエイトレスの顔の前で、思い切り手を叩いた。相撲でいう猫だましだ。それでも、なんの動きもなかった。

 おかしい。絶対におかしい。目の前で手を叩かれたのに、まばたきもしないなんてあり得ない。まばたきは条件反射だ。どんなにするまいと意識しても、我慢できる人間なんているはずがない。

 光来が狼狽していると、船尾に続く扉が再び開き今度はリムが姿を現した。なにか浮かない顔をしている。

 ズィービッシュとどんな会話を交わしたのか気にしつつ、縋る思いで近づいた。


「リム、気をつけろ。なにか変だ。ひょっとしたら……」


 しかし、リムもズィービッシュやウエイトレスと同様、光来などいないかの如く、通り過ぎようとした。


「ううっ?」


 もはや疑いの余地はない。魔法だ。魔法による攻撃を受けている⁉


「リムッ」


 肩を掴んで、強引に振り向かせた。

 リムは不機嫌さを隠そうとせず、近くに座っていた客を睨んだ。


「なに? いきなり肩を掴むなんて失礼じゃない?」


 文句を言われた中年男性は、きょとんとしている。


「……ひょっとして、私に言ってるのかな? お嬢さん」


 男の態度に、リムはますます不機嫌になる。


「とぼけないで。あんた以外に誰がいるの」


 自分の職場で突然発生したトラブルに、ウエイトレスが緊張している。


「リム。この人じゃない。俺だ。俺が掴んだんだ」


 光来は慌てたが、リムは光来に見向きもしない。

 光来はリムの両腕を掴んだ。


「っ⁉」


 リムは、バッと退いてデュシスを抜く構えを取った。


「なに? 今の……」


 リムは目をせわしなく動かし、異変の正体を探った。


「お嬢さん? なにか誤解があったようですが?」


 リムに絡まれた男が、飽くまで穏やかに、しかし不思議そうな目でリムを見ている。


「…………」


 リムの鋭い視線は男で止まった。しかし、殺気や敵意は感じ取れない。構えを解いた。


「……そうね。ワタシの早とちりでした。すみません」


 リムは頭を下げた。


「誤解が解けてなによりです」


 男はにっこりと微笑んだ。

 リムは踵を返した。そして、四方に気を張り巡らせながら前の客室に移った。

 リムが去った後、ウエイトレスが男に失礼があったことを詫びた。男はウエイトレスにもにこやかな対応に終始した。

 光来は、密かに胸をなでおろした。

 紳士的な対応ができる人で助かった。今のは、完全にリムに非がある設定になってしまっていた。


「…………」


 光来は確信した。

 俺の声すら聞こえていなかった。それに、さっきウエイトレスに猫だましをした際も、手を叩く音にも反応がなかった。間違いない。見えなくなっているんじゃない。聞こえなくなっているんじゃない。俺は認識されなくなっているんだ。

 タバサの人を傀儡にしてしまう魔法や、シオンのファントムと同じ、精神に入り込んで影響を与える魔法だ。船内の人全員に? いつの間にか仕掛けられていた?

 光来は慌ててリムの後を追おうとした。とにかく三人と合流するのだ。あの三人なら、きっとなんとかしてくれる。


「人は孤独には耐えられるけど、孤立には耐えられない」 


 光来の耳に、するりと声が入り込んできた。涼やかであるのに、車内で聞こえる音漏れのように神経に触る響きを感じた。

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