二度とお義兄様を疑いません!

緋色の雨

エピソード

 私は義理の兄を絶対に許さない――と思っていた。ウィスタリア侯爵家の唯一にして正統な後継者である、私からすべてを奪ってしまったからだ。

 だけど、すべて私の誤解だった。アルノルトお兄様が当主の地位に就いたのは、権謀術数に長けた貴族達から無知で無力な私を遠ざけるため。

 お兄様はずっと、私を護ってくれていたのだ。


 だけど、当時の私は敵を見誤っていて、兄をその地位から引きずり下ろそうと何度も画策した。それどころか、兄に仲良くするなと言われていた人達とも交流を持った。

 その結果――



「シェリル・ウィスタリア。そなたを断罪する」


 王城にある謁見の間。

 二十歳の誕生日を目前に、私はウィンス第二王子毒殺未遂の罪で捕らえられた。私は真っ赤な絨毯の上で罪人として膝を付いている。


「ユリウス王太子殿下、私はウィンス第二王子の杯に毒を盛ってなどおりませんわ!」

「違うというのなら証拠を示せ。証拠がなくば、いくら無実を訴えたところで無駄なことだ」

「では、私が毒を盛ったという証拠はあるのですか?」


 ユリウス王太子殿下は答えの代わりに、部下の一人に指示を出した。

 ほどなく、怯えた様子の侍女が二人連れられてきた。二人供に私に仕える侍女であることを確認した私は、自分の状況がとてもよくないことを悟る。

 そして、そこからは私の想像通りの展開だった。


 侍女の一人が、私に命じられるままに毒入りのワインを入手したと証言し、もう一人の侍女は、私に渡されたワインをウィンス第二王子の杯に注いだと証言した。

 そして揃って、命じられるままに行動したが、まさか自分達の主が、ウィンス第二王子を毒殺しようとしていたなんて、夢にも思ってもいなかったと締めくくった。


「そのような世迷い言をよくもっ! 一体、誰に唆されたのですか!」

「そ、唆されてなどおりません! シェリルお嬢様こそ、わたくしに命じたことを、なかったことにするおつもりですか!」


 なかったこともなにも、最初からそんな命令はしていない。

 だけど、侍女とは、レディースメイドとも呼ばれる、メイドの上級職である。ウィスタリア侯爵家の令嬢である私に仕える侍女ともなれば、全員が名のある貴族の家に生まれた娘だ。

 彼女らの証言は、私の裁判に影響を及ぼすだけの証拠になりうる。


 この場にも、私が濡れ衣を着せられたと気付いている者はいるかもしれない。

 だけど、私の手足であるはずの侍女達が、私に毒殺を指示されたと証言している以上、いくら無実を訴えたところで結果は同じこと。


 私は誰かにはめられたのだ。

 だから、私は無実を証明できない。

 私は第二王子を毒殺しようとした罪で処刑される――はずだった。

 だがその謁見の間に、新たな来訪者が現れた。

 私の義理の兄、アルノルトである。


「……哀れな私を笑いにでも来たのですか?」


 私が受け継ぐはずだった侯爵の地位を奪い、ウィスタリア侯爵家の内政から私を遠ざけた憎い男。その男に断罪の場を見られることに、言いようのない苛立ちを覚えてしまう。

 だけど、アルノルトは私の吐いた毒にも反応せず、ユリウス王太子殿下の前に跪いた。

 そして赤い絨毯の海に顔を沈める。


「このたびの責任は、シェリルの兄である私にございます。ですから、すべての罰はこの私に与え、シェリルには寛大な処置をお願いいたします」


 彼がなにを言っているか、私は理解できなかった。

 彼は私からすべてを奪った憎い男だ。その彼が、私のために頭を下げるなどあり得ない。ましてや、私の代わりに罰を受けるなどと口にするはずがない。

 そう思おうとするけれど――


「アルノルト侯爵、もう諦めろ。そなたがシェリルを甘やかし、庇い続けた結果がこれだ。今回の一件は、そなたがどう足掻いたところで覆らない」


 ユリウス王太子殿下の言葉は、アルノルトが何度も私を庇っていることを示唆していた。アルノルトもそれを否定せず、状況の確認を始める。


「……なるほど、侍女達が証言したのですね。確認させていただいても?」

「ああ、好きにするがいい」


 ユリウス王太子殿下の許可を得て、アルノルトは私の侍女達を睨みつけた。


「リリアナ、それにアイラ。おまえ達は派閥争いに巻き込まれて立場をなくしたとき、シェリルに護ってもらったという大きな恩があるはずだ。その恩を仇で返すつもりか?」

「そ、そのようなことを仰っても困ります。わたくし達は、シェリルお嬢様に命じられたままに行動したに過ぎませんもの」

「そうです。恩を感じていたからこそ、命令に従ったまでですわ!」


 二人が口々に無実を訴える。


「……その証言がどのような結果を生むか、ちゃんと理解した上での言葉なのだな?」

「お、脅す気ですか!? わたくし達は、事実を事実と言っているまでです!」

「そうか、よく分かった」


 アルノルトは怒りを湛えつつも、静かに彼女達から視線を外した。


「分かっただろう。もはや、シェリルの罪を晴らすことは不可能だ」


 ユリウス王太子殿下の言うとおりだ。

 私の手足だった侍女達の証言がある以上、私の罪を覆すことなんて誰にも出来ない。

 そう思っていたけれど――


「いいえ、不可能ではありません」


 アルノルトは悠然と言い放った。


「不可能ではない、だと? 一体なにを言っている。毒殺未遂の首謀者がシェリルであると、侍女達が証言しているのだぞ?」

「問題ありません。侍女にその証言させたのは私ですから」

「……なんだと?」

「私が侍女に金を払って命じたのです。シェリルに第二王子毒殺の濡れ衣を着せよ、とね」


 なにを言い出すのかと、この場にいる全員が呆気にとられる。

 真っ先に我に返ったのは私だった。


「アルノルト、一体どういうつもりですか!」

「シェリル、いまは黙っていなさい」

「いいえ、黙りません。なぜそのような嘘を吐くのですか!」


 アルノルトが私に濡れ衣を着せた可能性は考えなかった訳じゃない。でも、もしもそうだったのなら、ここでそれを白状するはずがない。私にだってそれくらいは分かる。


「――シェリル、お願いだ」


 いつも冷たく突き放すお兄様が、まるで捨てられた子供のような顔で懇願した。そんな顔を見せられて、それでも問い詰めるなんて真似、いまの私には出来なかった。

 そして沈黙が流れ、それを破るようにユリウス王太子殿下が口を開く。


「……そなたの言い分が事実なら、たしかにシェリルは無実だ。だが、そんな戯れ言を誰が信じる。さきほどおまえ自身が、侍女達に尋問していたではないか」


 ユリウス王太子殿下の言うとおりだ。

 アルノルトを怨んでいる私ですら、それが嘘だと分かるレベルだった。だって、もし本当に私を排除するために濡れ衣を着せたのなら、ここで白状するはずがない。

 だけど、アルノルトは不敵に笑う。


「……ユリウス王太子殿下、なぜシェリルは濡れ衣を着せられたか分かりますか?」

「濡れ衣だという証拠はなに一つ見つかっていないが?」

「仮定の話でかまいません」


 言質を取らせまいとするユリウス王太子殿下に対し、アルノルトはあくまでも例え話だと念を押した。それを踏まえて、ユリウス王太子殿下も考える素振りを見せる。


「……ふむ。もし濡れ衣を着せられたのだとすれば、理由は想像に難くない。天才的な手腕で巨大な領地を統治する、若きウィスタリア侯爵、おまえに対する牽制だろう」

「私もそう考えます。その私が首を差し出すと言っているのだから通らないはずがない」


 ユリウス王太子殿下が目を見張った。


「おまえは、その言葉の意味を分かっているのか?」

「当然分かっています」

「おまえは……馬鹿だ」


 アルノルトの問い掛けに、ユリウス王太子殿下が寂しげな顔をした。そういえば、ユリウス王太子殿下とアルノルトは友人関係にあると風の噂で耳にしたことがある。

 ユリウス王太子殿下は長い沈黙の後、小さな溜め息をついた。


「いいだろう、おまえの証言を認める。ウィンス第二王子の杯に毒を入れるように命じたのはアルノルト侯爵であり、シェリルはその濡れ衣を着せられただけだ、と」


 ユリウス王太子殿下の言葉に謁見の間が騒然となった。

 王太子殿下の補佐を務める伯爵が慌てて声を上げる。


「ユリウス王太子殿下、お待ちください! ウィスタリア侯爵は他の追随を許さない才覚の持ち主で、しかも殿下の支持者ではありませんか!」

「そんなことは言われずとも分かっている。だが、アルノルトは自分の意見を曲げるような男ではない。それに、この場で宣言した以上、もはや手遅れだ。数刻後には、アルノルトがシェリルに濡れ衣を着せた証拠が出て来ることだろう」


 重要なのは証拠で、その証拠は力があれば捏造することも出来る。アルノルト自身が、濡れ衣を着せられることを望んでいる以上、その流れを崩すことは不可能だ。

 それを理解した者達は一斉に口を閉じた。


「……さて、アルノルト。これからどうするつもりだ? おまえが王族に対する毒殺未遂の罪を犯したとなれば、その血縁であるシェリルも無事ではすまぬぞ?」

「なに、私は養子です。それを解除すれば問題はありません」

「……相変わらずそつのない男だな」

「あぁそれと――」


 アルノルトが、私の罪を証言した侍女達に視線を向けた。


「彼女達は、私がシェリルに濡れ衣を着せる目的で、ウィンス第二王子に毒を盛る計画の全容を知っていた。第二王子暗殺未遂に、主である侯爵令嬢を貶めようとした共謀罪だ」

「なるほど、善意の第三者ではなかった訳だな。では、彼女達も裁かなくてはな」


 アルノルトとユリウス王太子殿下のやりとりに、侍女の二人がぎょっとした顔になる。


「お、お待ちください! 私どもはシェリルお嬢様の命令に従っただけで、ウィンス第二王子を毒殺しようとしていたなどとはまったく知りませんでした! ましてや、アルノルト様の命令など聞いたこともございません!」

「……と言っているが?」


 ユリウス王太子殿下がアルノルトに問い掛ける。

 それを見たアルノルトは酷く冷たい顔をした。


「愚かだな。おまえ達が否定すれば私の疑いは晴れる。だがそうなれば、おまえ達を雇った者達の望みが叶わない。よって、おまえ達の証言が通ることはない。絶対にな」


 黒幕の目的は私ではなくアルノルト。

 だから、私に濡れ衣を着せた黒幕が、今度はアルノルトに濡れ衣を着せるために、アルノルトが侍女を使って私に濡れ衣を着せたという証拠を作る、と言うことだ。

 私を裏切った侍女達が、今度は雇い主に裏切られるのだ。


「……罪が確定するまで拘束しておけ」


 ユリウス王太子殿下の指示で、無実を訴える侍女達が連行されていく。

 代わりに私の拘束が解かれら。

 まるで、最初から、私に掛けられた疑いなんてなかったかのように。


 怖い。

 私も侯爵家に生まれた貴族の娘だ。アルノルトを引きずり下ろすために、様々な謀略を使っていた。でもいまのやりとりを見れば、私がやっていたのはただの子供のママゴトだった。

 そうして震える私のまえにアルノルトが膝を付いた。

 彼は連行される間際、ユリウス王太子殿下からしばしの猶予をもらったようだ。


「……アルノルト、どうして?」


 私を庇ったのかと問い掛ける。


「いままで隠していてすまない。ウィスタリア侯爵の地位は、おまえが思っているよりも何倍も重い。それこそ、おまえに毒殺の罪を着せて奪おうとするほどに、な」


 薄々は分かっていたことだ。

 でも、それを彼の口から直接聞いたことで怖くなる。

 ウィスタリアを切り崩しておこぼれを奪う。それだけのために、ウィンス第二王子の杯に毒を入れ、私を死に追いやろうとする者がいるなんて夢にも思わなかった。


 誰もが羨むウィスタリア大公爵の地位と名誉、それに莫大な富。

 煌びやかなそれらが、呪われた称号のように思えてくる。


「まさか、あなたが私を家から遠ざけたのは……」

「ああ、おまえをこういった事態から護るためだった。当主となった私に追い出された、なんの価値もない娘と思わせておけば、おまえが狙われることはないだろうと思っていたのだ。結果は、こんなことになってしまったが……」


 アルノルトに突き放された様々な光景が浮かんでは消える。

 私はずっと、アルノルトが、私からすべてを奪った簒奪者だと思って怨んでいた。でも、それは全部私の誤解。全ては、私を守るためにしてくれていたことだったのだ。


「アルノルト、私は――」


 いままでのことを謝ろうと、だけど開き掛けた口は彼の指先によって塞がれてしまう。


「なにも言わなくていい。それより、これからのことを考えなさい。無実のおまえは解放されるが、私がおまえを護ることはもう出来ないからな」

「待ってください! これは私の失態です。アルノルトが肩代わりする理由などないではありませんか! なのに、どうしてこのような真似をなさったのですか!?」


 私の問い掛けに、彼は酷く寂しげな顔で一言だけ呟いた。


「愛しているよ、シェリル」





 ――こうして、ウィンス第二王子の毒殺未遂事件は、首謀者であるアルノルトと、その実行犯である侍女達の処刑という形で幕を引いた。

 あっさり、本当にあっさりとアルノルトは処刑されてしまった。


 アルノルト・ウィスタリアではなく、ただのアルノルトとして処刑されたことで、ウィスタリア侯爵家に対するお咎めはないに等しい。


 これは、ウィスタリア侯爵家の切り崩しを狙う黒幕にとっての誤算だろうと思っていた。

 そして、私はアルノルトの――お兄様が残してくださった、ウィスタリア侯爵家を護るために、二十歳という若さでウィスタリア侯爵家の当主となった。


 お兄様が当主になったのは十八歳のときだ。だから、二十歳になった私なら、ウィスタリア侯爵家を護れると――本気で思っていた。私は右も左も分からない状況ながらも、ウィスタリア侯爵家を支えてきた重鎮達と必死にがんばった。

 そして三ヶ月後、信頼して仕事を任せた会計士が裏切っていたことを知る。


 横領が発覚して追及した結果、私が不正を働いていたという証拠を突き付けられた。外部の手引きで、私の知らないあいだに偽の証拠をでっち上げたのだ。

 結果、ウィスタリア侯爵家は莫大な罰金を支払うことになった。


 それからは重鎮達を重要な仕事から遠ざけ、私がすべて確認するようにした。そうして執務に追われていると、メイドが用意した食事に盛られた毒で死にかけた。


 私は、その事件に関わったメイド達を追放した。そうしたら他の貴族達から、ウィスタリア侯爵家の当主が疑心暗鬼に駆られ、無実のメイドを追放したと噂されるようになった。

 ウィスタリア侯爵家と親しくしていた家臣達すら離れて行く。


 私は必死に抵抗したけれど、その才能はお兄様に遠く及ばない。そんな私が、信頼できる家臣や侍女すら用いずに、お兄様と同じ働きを出来るはずがなかったのだ。


 情報漏洩に情報操作、その他、数え切れないほどの謀略が、私の把握できないところでおこなわれる。私はもはや、メイドが用意した食事すら食べることが出来なくなった。


 それでも、私はウィスタリア侯爵家の当主という地位にしがみついた。だってそれは、私のお兄様が命懸けで護ってくれたものだから。

 私に出来る恩返しは、その地位を守り続けることだけだったから。


 だけど、誰も信じられなくなった私が転げ落ちるのは早かった。誇り高きウィスタリア侯爵家はたった一年で見る影を失い、その領地も半分以下にまで減らしていた。

 そして――


 盗賊集団による馬車の襲撃。

 侯爵家の馬車を盗賊が襲うなど普通はあり得ない。仮に襲われたとしても、正規の訓練を受けた護衛の騎士達に、盗賊ごときが敵うはずがない。

 にもかかわらず、私は盗賊の刃によって貫かれた。


 それが味方の裏切りか、はたまた盗賊を騙った刺客だったゆえなのか、それはもはや分からない。私が思ったのは『これでもう怯える毎日を送らなくてもいいんだ』ということ。


「アルノルトお兄様、私、がんばったよね……?」


 生き恥を晒しても、最後まで逃げなかった。

 それだけを誇りに、私は二十一歳という若さでこの世を去った。

 ――はずだった。



「……あれ? 私、死んだはずじゃ……」


 目覚めれば、そこはふかふかのベッドの上だった。

 まさか、あの状態から助かったの?

 生を実感して真っ先に抱いたのは、まだ一人でがんばらないとダメなのか? という恐怖だった。これ以上、誰も信じられない状況でがんばるのは辛すぎる。


 思わずベッドの上で膝を抱えた私は、その手足が妙に小さいことに気が付いた。それに、刺されたはずの傷が何処にも残っていない。

 まさか――っ。


「嘘っ、どう、なってるの……?」


 姿見に駆け寄った私は息を呑んだ。

 鏡に映るのは毎日見慣れた私――だけど、身も心もボロボロになってやつれた二十一歳の私ではなく、愛らしい寝間着を纏う十代半ばくらいの私だった。

 まさか、子供の頃に、戻ったの?


 そんなことはあり得ない。

 だけど、この身体は子供の頃に戻ったとしか思えない。なにかその事実を確認できる物はないかと内装を見回した私は、テーブルの上にカフスボタンが飾られていることに気が付いた。


「……お父様のカフスボタンだ」


 遺品として受け取った純金製のカフスボタン。お父様の死後、私は一ヶ月と経たずして学園の寮に放り込まれたので、ここにカフスボタンを飾っていたのはその頃だけ。


 つまり、いまは私が十四歳になった直後。

 お父様が亡くなってから一ヶ月以内、ということだ。


 ……待って。

 いまがお父様がなくなった直後なら、お兄様は?


 まだ生きているはずだと、寝間着から着替える間も惜しんで部屋を飛び出した。私は寝間着の裾をはためかせ、ウィスタリア城の長い廊下を全力で駆け抜ける。

 そうして、お兄様がいるはずの執務室へと飛び込んだ。

 思い浮かべたのは光に満ちた暖かい日常。

 だけど――


「そん、な……」


 目の前に広がるのは、カーテンを閉め切った薄暗い空き部屋だった。

 お兄様が執務をしている痕跡が何処にも存在しない。

 私はまたひとりぼっちになってしまった。


「もう、無理だよ……」


 両手で顔を覆って涙を流す。

 ……神様、こんなの、あんまりです。

 ひとりぼっちの私に、もう一度ウィスタリア侯爵家を護れというのですか?


「……シェリル、空き部屋でなにを……泣いているのか?」


 背後から響いた声に私は身を震わせた。

 一年近く聞いていない声。そして、記憶にあるよりも若い声だった。


 そして、同時に思い出す。お兄様の執務室が作られたのは、お兄様が当主になった後。この時期にはまだ、お兄様の執務室は存在していなかった、と。


 だから、つまり――と、顔を覆っていた手を少しだけずらし、顔の前で合わせた手の指で目尻を押さえる。私は震える声で、背後にいる青年に向かって問い掛けた。


「……お兄様、ですか?」

「いつも言っているが、私はおまえを妹だと思ったことはない」


 素っ気ない声が返ってくる。

 お父様がどこからともなく連れてきた、下級貴族の子供。いつもさきほどのように素っ気ない口調で語る義理の兄は、私のことを嫌っているのだと思っていた。

 だけど――


『愛しているよ、シェリル』


 その身を犠牲に、私を救ってくれた彼が残した言葉。


「――お兄様っ!」


 振り返った私は、彼の胸の中に飛び込んだ。


「シェリル、なにを――」

「お兄様、死なないでください、お兄様!」


 私を引き剥がそうとしたお兄様の手が止まった。


「……死ぬ? 怖い夢でも見たのか?」

「怖い夢……そう、かもしれません」


 そうであって欲しいと、私はお兄様にしがみついた。だけど、お兄様は私の首の後ろ、服の襟を摑んで私を引っ張った。私はぐえっとなってお兄様から引っぺがされる。


「お、お兄様、ヒドイですっ」

「さっきも言ったが、私はおまえの兄ではない」


 素っ気なく切って捨てられる。

 ふんだ。そんな風に悪ぶったって、お兄様が他の誰より、私のことを大切に思ってくれてるのは知ってるんだからね?


「……なにを笑っている?」

「なんでもないですよ~だ。それより、朝ご飯にしませんか?」

「お腹が空いたのなら勝手に食べろ」

「もう、そんなこと言って、一緒に食べましょうよ。……ね?」


 お兄様の腕に抱きついて上目遣いを向ければ、彼は心底嫌そうな顔をする。

 ……あれ? もしかして、ベタベタされるのは嫌なのでしょうか? と、少しだけ不安になったそのとき、お兄様が「せめて着替えてこい」と溜め息をついた。

 これって、一緒に食べてくれるってことですよね。


「ありがとうお兄様、着替えてきますね!」


 パタパタと走り去った私は、そのまま自分の寝室へと舞い戻った。


「お嬢様、何処へ行っていたのですか?」


 部屋に戻ると、懐かしい侍女が私を出迎えた。

 六年前、十二歳のときから行儀見習いとして侯爵家にいたアーニャ。二年ほど前に私の筆頭侍女になった、私がもっとも信頼していた侍女だ。

 ……私が当主になるまえにやめてしまったんだけどね。


「お嬢様、聞いていますか?」

「ごめんなさい、少しお兄様に会ってきたの」

「お兄様? シェリルお嬢様が、アルノルト様のことをそのように呼ぶのは久しぶりですね」

「……そうだったわね」


 最初の頃に呼んで、妹と思うことはないとか言われて、それっきりといった感じである。あの頃は嫌われていると思って、思いっ切りへこんだなぁ。


「お嬢様、本当にどうかなさったのですか?」

「あっと、ごめんなさい。お兄様と朝食を食べる約束をしたの。急いで着替えるから、部屋から出ていてくれるかしら?」

「……はい?」


 なにを言っているのですか? とでも言いたげな顔で見られる。その顔を見た瞬間、そういえばこの頃の私は、着替えをすべて侍女に任せていたことを思い出す。

 というか、普通はそれが当たり前である。

 何度も裏切られてから、一人で着替えるようになったんだよね。


 着替えを誰かに任せるのはやはり怖い。でも、一人で着替えるなんて、侯爵令嬢のすることではない。もしそんなことをすれば、お兄様にも疑われることになるだろう。

 それに、アーニャは私を裏切らなかった。

 少なくともいまは大丈夫なはずだ。


「えっと……その、着替えを手伝ってくれるかしら?」

「はい、もちろんですよ、シェリルお嬢様」


 アーニャの指示で、他の侍女達も部屋に入ってくる。不安な気持ちが首をもたげるけれど、この頃の私は裏切られたことがないから大丈夫だと自分に言い聞かせる。


「シェリルお嬢様、服や髪型はどうなさいますか?」

「えっと……そうね」


 お父様が亡くなって以来、大人びて見えるような服装や髪型にこだわった。でも、いまの私はそうする必要がない。せっかくお兄様との食事なのだから、可愛い髪型にしよう。


「レースを基調とした、ハイウエストのドレス。それに髪型は……ツインテールで」

「かしこまりました」


 アーニャは私の要望通りのドレスを用意して、更には、ただのツインテールではなく、結び目に至るまでの部分を少しだけ編み込んで、可愛らしいツインテールに仕上げてくれる。


「いかがでしょう?」

「……ありがとう、とても気に入ったわ」


 鏡に映る姿を前に、私ってこんなに可愛かったんだ! と感心してしまう。自画自賛という訳ではなく、巻き戻る前のくたびれた私があまりに酷かったのである。


 なにはともあれ、準備を終えて食堂に顔を出すと、アルノルトお兄様が憮然とした顔で席に座っていた。テーブルを見るに、食事を待ってくれていたようだ。


「……もしかして、お待たせしてしまいましたか?」

「ああ。何度先に食べようかと思ったことか」

「でも待っていてくださったんですね、ありがとうございます」

「……ただの気まぐれだ」


 お兄様はそう言ってメイドに食事の用意を促した。ほどなく、席に着いた私とお兄様の前に朝食が運ばれてくる。私はいただきますと、朝食に手を付けた。


 朝食を食べながら、こっそりとお兄様に視線を向ける。濡れ羽色の髪に青みを帯びた瞳。とても整った顔立ちのお兄様は巻き戻る前、令嬢達から氷の貴公子と騒がれていた。

 そして、それを聞くたびに『あれはただの冷酷な男ですわ』と内心で毒づいたものだ。


 でも、見る目がないのは私の方だった。見た目は冷たいのに、自らの命と引き換えに妹を護ってくれるほど優しい美青年。令嬢達が騒ぐのも無理はない。


「……シェリル、さきほどから私の顔を見ているようだが?」

「あ、その、なんでもありませんわ」

「そうか。……これを期に、シェリルに話しておくことがある」


 アルノルトお兄様がカトラリーをテーブルに戻し、私をまっすぐに見つめた。私も姿勢を正し、真正面からアルノルトお兄様の視線を受け止める。


「……お話しとは、なんでしょう?」

「ウィスタリア当主のことだ。これから家臣を集め、ウィスタリア侯爵家の次期当主を決めねばならない。ウィスタリアの血を引くのはおまえだけだが――」


『次期当主には私がなります!』


 巻き戻る前、私が口にした言葉である。

 でも、いまの私は当主の地位がどれだけ重いかを知っている。いくら二十一歳までの記憶と経験があるからといって、侯爵家の責務を背負うには至らない。

 だから――


「次期当主にはお兄様が相応しいと思いますわ」


 巻き戻るまえと同じようにお兄様の言葉を遮って、巻き戻るまえとは正反対の言葉を口にした。お兄様は、私の言葉を理解できないとばかりに目を見張った。


「当主には私が相応しい、だと? ウィスタリアの血を一滴も継いでいない私が、か?」

「血筋で言うのであれば、後継者に相応しいのは私でしょう。ですが、未成年の女、なにより未熟な私に、当主の座は務まりません。お兄様こそが相応しいでしょう」

「その言葉を信じろと?」

「信じる必要はありません。ですが、当主会議でもそう申し上げるつもりです」


 お兄様には、お父様の書いた遺言書がある。

 だから、たとえ私がどれだけ反対したところで、お兄様が当主の座につく結果は変わらない。だけど、だからこそ、ここで私が賛成の意を伝える意味は大きいはずだ。


「……そうか、では話は終わりだ」


 お兄様は凄く戸惑っているみたいだ。

 でも無理もない。巻き戻るまえの私は、自分がお父様の後を継ぐと信じて疑わなかった。その私が、当主の座に興味を示さないのは、本来ならあり得ない出来事だ。


 でも私は、自分が当主になれば、能力不足で破滅することを知っている。逆に、お兄様なら侯爵家を立派に支えることが出来ることも知っている。

 だから、ウィスタリア侯爵家はお兄様に任せるつもりだ。そして、私は安全な家に嫁ぐつもりだ。そうすれば私が狙われることはなく、お兄様の弱点という立場から抜け出せる。


 ただ、私は巻き戻るまえ、お兄様に命と引き換えに護ってもらった恩がある。だから、出来ればウィスタリア侯爵家にとって有益な家に嫁げればいいなと思っている。

 それが私の考える、お兄様への恩返しである。



 こうして、お兄様を次期当主に任命するための当主会議が始まる。

 もちろん、反対意見が出なかった訳じゃない。家臣と言っても、すべてが無条件の忠義を尽くしてくれている訳ではないし、その忠節の相手が誰か、という問題もある。


 というか、私を当主の座に据えて、自分の息子を伴侶にあてがい、ウィスタリア侯爵家を乗っ取ろうと企んでいるとおぼしき家臣もいた。

 もしもいまの私が当主になっていたら、色々な意味で大変なことになっていただろう。


 でも、そういった者達の陰謀はすべて、お兄様があらゆる手を使って封じてしまった。お世辞にも正攻法ばかりではなかったけれど、侯爵家の運営は綺麗事ばかりではない。

 狡猾な連中を相手に一歩も引かなかったのは、家臣の信頼を得る切っ掛けになったはずだ。私が賛成したこともあり、お兄様は巻き戻る前よりも円満に当主の地位を手に入れた。



 数日後。

 私はお兄様に呼び出されていた。


「単刀直入に言おう。おまえを学園の寮に入れるつもりだ」


 巻き戻るまえと同じセリフ。あのときは、『私から当主の座を奪うばかりか、ウィスタリア侯爵家から追い出すつもりですか!?』とケンカ腰に応じた。

 でも、いまは違う。

 私はお兄様の気持ちはもちろん、この選択によってたどり着く結末も知っている。

 だから――


「申し訳ありませんが、そのお言葉には従えません」

「これは当主である私の決定だ。おまえがどう足掻こうと無駄なことだ」

「お兄様のお気持ちを知っていると言っても、ですか?」

「……なに?」


 私の核心を突いた一言が、お兄様の冷酷な仮面にヒビを入れた。


「お兄様はいつも仰っていましたね。私のことを妹だと思ったことはない、と」


 お兄様と私のあいだに血の繋がりはないのは事実だ。だから、お兄様の言葉に違和感を覚えることはなかった。でも、お兄様が命と引き換えに私を護る結果を知っていれば話は変わる。


「すべて、私を想っての言葉だったのでしょう?」

「……もしそうだと言えば、どうするつもりだ?」

「私は、お兄様と離れたくありません」


 学園の寮に入った私は散々苦労した末に、誰かに濡れ衣を着せられて断罪される。その結果が、私やお兄様の死、そしてウィスタリア侯爵家の破滅だ。

 安全な嫁ぎ先を見つけるまでは、お兄様の側を離れるべきではない。

 だから――


「お兄様の側にいさせてください」


 お兄様の青い瞳に訴えかける。

 私の言葉に、彼の瞳が大きく揺れた。


「おまえは……その言葉の意味を理解しているのか?」

「え?」


 言葉の意味?

 ……あぁ、お兄様は学園の方が安全で、自分の側は危険だと思っているんでした。つまり、危険と隣り合わせの日常を甘受する覚悟はあるのか、ということだ。


「もちろん、覚悟もなく、このようなことを申したりはしません」

「……そうか、では学生寮の話はなしだ。おまえには、私の側にいてもらう」


 そういってお兄様は席を立った。

 執務机を迂回して私の前に立つと、その繊細な指先で私の頬に触れた。


「……お兄様?」


 さわさわと、お兄様の指が私の頬を撫で続けている。

 くすぐったくて目を細めれば、お兄様の表情が和らいだ――って、え? 笑った? お兄様が微笑みましたよ。普段は笑わない人なので、ちょっと笑うだけで物凄い破壊力です。


「これから、家臣や親戚がなにか言ってくることもあるだろう。だが、なにがあろうと、おまえのことは私が護る。だから、心配するな」

「はい、お兄様」





 こうして、私の学園行きはなしになった。

 ただ、いまの私はとても未熟だ。

 いつか安全な家に嫁ぐという計画はあるけれど、それまでも自衛をする必要はあるし、お兄様の足を引っ張らないようにしなくてはいけない。


 だから、私はお兄様にお願いして、最高の家庭教師を用意してもらった。王女に礼儀作法を教えたこともあるという伯爵家のご婦人を筆頭に優秀な人達である。

 私はその先生達の下で必死に勉強した。


 礼儀作法は言うに及ばず、ダンスを始めとした教養面も油断なく。同時に、お兄様の補佐が出来るように、当主としての立ち振る舞いや、政治的なことについても学んだ。


 本来なら、私がいくら努力家でも不可能だっただろう。

 でも、私には二十一歳まで生きて得た経験がある。それも、お兄様を蹴落とすための陰謀を画策した経験や、権謀術数に長けた他の貴族と渡り合った経験も、だ。


 もちろん、それらはすべて失敗の経験だ。

 でも、なにも得てこなかった訳じゃない。七年分の失敗の記憶を持つ私が勉強を経て、どうすれば負けなかったのか、どうすれば勝つことが出来たのかという知識を手に入れる。


 そして、お兄様との関係も大きく変化した。以前は食事を一緒に取ることも滅多になかったのに、最近は私が休憩の合間にもときどき顔を出してくれるようになった。


 そうして今日も――

 授業を終えた先生が退出するとほぼ同時、お兄様が部屋を尋ねてきた。私はすぐに席を立って、お兄様を出迎える。


「お兄様、いらっしゃい。いまは執務の時間ではありませんか?」

「ああ、少しシェリルの顔が見たくなって休憩にしたんだ」


 お兄様は甘い笑顔を浮かべて私の頬を撫でた。巻き戻るまえは想像も出来なかったけど、最近のお兄様はスキンシップが激しい。

 いまの私達は、誰が見ても仲のよい兄妹にしか見えないだろう。


「せっかくですから、お茶でもいかがですか?」

「そうだな、そうさせてもらおう」


 私達のやりとりを聞いた侍女がお茶の準備を始めた。それを横目に、大理石のローテーブルを挟んで、お兄様と向かい合わせでソファに腰を下ろす。

 ほどなく、テーブルにお茶菓子が用意されるのを切っ掛けに、お兄様が侍女をちらりと見て、シェリルと私の名前を呼んだ。

 その意図を察した私は手振りで侍女を下がらせる。


「ふっ、ずいぶんと気が利くようになったな」

「お兄様の足を引っ張らないように努力していますから」


 お兄様が、私を命に替えても護ってくれるのは疑いようのない事実。だけど、それでも、私が未熟なままだと、共倒れになる可能性は否定できない。

 優秀なお兄様だけでは無理。

 愚かな私が、何処までお兄様の足を引っ張らないようにするかが破滅回避の鍵だ。

 そのためにも、私は立ち止まる訳にはいかない。


「ところで、人払いをさせた理由ですが……例の件ですか?」

「ああ、察しの通りだ」


 先日、アーニャの身の回りについて調べて欲しいとお願いした。彼女はもうすぐ、ウィスタリア侯爵家からいなくなる。その理由を知るために、身辺調査をお願いしたのだ。


「なにか分かったのですか?」

「彼女の実家が事業に失敗して、ずいぶんと立場をなくしているようだ。このままなら、アーニャは結納金目当ての結婚をすることになるだろうな」


 巻き戻るまえは知らなかった事実。

 それに対して、どうしようかと考えたのは一瞬だった。


「お兄様、アーニャが侍女を辞めずにすむように、上手く手を回していただけませんか?」

「それは……彼女に対する同情心か?」

「いいえ。ただ、ウィスタリア侯爵家のことを考えた結果です」


 問われた私は淡々と答えた。

 アーニャは私が小さい頃からお屋敷で働いている。そこに情がないといえば嘘になる。だけど私には、そうして助けた侍女に裏切られた経験がある。

 いままで仕えてくれていた者が、情勢の変化やお金ですぐに裏切る。それを知っている私は、アーニャのことも手放しで信じることは出来ない。

 だけど――


「私の筆頭侍女が親の借金の形にされたなどという噂が広がればいい恥さらしです。彼女の実家に交渉して、支援と引き換えにアーニャを預かる、というのはいかがでしょう?」


 現状維持で、無償の支援――のように見えるが、アーニャは体のいい人質である。彼女の将来に対する決定権を得ることで、アーニャ自身はもちろん、実家も裏切れないようにする。


「驚いたな、それはシェリルが考えたのかい?」

「はい。問題ありますでしょうか?」

「まぁ……そうだね。信頼とは、強制して得られるものではないのだが……でも、悪くはない案だ。せっかくシェリルが考えたんだ。そのように処理しておこう」


 お兄様が処理してくれるのなら安心だ。

 でも、及第点ではあっても、優良な答えではなかったようだ。どうしたらよかったんだろうと考えていると、ノックがあって、お兄様に仕える執事が部屋に入ってきた。


「アルノルト様、相談したい案がございます」

「分かった。シェリル、すまないが……」

「分かっていますわ。どうぞ、この部屋をお使いください」


 内政の話なら私は邪魔だろう。そう思って席を立つ準備をするが、そのあいだにも二人の話し合いは始まった。どうやら、ウィスタリア侯爵領の穀倉地帯で水害が発生したようだ。


「水害か……報告書を読む限り、それほど大きな被害ではないようだな。だが、放っておくことも出来ぬ。至急、支援の部隊を送るとしよう」


 その話を聞いたとき、私はの記憶に引っかかるものがあった。

 あれは、たしか――


「お兄様、少しお待ちください!」


 翌年にイナゴの被害が出る。

 その事実を思いだした私は思わず首を突っ込んでいた。それに執事が眉をひそめるが、お兄様が「なにか意見があるのかい?」と聞いてくれたことで事無きを得る。


 問題は知る未来をどうやって伝えるか。馬鹿正直に未来を知っているなんて言っても呆れられるだけだ。いまの状況から、私の知る未来へと行き着く根拠を説明する必要がある。


 ……いや、違う。重要なのは、イナゴの被害が出るかもとお兄様に思わせることだ。

 それが事実かどうかはこの際どうでもいい。


「えっと……確認させてください。水害というのは、大雨で川が決壊したのですよね?」

「そうだ。それによって一部の穀倉地帯が被害を受けた」

「では、洪水の被害がなかった部分はいかがですか?」

「そうだな、実のところ雨自身による水害はない。運悪く川が決壊したことで水害が発生したが、他は例年より成長しているレベルだ」

「……やっぱりですか」


 ――と、私は意識して顔を曇らせた。


「……やっぱり、とはどういうことだ? なにか心配事があるのかい?」

「それは、その……私も、文献を目にしただけですので」

「それでも、言うだけ言ってみて欲しい」


 促された私は、実は――と口を開く。雨がよく降り、雑草がとてもよく生長した翌年は、イナゴの群れが発生しやすいという話を読んだ、と。


「イナゴ……たしかに、私も聞いたことがある。すぐに調査を!」

「かしこまりました」



 こうして、水害に対する対策と共に、イナゴの被害が出る予兆を調べることになり――


「シェリル、おまえの言った通り、イナゴ大量発生の予兆が見つかったそうだ。いまから可能な限りの対策を講じれば、被害は最小限に抑えられるだろう。よくやってくれた」


 私は巻き戻るまえとは異なる結果を引き出すことに成功した。その後も、私は家庭教師から様々なことを学びながら、ときには未来の記憶を使ってお兄様に助言する日々を過ごした。


 こうして二年が過ぎ、私は十六歳になった。

 社交界デビューデビュタントを目前に、お兄様の執務室を訪ねた。お兄様は優しく私を出迎えてくれて、すぐにお茶の用意をしてくれた。

 私とお兄様はローテーブルを挟んで向き合った。


「アルノルトお兄様にお願いがあります」

「シェリルが折り入ってお願いとは珍しいね。一体、どんなお願いなんだい?」


 お兄様は今日も凜々しいお姿で、ティーカップを片手に首を傾げた。


「はい。私も十六になり、デビュタントが出来る歳になりました。それで、私のエスコート相手を、お兄様に――見繕って欲しいのです」


 ――刹那、パキンと音が前方で鳴ったかと思えば、ローテーブルの上に落ちたティーカップが砕け散った。どうして――と視線を向けると、お兄様の指に砕けた取っ手だけが残っている。ティーカップの取っ手が砕けたことで、カップがテーブルの上に落ちたようだ。


「――お兄様、大丈夫ですか!?」


 私の声を切っ掛けに、侍女がすぐにテーブルを拭く。テーブルが大きなこともあって、幸い私やお兄様には被害が及ばなかったようだ。


 よかった……けど、びっくりしたぁ。取っ手が砕けるなんてことあるんだね。もしかして、もとからヒビが入ってたのかな?


「――シェリル、確認させて欲しい」


 不意に、ここ最近は聞いたことのないような、感情を押し殺したような声が響いた。私は思わず驚いて、お兄様の顔を見つめる。その目にはわずかに影が落ちていた。


「な、なにをですか、お兄様?」

「キミは私に、エスコート役を見繕って欲しいと、そう言ったのか?」

「は、はい。そう言ったつもりですが?」

「なぜだ?」

「えっと、それは……もうすぐデビュタントだから?」


 巻き戻るまえの私は、ちゃんとしたデビュタントをこなすことが出来なかった。

 お兄様が渋ったせいで、その理由はおそらく、私が社交界デビューを果たせば、ウィスタリア侯爵家を狙う者達の標的になると思ったからだろう。


 でも、今回の私は元々お兄様の味方として狙われている。であれば、大々的にデビュタントを果たしたとしても、いままで以上に狙われることはない。

 むしろ、無難な嫁ぎ先を探すためにも、デビュタントを果たすことは必要不可欠だ。


「私が聞いているのは、なぜ私に頼まないのか、ということだ」

「それは、だって……お兄様の迷惑ではありませんか?」


 パーティーのエスコート役は本来、婚約者か恋人、あるいは家族が務める役割だ。その点、お兄様は家族だけど、世間一般から見ると血の繋がらない兄でもある。


 私のエスコートを務めると、お兄様の婚期が遠のくかも知れない。巻き戻るまえも結婚していなかったし、私のせいで婚期が遠のくのは可哀想だ。


 そんなことを考えていると、いつの間にかお兄様の顔が目の前にあった。いつの間にか席を立ったお兄様は、私が座るソファの背もたれに手を突き、私の顔を覗き込んでいる。


「お兄様?」

「シェリルはつまり、私の心配をしているんだね?」

「はい、そうですけど……?」

「ならば心配いらない。おまえのエスコート役は私が務めよう」

「ですが――」

「シェリル、心配いらないと言ったはずだ」


 ぴしゃりと反論を封じられる。

 だけどまぁ、お兄様がかまわないのなら、私が断る理由もない。


「分かりました。私も、お兄様がエスコートをしてくれるのなら安心ですから」


 私が微笑むと、お兄様は私の耳に唇を押し当て「良い子だ」と囁いた。耳に触れる唇の感覚と、甘い囁き声にびくりと身体が震える。

 びっくりした私をよそに、お兄様はすぐに身を離した。


「シェリルのドレスを用意しよう。最高のデザイナーを招かなくてはな」




 こうして、あれよあれよという間に準備は進み、パーティー当日がやってきた。なんと、私のデビュタントは、王族まで参加する一大パーティーとなった。

 巻き戻るまえはろくなデビュタントをさせてもらえなかったのにね。


 ともかく、私はドレスに着替えるところである。

 お兄様が用意した深みのある青を基調としたドレス。エスコート役であるお兄様の瞳と同じ色であるそのドレスは、一流の裁縫師による刺繍が施されている。

 髪はツインテールに纏め、髪飾りにもお兄様の瞳と同じ色の宝石があしらわれている。


 文句の付けようのない素敵なデザインだけど、お兄様と私が恋仲と誤解されないか心配だ。いくら兄妹とはいえ、実際には血が繋がっていないのだから。

 なんてことを考えていたらお兄様が迎えに来た。


「シェリル、準備は……完璧のようだな。とても綺麗だよ」


 お兄様は当たり前のように私を抱き寄せ、頬にそっと唇を落とした。


「ありがとうございます、お兄様。お兄様もとても素敵ですよ」


 ビシッと決めた礼服に燦然と輝くアメシストは、私の瞳と同じ色の宝石だ。

 ここまでくると、誤解を煽っているとしか思えない。


 もしかして……若き侯爵の夫人の地位を狙う者達や、逆に正当な血筋である私の入り婿となって、侯爵の地位を狙う者達に対する牽制、とかなのかな?

 そんなことを考えていると、お兄様が手を差し伸べてきた。


「さぁ、お手をどうぞ、お嬢様」

「光栄です、お兄様」


 お兄様の手を取ってパーティー会場へと足を運ぶ。実のところ、養子である兄が当主になったことで、私と兄の確執を疑う者は少なからずいた。

 そういった者達が、私達が揃って登場したことでざわめいた。


 もしかしたら、お兄様の弱点が私であると認識した者もいるかも知れない。

 でも関係ない。

 最初から、私はお兄様の弱点だった。

 そして、弱点で居続けないための努力も続けている。


 問題は、誰が敵で、誰が味方かいまの私には分からないことだ。

 裏切られすぎて、お兄様以外は全員が敵に見える。


 それでも、敵か味方を判別するために、お兄様と共に参加者達に挨拶を交わしていく。それからほどなく、私はユリウス王太子殿下とお目通りした。


「お目に掛かれて光栄です。私はシェリル・ウィスタリアでございます」


 この二年、血の滲むような努力を続けて身に付けた完璧なカーテシー。その所作をまえに、ユリウス王太子殿下が軽く目を見張った。


「噂は宛てにならないと言うことか。どうだ、俺と一曲踊らないか?」


 デビュタントのファーストダンスに誘われた。

 これは言うまでもなく、とんでもなく光栄なことである。


 しかも、ユリウス王太子殿下は、お兄様と交友関係にある人物。

 巻き戻るまえ、私の身代わりになったときのお兄様と、それをまえにしたユリウス王太子殿下のやりとりを見ても、二人は信頼関係を気付いているように思えた。

 つまり、私やお兄様にとって有益な相手と言うことだ。


 ここで断る理由はないと、右手を差し出そうとする。

 その手を、お兄様に摑まれた。


「申し訳ありませんが、シェリルは私と踊る先約がございます」

「……そうか、それは残念だ。ではシェリル、またの機会にな」


 彼はあっさりと引き下がった。

 その去り際は優雅で、恥を掻かされたとも思っていないようだ。


 私はその後ろ姿を見送る。そんな約束はしていません――なんて、言って引き止めるつもりはない。いくら私だって、お兄様の言葉が方便であることくらいは分かっている。

 お兄様は、私とユリウス王太子殿下が踊ることを快く思っていないのだ。


 でも、不思議だね。

 ユリウス王太子殿下が私を目に掛けている――なんて噂が広まれば、お兄様にとってもやりやすくなるはずなのに、どうして断ったんだろう?

 ……待って。

 もしかして、お兄様がユリウス王太子殿下と仲良くしていたのは見せかけ?


 そんな風に考えていると、お兄様が手を差し出してきた。


「シェリル、私と踊ってくれるか?」

「もちろんですわ、お兄様」


 私は笑顔で応じて、ダンスホールまでエスコートしてもらう。

 そうして、お兄様のリードに合わせて踊り始めた。優雅に、それでいて大胆に、互いに身を寄せ合ってステップを踏む。私は更に身を寄せて、お兄様に囁きかけた。


「お兄様、もしや、ユリウス王太子殿下は悪い方なのですか?」

「……そうだな、悪い虫には違いない」


 くるっとターンしたお兄様が憮然と言い放った。

 まさかの虫けら呼ばわり。仲良く振る舞っておきながら、腹の中ではそんな風に思っていたなんて、想像もしていませんでした。

 さすがお兄様です。


 私はお兄様のリードに身をあずけ、いつまでも踊り続けた。

 そう、いつまでも――である。一曲だけでなく、二曲、三曲と続けて踊る。熱烈な恋人同士だと誤解されても仕方のない行為だけど、きっとなにか理由があるのだろう。

 私はもう二度と、お兄様を疑ったりしません!

 

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二度とお義兄様を疑いません! 緋色の雨 @tsukigase_rain

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