第30話色のない血、人ならざる善の道

「また随分とみんなから嫌われたみたいだな、教師の間でも噂されてたぞ」


 先ほど確認した物理教室に本を仕舞う磯崎先生を眺めながら貰ったカロリーメイトを齧っているとドクターペッパーを両手に持ち、1本手渡してくる。

 そういえば物理の先生だったなぁ……持ってた本もブラックホールや逆因果律、多世界解釈と小難しい物ばかりだったし午後の準備に来たのだろう。


「まぁ、そうでしょうね。停学や退学ですか?」


 教師と仲が良い生徒から情報が入ってもおかしくは無いし、それぐらいは驚くことじゃない。


「大抵……愚かな自慢話をした手合いは広めた相手へ憎悪を向けたり教師に救いを求めるものだよ」


 窓際に寄りかかりながらドクペを飲んでいた磯崎先生は人差し指を上げ、


「なのに君ときたら受け入れ、まるで全て予想してた通りに物語が進んでいるようにさえ思わせる」


 まるで放課後に出来の悪い生徒へ教えているような、面倒と優しさが混じった眼差しで指摘してきた。

 誰も気にしない些細なことだろうと気を緩めていたが……この人、鋭いな。


「すぐに諦めて自暴自棄になる人だっていると思いますけどね」


 そう、すぐに否定するも「そか、そか」と最初から聞く耳すら持ってないように適当に返してくる。

 本人が否定しているんだぞ、少しは信じてもいいと思うだが……自分の考えに盲信にも等しい自信を持っているタイプか。

 恐らくまだ嫌われようとした理由までは判明してないが、嘘を吐いたことは悟られたな。


「色々陰口言われているのだろう、大丈夫か?」

「悪口ぐらい慣れてますよ。言葉は所詮言葉、それで身体が傷つく訳じゃないですし」


 これぐらいことは小中で腐るほど弄られている、全て気づかないフリをして聞こえないフリをすればなんて事ない。


「言葉遊びは苦手だが……涙は血の一種だ。だから人間は見えない言葉のナイフで刺されたら色の無い血を流すぞ」

「これが泣いてるように見えるんですか?」


 片桐に嘘をついた時から感じていた唐突な息苦しさを……いや、意識しないようにしていただけで朝から段々強くなっていた息苦しさを取っ払いながら笑って答えた。


「私は同じ言葉でも人は平等に傷つき、ただ感情という名の傷を隠すか隠さないかの違いしか無いとそう思っている」


 笑った、笑って答えたはずなのに、


「だから泣いている生徒を『それぐらい』と笑って馬鹿にする生徒も叱らなったことなどない」


 まるで見えていない、聞こえていないかのようにそれでもまだ磯崎先生は話を続けた。


「本当に自分が平気だと勘違いしているなら、それは新しい傷に気付かないほど既に血まみれで傷だらけで腐っているんだ」


 そして俺は理解した――もはや何言っても聞く耳を持っていないのだと。

 自分が擦り切れて傷ついている事なんて言われなくても小学生のあの朝から知っている。

 普通の学校生活を送るはずだったのに、片桐のために嫌われて一体何の得があるんだと叫びたい気持ちもある。

 だが、それで嘘がバレるリスクを見逃してまで自分の評判を上げて報われたいと思うのは道徳的に違うだろう。

 この人もどうゆう訳がやけに優しくしてくる、十分にバレる脅威がある危険人物だ。ならば、そうなる前に俺のやり方で排除するまで、


「はぁ……口うるさい説教はそれで終わりですか? そんなのだからいつまでも独身——」


 結婚指輪が指にない事を確認しながら喋っている途中、何かの衝撃が加わったことでまた血の味が口の中に広がる。

 頭を押さえながら原因を探るように視線を上げるとシュワシュワ、と威嚇するようにドクペが揺れていた。


「なるほど、君が何か隠したい時は嫌な奴になって矛先を変えさせる訳か」


 体罰だ、間違いなくこれは体罰、そう恨めしそうに睨んでるのに飛び散るほこりの方が興味あるように気にしてない。

 見たところ20代後半、四捨五入したら30代だから結婚の話をしたら効くかな、と思ったがまるで効いてない。


「残念ながら私は出来ないのではなくしない方だ。しかし、どいつもこいつもマウント取ってきて実に不愉快だ、二度とその話題で機嫌を損ねようとするな」


 違った、よく見ると先ほどまで落ち着いていた指がせわしなく壁に叩きつけてられて物凄く苛立ってらっしゃる。


「はぁ……そこまで完璧に隠して君に何の得がある?」

「別に、得なんか無いですよ」


 廊下の隅を眺めながらぶっきらぼうに言うと、磯崎先生は「ふむ」と小さい声を出して一間を開ける。


「大人や社会は偽善ではなく善であるべきと言うが……君は愚直に善を、それもわざわざ得られる得を排除して実行している訳か」


 馬鹿だな、とでも言いたげに眺めてきていた磯崎先生は突然俺の頬をつねってきた。


「大人も社会も言わないけど、この世に露見している善なんて一つ残らず全て偽善だ」


 そして緩めるどころか、一切配慮することなく磯崎先生はどんどん力を強めながら言葉を続け、


「だが偽善でいい、偽善が普通だ。賛美も金も貰わず隠し通す善人が貰える物なんて『悪人』のレッテルと罵詈雑言だけだ。それでもその地獄の道を歩み続ける奴はもはや人じゃない……化け物だ」

「――っいた」


 力を緩めるのではなく、痛くなるように磯崎先生はスライドさせて頬から外した。


「もっと自分を甘やかせ、どうせ隠し通したその先にハッピーエンドなどありはしないんだから」

「そんなの……分からないでしょ」


 隣の芝生は青く見えるように、選ばなかった選択が良い風に見えるだけで俺の選択が最善策という可能性も十分にあるので口答えをした。


「分かるさ、善意だろうと悪意だろうと自己完結した意思っていうのは相手にとって間違い・迷惑になっていたとしても気づけない。故に改善点が有ったとしても直せない、それで百点満点の道を進めると思う方が可笑しいだろ?」


 しかし、すぐ返って来た的確な指摘に俺は何も言い返せなかった。

 確かに根本的な所はあり得ないにしても、頂上付近に何か見落とした僅かな誤算があって想定外の動きになっている可能性もある。


 しばらく顎に手を乗せながら考えていると「っうぅ」と唸り声が聞こえると磯崎先生が疲れた様に手や身体を伸ばし、


「まぁ……私は粗さがしするだけで改善点や代理案を考えるタイプじゃない。君がそのまま考え抜いた結果、何の道を進もうとその選択を尊重するよ」


 それだけ告げると俺の背中をもう一度強く叩いて物理教室の中へと入っていた。

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