金海に浮かぶ手

もうエリ

第1話

「ミダス王の手の伝説を知ってますか?」


海外旅行でトルコに訪れた私に、地元の飲み屋で同席した男はそんな話を振ってきた。


やたらと食べ物や飲み物を奢ってくれる羽振りのよい男だった。


知らないという私に、男は嬉々としてその伝説とやらを教えてくれた。


なんでも昔の王様で、触れたもの全てを金に変えてしまう手を神から贈られた人がいたそうだ。


でもその王様は手のせいで食事にも困り、結局その祝福を手放し改心するという話だ。


身に過ぎた贅沢を望むものではないという教訓めいた話なんだなと私は理解した。


「でもこの話、一部の人達には違う風に伝わってるんですよ」


男は怪しい笑みを浮かべながら続けた。


「本当は王が祝福を手放そうとしたところ、部下たちがそれを許さず王の手を切り落としてしまったというんです」


「それは物騒な話だな」


私は驚きとともに奢ってもらった酒をゴクリと飲み干した。


「永遠に富を生み出し続けるものを捨てようなんて愚行、見逃す方がおかしいでしょう。そして切られた手からは変わらず金が生み出され、部下達は幸せに暮らしましたとさ、ということで話は終わります」


そう言ってのける男の指にはいくつもの指輪が煌めている。


「手を切り落とされた王様はどうなったんだ?」


私がそう尋ねると、男は待ってましたというように身を乗り出し声を潜めながら答えた。


「気になりますか? ここではなんですし……私の家で続きをお教えしますよ」


男の招待に私は一も二もなく応じた。


招かれた男の家はまるで宮殿かというほど豪華だった。


案内されるがまま歩を進める私を、一つの金の彫像が迎える。


その彫像は等身大の人間をかたどっていて、そして腕は途中から先がなかった。


「これが、そのミダス王です」


古代の衣服をまとい絶望の表情を浮かべた彫像を指して、男は目を細めた。


「……まさか。冗談がうまい」


私が笑っておどけると、男は気分を害したのかむっとした様子で、ミダスの手も所蔵しているのですが見ますか? とうそぶいた、


私に今更それを拒むことはできなかった。


手は金の部屋というところに保管してあるらしい。


男が部屋の扉を開け光を灯すと、床から壁そして天井まで一面の黄金の海が目の前に広がった。


そして部屋の中央、台座の上には確かに一そろいの金の手が鎮座している。


それは一種神々しいとまでいえる光景だった。


フラフラと光に誘われるように部屋の中に足を進めると、背後で扉が閉まる音がした。


「何をするんです! 開けてください!」


私は慌てて扉を開けようとするが、鍵がかかっているようでビクともしない。


その時、背後で何かが這うような音が聞こえた。


振り返ると、台座の上にあったはずの手はいつの間にか床に落ち、黄金の海をかき分けながらこちらに向かってくるではないか。


「ひっ」


私は思わず声を上げた。


「……話の続きをしましょう」


扉の向こうで男がとうとうと言葉を紡ぐ。


「王は手を切り落とされた時、慌ててそれを拾い上げようとしました。そして神からの祝福を受けたもまたとしたのです。まるで逆再生のように。王は驚き体勢を崩しました。結果、手はうまく元の位置に収まることができず、倒れ込んだ王の体に触れる形になってしまいました。王は慌てて立ち上がりましたが、そのまま金の彫像に成り果てました。手はしばらくの間王の体を這った後、動きを止めました」


ズリズリと、こちらに這い近づいてくる両の手。


追い詰められた私は、この時になってようやく部屋の反対側へ回り込もうとしたが時既に遅く、靴にミダスの手が触れてしまった。


瞬間、黄金色の光が瞬き靴が金に変わる。


「私たちはそれから手を利用し富を築きました。切り落とされても手は機能し、たくさんの金を生み出しました。その過程で、ミダスの手が不思議な習性を持っていることが分かったのです。手は年に一度、王から離れてしまった日に勝手に動き出します。そして傍にいる人間に触れるまで動きを止めようとしないのです」


私は靴を掴んでいる手を蹴飛ばそうとしたが、手は器用に靴を掴んで離れない。


そのうちにもう一つの手が私の足に触れてしまった。


「ここまで話せばもうお分かりですね。今日がその日、あなたは生贄なのです。なあに、後のことは気にしないでください。金になったあなたは私が有効に活用してあげますとも」


私の衣服が金に変わり、そしてそれは私の肉体へと伝播していく。


体が固着したように動かなくなっていき、視界さえも金色に染まっていく中、私はもう悲鳴を上げることもできなかった。


「それではよい夜を」


男のその言葉は、もう私には届かなかった。


部屋の中には金色に輝く彫像が一つ。


ミダスの手はその傍に、主を見つけたように静かに寄り添っていた。

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