27:届かないSOS


「ハア……ハアッ、ハア……」


 本当に心臓がちぎれるのではないかと思ったのは、生まれて初めてだ。

 道端で絡んできた不良から逃げ出した時だって、ここまで本気で走ってはいなかった気がする。

 校舎に戻って西階段を二段飛ばしで駆け上がった俺は、そのまま三階の女子トイレの個室に隠れていた。


 和式だし床なんて汚いし、普段なら絶対にこんなことはしない。

 しないのだが、今の俺にはそんな衛生面を気に掛けているだけの余裕はなかったので、壁に凭れるように床に座り込んでいた。


 今しがたまで聞こえていた怒号は遠ざかって、足音も聞こえなくなっている。

 恐らくは、俺の姿を見失ってくれたのだろう。


『財王さんは撒いたけど、すぐには動けそうにない。カルアちゃんも見つからないように隠れといて』


 念のためにと、カルアちゃんにも危険を知らせておく。

 しかし、体育館で送ったメッセージ以降、彼女からの既読はつかないままだった。


(カルアちゃん、大丈夫かな……)


 不安はあるが、俺が見つかってしまっては元も子もない。

 ライトをつけて、通話も繋いだまま使用を続けていたのだ。元々の充電が少なくて、電源が落ちてしまったのかもしれない。

 スマホ自体をどこかでうっかり落としてしまった可能性だってあるだろう。


 いずれにしても、合流する場所は話し合うまでもなくロウソク部屋だ。

 残る時間は短いが、いつでも走れるだけの準備はしておかなければならない。


(……そうだ)


 周囲に人の気配が無いことを確認すると、俺はスマホの画面を操作していく。

 通話画面を開いた俺は、110と通話のボタンをタップした。何度かコール音がしてから、通話口の向こうで人の声が聞こえる。


『はい、こちら○×署です。事件ですか? 事故ですか?』


「あっ、あの……! 俺、MyTubeで配信をしてるユージって言います」


 通報は後でと話し合っていたが、警察を呼んでおく必要があるのではないかと思っていた。

 無事にカルアちゃんの人形を燃やして願いを叶えてもらえたとしても、状況次第では怒り狂った財王さんによる殺戮が始まってしまうかもしれない。

 そうなった時、頼りになるのはやはり警察だろう。


『MyTube? ああ、ネットのやつですね。それで、事件ですか? 事故ですか?』


「ええと、事件です。事件! 廃校で都市伝説を試そうとしてたんですけど、作り話だと思ってたらそれが本物で、俺たち呪いを受けてしまって……」


 俺は焦って状況を説明するのだが、聞こえてきたのは隠そうともしない大きな溜め息だ。


『あのね、これは警察の番号。MyTuberは俺も好きだけどね、何でもかんでも動画にすりゃあいいってもんじゃないんだよ。こういうの、本当に困ってる人の迷惑になるのわかってる?』


「あの、イタズラじゃないです……! 人が死んでて、俺だってこのままじゃ呪い殺されるかもしれなくて……!」


『ハイハイ。悪いけど、警察は呪いは専門外なんだよ。呪いなら神社とか、あ~、なんだ? とにかく、そういう専門のところに頼みなさい。いいね。次やったら逮捕するよ』


「ちょ、待ってください! 俺の話を……!」


 電話口の男性は、一方的に話を遮るとそのまま通話を切ってしまった。

 ツーツーというビジートーンが、耳元で虚しく鳴り響き続けている。


(ちくしょう! 呪いだなんて話をしたのがいけなかったのか、もっと落ち着いて殺人鬼がいるとでも言っとけば……)


 警察に電話をかけることなんてないので、知らず知らずのうちに気持ちが焦っていたのだろう。

 すべてを馬鹿正直に説明する必要などなかったのに、そう気づいても後の祭りだ。


「…………それなら、別の手段を取るまでだ」


 だが、そこで諦めるわけにはいかない。続いて表示したのは、いつも配信で使っている画面だ。

 スマホをインカメラにして、俺は自分のチャンネルで生配信を開始した。もちろん、できる限り声は潜めている。


「リスナーのみんな、こんばんは。予告なしの配信で悪いんだけど、緊急事態で助けてほしい」



『あれ、ユージ配信してるじゃん』


『ばんわ~』


『緊急事態を察知しました』


『なんか画質悪いね。外?』


『声聞こえづらい』



「俺さ、オフ企画をやるって話したじゃん? その撮影に来てるんだけど、ちょっとヤバいことになってて……誰かに通報してほしいんだよね」



『通報って』


『おまわりさんこいつです』


『大きい声で喋って』


『自分で通報したら良くない?』



 急な配信ではあるが、通知で気がついたらしい視聴者が配信を観てくれているようだ。

 百人に満たないくらいの人数が集まっているが、俺の訴えを深刻に受け止めているコメントは見られない。


「もちろん自分でも通報したよ。だけど取り合ってもらえなかったっていうか……だからみんなから通報してもらえたら、警察も動いてくれると思うんだよね」



『まずは君の持っているその機械で110を押してごらん』


『迫真の演技乙』


『ユージ芸風変わった?』


『そういうのいいからゲーム配信して』



 できる限り下手に出てお願いをしてみるが、やはり真面目な話だと思ってはもらえないようだ。

 配信ができている時点で、余裕があると思われているのかもしれない。


「いや、マジなんだって……! 死人も出てんだよ、映像なら後で見せるから頼むよ……!」



『死人って……マジ?』


『え、もしかしてホントにヤバイの?』


『通報とかしたことないんだけど』


『いやいや、演出の一環でしょ』



 少しずつではあるが、異様な雰囲気を感じ取ってくれた人も出始める。

 この調子なら一人二人は通報をしてくれるのではないかと期待したのだが、ひとつのコメントで空気が一転してしまった。



『あ~、オフコラボの告知ってことか』


『騙されるトコだった』


『ふざけんな、俺の心配を返せ』


『炎上商法狙い?』


『ユージ好きだったけど失望したわ』



 普段は俺の配信を観て慕ってくれていたリスナーたちだったが、こんなにも信頼が無かったというのか。

 次々と流れていく俺を責めるコメントの波に、俺は胸の内が一気に冷えていく思いがした。


 そんな中、物音がしたような気がして慌てて配信を切る。

 財王さんが戻ってきたのかと思ったが、どうやら気のせいだったようだ。息を殺してみても、それ以上音が聞こえるようなことはなかった。


 警察は頼れない。リスナーの助けも望めない。

 俺たちは自分の力だけで、この状況を乗り切らなければならないのだ。


「……よし」


 意を決した俺は、立ち上がってトイレの個室から出る。

 きっとカルアちゃんが、俺のことを待ってる。一刻も早く、あの教室に向かわなければ。


「うわっ!?」


 だが、そう思って踏み出した俺の足は、何かによって滑ってしまう。

 転ぶことはどうにか免れたが、危うく股関節を痛めるところだった。一体何を踏んだというのだ。


 足元を見た俺の視界には、黒い水溜まりのようなものが見える。

 それをライトで照らしてみると、黒ではなく赤い色も混じっているように思えた。


「これって……もしかして、血か?」


 血液と思われるその液体は、隣の個室の隙間から溢れ出ているようだ。

 少し迷ったが、気になったものをそのままにもしておけないのは配信者のさがなのか。


 扉を開けようとしてみるが、何かが引っ掛かっているのかビクともしない。目一杯力を入れてみても同様だった。

 そこで俺は、元いた個室に戻っていく。

 水を流すレバーのついた、太い管の部分を踏み台にして隣の個室の中を覗いてみようと考えたのだ。


 足場は不安定だが、慎重につま先立ちをすることで、どうにか中を覗き見ることができた。

 ここは恐らく、掃除用具入れとして使われていた場所なのだろう。


 そこにあったのは掃除用の道具ではなく、大きな人形のようにも見える……人間。

 首元を真一文字に切り裂かれ、大きく開いた傷口から流れ落ちる血液が、時間をかけて扉の外へと流れ出したようだった。


 俺が驚いたのは、そこで人が死んでいたからではない。

 流れ出る血液を目にした時点で、そんな予感はしていたからだ。


 問題は、その人物が誰であるのか……だ。



「――……カルア、ちゃん……?」

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