終わりの始まり

死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい…

 ノートには小さな文字でその言葉がならんでいる。

 深夜、水川涙子は自室で泣いていた。涙が涙子の頬をつたい、顎をつたい、机の上のノートを濡らした。そこには、ここ数週間彼女を苦しめて止まない感情が、簡潔に四文字で記されていた。

 涙と一緒に鼻水も出たし、しゃくりあげずに泣くことは出来なかった。目の下から、濡れてないところは無く、顔中が痒かった。

 ノートを濡らしているのが何なのかすら分からなかったし、前もよく見えなかった。



 彼女はぐしゃぐしゃの顔のまま動かなかった。拭くことも、掻くこともしなかった。

 彼女は自分が泣き疲れて寝てしまうことが分かっていた。それでも彼女は何もしなかった。

 しばらくすると、彼女の部屋は沈黙に包まれた。しゃくりあげたり、鼻をすすったりする音は全く聞こえない。

チ、チ、チ、チ、チ…

部屋の時計の僅かな音だけが、泣き寝入った彼女に降りかかるだけ。夜の静けさが彼女を包んでいた。

チ、チ、チ、チ、チ…

何も音をたてなかった。

チ、チ、チ、チ、チ…

夜は彼女を浅い夢へと誘い込み、優しく手招きをした。

チ、チ、チ、チ、チ…

時計さえも止まってしまいそうなほど…

チ、チ、チ、チ…

静かだった。

カツン。

もう一度、カツン

涙子は目を開けた。部屋の窓に何かが当たって音を立てているのだ。彼女はまだ自分が夢の中にいるような感覚に陥りながらも、机のす

ぐ左手にある窓のカーテンを上げた。

暗闇の中に、ぼんやりとした白いもの。

それが窓ガラスを叩いて、涙子を浅い眠りから呼び戻したのだ。

その動きが止まった時、それが何か分かった。

人の、手だ。

涙子は十階建てマンションの五階に住んでいる。地上から手を伸ばして届くわけがない。マンションは内廊下で、涙子が住むのは角部屋。

マンションの廊下の端についている窓と、涙子自身の部屋の窓同士の一辺が垂直に接している。防犯の面で良くないと、涙子の母も言っていた。

「人が入ってこれちゃうでしょ。だからここに背の高い本棚を置きなさい。」

 涙子は言われた通り、背の高い本棚を設置した。確かにその窓から、人は入ってこれてしまう。彼女は自分の体験で、出られることも入れることも分かっていた。

 

 どうやらそれは相手も分かっていたみたいだった。手の主は廊下に立って、窓から来るようにジェスチャーしていた。

 顔にはハロウィンの仮装大会で使えそうなゴースト風の仮面をつけ、全身の黒いローブで包んでいる。見えているのは肘から先だけだ。夜なのに二十五度を超えるような夏の盛りだが、暑くないのだろうか。

 涙子は不審者と言っても構わない、得体のしれないものを前にして、冷静に突っ込んでいる自分が可笑しかった。

 もう一度、不思議な来訪者を見る。叫んで寝室で寝ている母親を呼んでもいいのだ。スマホで一一〇番してもいいのだ。それでも涙子は招きに応じようと思った。

 手招きをする来訪者は、涙子の部屋の位置と、涙子が誰かの助けを求めないことを、知っていたのだろう。そして涙子のこと自体も。

 涙子の第六感が行くべきだと叫んでいた。

 そこには涙子の、かすかな期待も含まれていた。

 何か変わるかもしれない。

 廊下に出た瞬間に殺されてしまうかもだけれど、涙子は構わなかった。

 何故なら、涙子がノートに書いたのは、「死にたい」の四文字なのだから。

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