第49話 パンデモニウム㉕
透はボロボロの身体を引き摺るようにしながら、洞窟のような隧道の中を進んでいた。先程、闇虚が激昂して自分の身体のことなど全く顧みずに次第に暴れまわったため、体中の至る所に打撲や裂傷が出来ていた。声帯が張り裂けるほどの勢いで叫びまわっていたため、喉の奥が裂けて、血が滲んでいるのも分かった。唾を飲み込むたびに、喉に穴が開くような激痛が走った。
「透、早く行ってくれ。」
彼の後ろを進んでいたチェザーレが苛ついた様子で言った。当然と言えば当然だが、彼は未だ、透と闇虚に対する警戒心が解けないようであった。
「すぐには回復しそうにない。先に行っていいよ。」
透は口内の激痛に耐えながら、舌足らずな子供のような口調で答えた。どうやら喉の奥だけでなく、舌も負傷しているようであった。闇虚が怒りに任せて暴走していた時に、勢い余って何度か舌を噛んでしまったのであろう。
「お前に背を向けるのは絶対に嫌だ。早く行ってくれ。」
「へいへい……」
チェザーレは透の提案を一蹴した。やはり、先程闇虚にされたことが余程応えたのであろう。透は首を竦めると、半ば無理矢理、速足で歩いた。不思議と無理をした方が、身体の回復は早いような気がした。
「でも、方向はこっちで本当にいいのか?」
いつ果てるとも知れない、一本道の隧道を進みながら、透は誰に言う訳でもなく呟いた。全く代り映えの無い一本道を、彼等は既に30分以上歩いていた。照明こそあるものの、それ以外は岩壁が剥き出しの洞窟そのもので、同じような景色が延々と続いていた。時間が経つにつれて、自分達が本当に前に進めているのか、ひょっとして同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという不安感が、透の中で増大していった。
「他のトンネルは全て行き止まりだった。だとすれば、この道しかない。」
ペーターが振り返りもせずに言った。
「退路はありません。だが進む先もありません。なんてことが無いように祈るばかりだね。」
チェザーレが、どこか本気を滲ませたような口調で言った。実際、透も半分くらい「ひょっとしてもうこの洞窟から出ることは出来ないのでは」と思い始めていた。
「さて、どうだろうな。本当にただの行き止まりであれば、こんな照明をわざわざ設置するとも思えんが。」
「言われてみれば確かに、この洞窟は人の手で掘削されたものだ。やっぱり、何らかの仕掛けがあるのか?」
チェザーレはペーターの言葉に頷くと、改めて隧道内を見渡した。岩壁は明らかに自然の状態ではなく、この隧道が削岩機によって掘削されたものであることを示している。
「……微かだけど、磯の香りがするな。海の方に続いているのか?」
隧道の奥の暗闇の先から、透の鼻腔の奥をくすぐる懐かしい臭いが風に乗って運ばれてきた。
「僅かだが風の流れがある。出口は近いみたいだな。」
チェザーレも、どこかほっとしたような様子でそう言った。
「どうだかな。どうも妙な感じだ。」
安堵するチェザーレ達をよそに、ペーターは微かに警戒心を漂わせながらそう言った。
「どういう意味だ?」
「海の匂いに、微かだが血と臓物の臭いが混じっている。」
訝るチェザーレに、ペーターは目を細めながらそう言った。
「そう言えば、お前は以前、海で子供を大量虐殺したんだっけな? そういう臭いには敏感……」
ペーターの警戒心を皮肉るチェザーレの言葉を、ペーターが遮った。
「それにこの地面。誰かが何度も通ったような跡が残っている。」
そう言われて、透が足元を見てみると、確かに岩塊が剥き出しの地面には、何者かが何度も踏みしめたかのような摩耗の跡があった。
「トンネルを掘った作業員の足跡とか?」
「現在のトンネルの掘削はほぼ全て機械化されている。照明の設置でも、こんなに足跡が残ることなんてない。」
合理的な解釈をしようとする透を、今度はチェザーレが制した。彼も、ペーターの警戒心を本気にし始めたようであった。
「……」
チェザーレもペーターも、押し黙った。確かにペーターの言う通り、この隧道には何者かの痕跡が残っている。そして、前方からは血の臭い――。警戒するに越したことは無かった。
「でも妙じゃないか? この足跡のような摩耗、明らかに最近のものじゃないぞ? 俺達がここに連れ込まれたのはつい数日前のことだろう? じゃあ一体誰が?」
足跡を眺めていた透は、根本的な疑問にぶつかった。足元の摩耗痕は、明らかにここ数日で出来たものではなかった。
「俺達の先客がいるのかもな。」
ペーターが、目の前の闇を見つめながらそう呟いた。
「先客って、俺達が連れて来られるより先に、ここに別の誰かがいたとでも?」
「ありうる話だ。確証は無いが、この足跡、どうも人間のものに見えない。」
訝し気にペーターを見る透に対し、チェザーレもペーターに同調するように、不穏な言葉を口にした。
「島の怪物、とか? そんな話……」
あり得ない、と言いかけて、透は口を噤んだ。このパンデモニウムにやって来てからの出来事は、どれもこれも想像を超えたものばかりであった。今更何が出て来ても、おかしなことなど何も無いのだ。
「ま、何にせよ俺達には進む道しかないんだがな。」
飄々とした調子でそう言いながら、ペーターは歩を進めた。
先に進むにつれて、透やチェザーレにも、ペーターの言っていた異臭がはっきりと分かるようになっていた。魚の死骸を放置した時の腐敗臭を何倍にも凝縮した様な、文字通り鼻を突く臭いであった。
「あれは……?」
透は、隧道の先の壁面に異様なものを見つけた。
「へぇ、中々の蒐集品だな。」
ペーターも同じものを見つけたのであろう。彼は嘲笑うように、自分達の眼前に広がる光景を評した。
透達の眼前に広がる隧道の壁面は、何者かに真一文字に抉られ、そこには夥しい数の魚類、貝類、海生哺乳類から海藻類まで、あらゆる種の海洋生物の骨格や歯、身体の一部等が所狭しと並べられていた。まるで死骸の陳列棚のようであった。
「……さっきのエルマー何とかみたいな変質者の仕業か?」
「あり得ないと思うな。この数の獲物を仕留めるのは、一人じゃ絶対に無理だ。仮に数十人くらいの人員がいたとしても、専用の漁船や設備が無ければ捕まえることはおろか、見つけることすら難しい生物の死骸もある。例えば、ほら。」
チェザーレは、陳列された死骸の一つを指さした。それはまるで、巨大な二枚貝のようであったが、その縁はまるで鋭利な刃物のように尖っていた。
「これは?」
「ダイオウイカの嘴だ。その隣にあるのは、リュウグウノツカイの骨格だな。それ以外にも、希少な深海生物や、未発見の海洋生物のものと思われる死骸がいくつもある。……絶滅生物そっくりなものもあるな。とにかく、これを集めたのは、ただの人間じゃないってことは確かだ。」
透は、チェザーレの解説を黙って聞いていた。この状況で彼が冗談を言うとも思えないし、恐らく彼の見立ては正しいのだろう。しかしだとすると、この先にいる者とは? 透は、自らの行く先に待ち受けている脅威を予測することすら出来ない状況に、焦りと不安が大きくなっていた。
「ちょうどいい。何者か知らないが、幻滅することは無さそうだ。」
不気味に口角を歪めながら、ペーターが嘯いた。未知の脅威に対して、彼は不安よりも歓びを感じている様子であった。
「できれば穏便に通り過ぎたいね。このコレクションに加えられるのは御免だ。」
透は溜息をつきながら言った。この洞窟の中に入ってから、気の滅入ることばかりだったので、早急に太陽の下に出たかった。
「前方に開けた空間があるな。これは……?」
車椅子の液晶ディスプレイを確認していたチェザーレが、音響センサーによって捉えられた前方の空間の三次元立体図に目をこらし、何か言い淀んだ。
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