第48話 パンデモニウム㉔

「この音は……獣の鳴き声か? まるで地鳴りだな。」

 建物全体を揺さぶる地鳴りのような咆哮に、イアンは鼻白んだ。

「ううん、多分違うね。あれは……」

 遠くから、残響のように響いてくるその声に、亜唯は聞き覚えがあった。

 闇虚。忘れるはずも無い、彼女の叫びだ。

「君の知り合いか?」

「さあね。」

 探るように訊くイアンに対し、亜唯は適当にはぐらかした。

 今のは、確かに闇虚の声であった。一体彼女に何があったのかは分からないが、霧の中、落とし穴だらけの道を進むような今の状況では、余計なことを考えるべきではないし、口にすべきではないと、亜唯は考えていた。

 とにかく今は、生き残ること。もし透や闇虚も生き残っているなら、いつか必ず会える。その時に、聞くべきことは全て聞けばいい。亜唯は、そう心に決めていた。

 心に決めていたのだが――どうにもこのパンデモニウムの構造は、彼女の心を甚だ困惑させるものであった。

 亜唯達が今歩いているのは、海底に敷設された通路であった。通路の天井も壁も、半円のガラス張りになっており、まるで海底を這う透明なチューブのようであった。ガラスの透明度は極めて高く、海藻が揺らめき、魚が行き交う海底の様子をよく見渡すことが出来た。

「まるで水族館だな……」

 ハンスが呆れたように言った。実際、イアンも亜唯も、同じ感想を抱いていた。

「どうも緊張感が削がれるんだよなぁ。遊びに来てるんじゃないっての。」

 パンデモニウム内の意味不明な構造に、亜唯は次第に苛立ちに近い感情を抱き始めていた。

「だがこれまでの道中から考えて、ふざけているように見せかけて、どんな仕掛けがあるか、そして何が潜んでいるかは全く分からない。用心するに越したことは無いな。」

 イアンは、警戒心を解いてはいないようであった。

「ま、それもそうか。こんな状況で起こりうることって何だろうね? またガラスが割れて水責めを食らうとか?」

「よ、止してくれ! こんな水深でそんなことをされては、絶対に助からない!」

 冗談めかして言う亜唯に対して、ハンスは本気でそんな状況が起こりうることを恐れているようであった。

「さて、どうなるかね……ん?」

 亜唯とハンスの会話を聞きながら、イアンは周囲への注意も怠らなかった。そんな彼の視界の隅に、異様なものが映り込んだ。

「あれは……?」

 彼の瞳に映ったのは、海中を漂う大量の死骸であった。様々な魚や、頭足類、甲殻類を初めとして、鯨や鯱、ダイオウイカのような巨大海生動物の死骸までもが、深海の暗闇を漂っていた。いずれの死骸も、噛み砕かれ、抉り取られ、引き裂かれていた。何者かの手によって「殺戮された」のは明らかであった。

「うわ……」

 亜唯とハンスも海中に揺らめく骸の乱舞に気付き、思わず声を上げた。

「……」

 イアンは、何も言わずにその死骸を観察していた。自分自身をエリートスパイと任じる、彼の職業病のようなものかもしれなかった。

「どうかしたの?」

 訝し気に尋ねる亜唯には答えず、イアンはハンスに話を振った。

「ハンス、どう思う?」

「どう思う、とは?」

 イアンの問いかけの意図が分からず、ハンスは思わず聞き返した。

「この死骸の群れについてさ。君の意見を聞きたい。」

 イアンの補足に対し、ハンスは少し思案した後で、ゆっくりと答えた。

「私は海洋生物学については全くの専門外だ。その上であくまで私見を述べるとすれば……この殺戮は、餌の奪い合いとか、縄張り争いとか、単なる捕食とか、そういった類のものではないと感じる。」

「つまり?」

「動物的な本能ではなく、何らかの知性を感じる殺し方だ。」

 そう言うと、ハンスは間近に漂う鯨の死骸を指さした。鯨は、目を潰され、ヒレを捥ぎ取られ、遊泳不可能になった状態で、腹を切り裂かれていた。明らかに、単なる動物同士の闘争に起因する死に方ではなかった。

「しかもその知性は、あまりよろしくないタイプのものだ。殺し方があまりにも無差別すぎる。」

 海中に漂う、種別も大きさも全く異なる死体の群れが、ハンスの言葉を雄弁に裏付けていた。殺し方自体には知性を感じるが、対象は殆ど無差別で、手当たり次第といった印象であった。

「ありがとう。私も、君とほぼ同じ意見だ。」

 イアンはそう言うと、死骸の群れから視線を外し、ハンス達の方に向き直った。

「死骸の状態から推察するに、殺戮が行われてからそう時間は経っていない。この凶行を行った奴――一匹なのか複数なのかは分からないが――がまだ近くに潜んでいる可能性もある。早い所、この場を離れた方がよさそうだな。」

「同感。何て言うか、凄く不気味。」

 海底通路の周囲を漂う死骸の群れを一瞥して、亜唯が言った。ガラスの向こうに漂う鯨や鯱の死骸は、まるで彼等を地獄へ誘う使者のようであった。「次はお前たちの番だ」と言っているようにすら思えた。

 イアン達は、足早に海底通路を駆け抜けた。海洋生物たちの死骸の群れは、次第に彼等の背後に消えていった。まるで自分達を見送っているように、亜唯には思えた。

 滞留する死骸群から100mほど駆け抜けた辺りで、急にイアンが足を止めた。

「どうしたのかね?」

 訝し気に聞くハンスには答えず、イアンは自分達の真上――ガラス越しに見える、数十m上方の海面の揺らぎ――を見上げた。

「……?」

 亜唯もまた、異変に気付いた。先程まで海面からは、太陽光が降り注ぎ、まるでオーロラを思わせる光の乱舞が輝いていたのだが、今はただ、闇の帳が降りたように真っ暗になっていた。

「まだ夜になる時間じゃないよね?」

 海中にいるので、正確な時間までは分からないが、こんなに早く日が落ちるわけがない。亜唯は、さらに目を凝らしてよく見た。そして、異様な事実に気付いた。

 海面の暗黒は、まるで生き物のように蠢いていた。光が射していないにもかかわらず、亜唯にはそれが分かった。それは、その蠢きが水面の波などではないことを、如実に物語っていた。

「あれは……夜の闇なんかじゃない!」

 ハンスが叫ぶのと、亜唯とイアンが脱兎の如く走り出すのは同時であった。

 まるで、それが相図であったかのように、海面を覆っていた闇が、一斉に動き出した。

 それはまるで生きているかのように、蠢き、うねり、蠕動しながら、亜唯達を追った。蠢く闇――海中に広がる、墨汁の染みの如くか黒い何か――は、まるで粘土のように、ある時は細長く、ある時は紙のように広がり、そしてある時は塊のように、絶えずその姿を変えながら、亜唯達に追い縋った。その光景は、まるで巨大などす黒いアメーバが、獲物を追い詰めているかのようであった。

「何なのよ、これ!」

 言っても仕方がないことと分かってはいたが、亜唯は叫ばずにはいられなかった。一体全体、何が起こっているのか。彼女の理解を超える現実が、今、間近に迫っていた。

「生き物なのか、自然現象なのか、あるいは人の手によるものか。いずれにせよ今は、逃げる以外にない!」

 走りながら、イアンが叫んだ。そう、逃げる以外にない。彼等の背後に迫りつつある闇は、数十m四方にまで広がり、まるで獲物を一飲みにする大魚の口の如き様相を呈していた。如何なる怪異の成せる技かは分からないが、今の彼等に対処不可能な脅威であることは明白であった。

 イアン達は、海底を這うチューブのような通路を脇目も振らずに走り抜け、遂に出口と思しき金属製の扉まで辿り着いた。

 だが――

「開かない!」

 ドアノブを押しても引いても、その扉は開く気配を見せなかった。

 そうこうしている内にも、彼等を追い続けていた蠢く闇は、すぐ背後にまで迫っていた。

 イアンは、扉に体当たりをして無理にでも押し破ろうとした。だが、扉は僅かに軋むだけで、破ることはおろか隙間を造ることすら出来なかった。

「だ、駄目だ……!」

 一巻の終わりだ、と観念したハンスが、頭を抱えて座り込んだ。

「心配いらない。にそのガラスを破る力は無い。そのことは、彼等自身が一番よく分かっている。」

 突然、扉の向こう側から声が聞こえた。この場に不釣り合いな程に澄んだ、男の声であった。

「誰だ?」

「誰でもいい。ただ、心配する必要は無いということを伝えたいだけだ。」

 扉越しのイアンの問いに対し、男は清廉とした口調で答えた。

「とにかくここを開けてくれないか。我々は先に進みたいのだ。」

「訳の分かんねーこと言ってないでさっさ開けろ、この野郎!」

「そうかね? 私としては、君達も「彼等」の姿を見ておくべきだと思うのだが。少なくとも、見ておいて損は無いと思うぞ。」

 非難するような口調で扉を開けるよう急かすイアンと亜唯に対し、声の主は悠々と答えた。

「彼等……?」

 イアン達は、彼等の背後に迫りつつあった蠢く闇に、恐る恐る目を向けた。

 闇は先程同様、大口を開けた大魚の如く海中に広がり、今まさに、イアン達を飲み込もうとしていた。

 次の瞬間、霰が窓を打つような音が、海底通路全体に響き渡った。イアン達を飲み込もうと迫りつつあった闇、その正体であるが、ガラスの壁に連鎖的にぶつかり、弾き返される音であった。

「あれは……」

 ガラス壁に衝突すると同時に霧散し、自分達から一斉に離れていく蠢く闇、その正体を垣間見た亜唯は、思わず感嘆の声を上げた。

 イアンもハンスも、亜唯同様、まるで見惚れるように、去り行く「彼等」を見送った。

「なかなかのデモンストレーションだろう?」

 いつの間にか扉が開き、亜唯達の背後に男が立っていた。

「そう。水族館でおなじみの「彼等」だよ。君たちを追い詰めていたあの闇の正体は。無論、深海の水圧に耐えられるガラス壁を破るような力は無い。単なる威嚇、あるいは彼等なりのサービス精神と言ったところだ。」

 亜唯は、改めて背後の男の顔を見た。ごく普通のラテン系の青年であったが、瞳だけが異様な程煌めいていた。口元には笑みも浮かんでいるが、笑っているというよりは、単に顔が弛緩しているようにも見える。

 要するに、明らかに「おかしい奴」であった。

「あんなものを見せるために、わざわざ我々に嫌がらせを?」

 じろりと男を睨みつけながら、イアンが威嚇するように言った。彼も、目の前の男の異様さには気づいたようであった。

「嫌がらせなんて、とんでもない! 素晴らしい自然の神秘を、君達にも感じてほしかったんだ。」

 全く悪びれる様子も無く、男は言った。

「あっそ。ちなみに私達はお互い敵同士ってことも、当然分かっているよね?」

 敵愾心を隠す様子も無く、亜唯が男に言い放った。男がどんな存在であれ、自分達を危機に陥れた彼を、彼女はもう許すつもりは無かった。

「当然、分かっている。そのことに関して、君達に会わせたい人物がいる。私を殺すにせよ、許すにせよ、彼には会っておいた方がいい。」

 イアンと亜唯から向けられる殺気に気付いているのかいないのか、男は不用心にも彼等に背を向け、扉の奥――灯りも無く、闇に閉ざされた空間――へと歩き出した。

 イアン達は顔を見合わせ、一瞬、逡巡したが、取り敢えずその後に従った。その先に何が待ち受けているにせよ、彼等には進むより他に道は無いのだから。

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