第47話 パンデモニウム㉓

「率直にお伺いします。?」

 透は、絶句した。

 全く意味の分からない質問であった。だが何故か、彼の心に困惑は無かった。まるで、エディの口からその言葉が出ることを、無意識に予見していたかのようであった。そんな自分の反応も、我が心ながら全く理解できず、透はただ、心を虚無に沈めることしかできなかった。

「それは、どういう……」

「言葉の通りの意味です。貴方は本当に、道下透ですか? 自分自身の存在について、貴方自身の認識をお聞かせいただきたいのです。」

 口籠り、明らかに動揺して舌が回っていない様子で透が困惑の言葉を口にする。その力ない言葉を遮るかのように、エディが駄目押しの一言を放った。

「例えば、貴方が思い出すことのできる、最初の記憶まで遡ってください。子供の頃の記憶はありますか? また、きちんと思い出すことが出来ますか? どこかに記憶の欠落はありませんか?」

 何を馬鹿な、と透は心の中で嗤った。子供の頃の記憶ならば、間違いなくある。わざわざ考えるまでも無い。子供の頃、闇虚と初めて出会った日の事は、今でもはっきりと覚えている……

 そこまで考えて、透の思考は止まった。

 闇虚と出会う前の記憶が、無い。

 そう、無いのだ。闇虚と出会う前の記憶は、欠落どころか、底無しの奈落のようにぽっかりと穴が開いていて、見通すことはおろか、その先に進むことすら出来ない。まるで、そこから先の記憶など、最初から存在しないかのように……

「どうやら、貴方もお気づきになったようですね。」

 文字通り頭を抱え、呻くようにしてその場に蹲った透に、エディの無機質な言葉が浴びせられた。

「そう「無い」のです。貴方にあるのは、闇虚さんと共に歩んできた記憶だけ。それはつまり、道下透という存在は……」

 次の瞬間、透の身体が跳ね上がった。身体を丸め蹲った姿勢から、文字通り跳躍し、そして獣のような唸り声を上げながら、彼は着地した。

 透の精神と肉体は、闇虚に奪還されていた。闇虚は、透の精神と肉体が損壊を受ける危険を省みず、エディの言葉の鎖に捕らわれた彼を無理矢理自分の側に引き寄せたのだ。エディの無遠慮な言葉は、それ程までに彼女を激昂させていた。

「!!~~!!!……~~!」

 最早言葉として認識することすら不可能な咆哮を張り上げ、闇虚は隧道内の壁を、天井を、床を、ただひたすら殴りつけ、蹴りつけた。石窟が崩落してしまうのではないかと錯覚してしまう程、熾烈かつ苛烈な勢いであった。

 怒号と打撃音の爆裂的共鳴に揺さぶられながら、ペーターはじっと闇虚の様子を観察していた。

 闇虚は、ただ自棄になって暴れているのではない。ただひたすら、エディの声を排除したいのだ。姿を見せず、ただ声だけでを追い詰めているエディを、心の片隅からも排除したいのだ。具体的な状況はさっぱり分からなかったが、ペーターにはそんな闇虚の心情が本能的に理解できた。

 拳や声帯が擦り切れ、鮮血を吹き散らしながら、悪鬼の如き表情で自分の周りのもの全てを打ち据える闇虚。そんな彼女の様子を呆然と心の中で眺めながら、透は、うっすらとではあったが、自我意識を取り戻しつつあった。闇虚の暴乱によりエディの言葉が掻き消され、その呪縛から解き放たれたからかもしれなかった。

 闇虚を止めなければ、自分の身体が持たない。

 薄ぼんやりとした危機意識が、透の心を揺さぶった。だが、どうすれば良いのか分からない。彼はまだ、自分の心を安定させることすら危うい状況であった。闇虚を抑えることはおろか、人格の前面に出ていくことすら難しかった。

 その時、鋭い金属音が石窟内に連鎖的に響き渡り、闇虚の怒号を掻き消した。

「ようやくお目覚めか。」

 ペーターがそう言うのと同時に、隧道の入り口から、車椅子の駆動音と共にチェザーレが顔を出した。

「……あんなに大声で騒がれたら、眠れるものも眠れないよ。」

 不満げに溜息を漏らしながら、チェザーレは闇虚の方に向き直った。

「何を言い争っていたのかは分からないが、この中に仕掛けられていた監視カメラやマイクの類は今、全て破壊した。頼むから少し静かにしてくれないか。」

 闇虚は、血に飢えた獣のような目で、チェザーレを睨みつけた。

 チェザーレは、その迫力に気圧されながらも、ポイントを周囲に展開し、いつ彼女から攻撃されても迎撃できるように身構えた。

「もう十分だろ。そろそろ代わってくれ。」

 心の中で、透がゆっくりと闇虚の肩を抱いた。今の彼には、それが自分にできる精一杯であった。

 闇虚は低く唸りながらも、ゆっくりと心の底に自我意識を沈めて行った。

 透は、ほっと一息をつくと、身体の主導権を取り戻した。もし闇虚に本気で抵抗されていたら、今の彼では止めることはできなかったであろう。いや、そんな程度で済めばいい。ひょっとしたら跡形も無く、霞のように消し散らされていたかもしれない。そう考えてしまう程、闇虚の怒気は凄まじいものであった。

「透に戻ったのか?」

 片膝を突き、荒く息をする透に向かい、チェザーレは緊張の面持ちを崩すことなく、窺うように聞いた。

「ああ、おかげで元に戻れた。礼を言う。」

 息を切らしながら、透はチェザーレに礼を言った。実際、彼のサポートが無ければ、闇虚を止めることは不可能であっただろう。

 チェザーレは鼻を鳴らすと、そのまま踵を返し、隧道を出て行った。闇虚とエディのいざこざには、何の興味も無い様子であった。

「よく分からんが、取り敢えず落ち着いたようだな。」

 いつの間にか透の傍らに立っていたペーターが、見下ろすようにして言った。

「ああ。俺にもよく分からないが、取り敢えずこの場は落ち着いたみたいだ。」

 透は、微かに震える声で返答した。エディの言葉の残滓が、残響の如く、未だ彼の心を揺さぶっていた。

「……お前にも分からない、か。」

 いつになく、ペーターはこの話題に関心を惹かれているようであった。

「異常者の群れの中で、ただ一人、正常でいられる異常者。逆説的な意味で、最も異常な怪人、か。」

「……」

 これまでのペーターであれば、他人の事情など、どのようなものであれ軽く受け流してすぐに忘れてしまうはずであった。だが今の彼は、ある意味では透以上に、エディの言葉に関心を寄せているようであった。まるでそれが、彼自身の生き方や運命とも、密接に関連しているかのように。

「エディの奴、最後に妙なことも言っていたな? お前が本当に道下透か、と。アレは一体どういう意味だ?」

「……いや、俺にも分からない。」

 透は、力なく頭を振った。半分は誤魔化し、半分は本音であった。エディの言う通り、記憶の欠落があることは確かであったが、それが自分にとって一体どんな意味があるのか、彼には皆目見当がつかなかった。というより、そのことについて深く考えることが出来なかった。考えを深めようとすると、心の奥底から、得体の知れない凄まじい恐怖感と生命として根源的な危機意識が沸き上がり、彼の思考を阻むのだ。

「闇虚の奴は何か知っている様子だったな。アイツにとっては大分不快な話題のようだったが。」

「ペーター、頼むからこの話題はここまでにしてくれ。」

 喋り続けるペーターを、透は手で制した。図らずも、エディの言う通りであった。透とペーターの関係は、今やまるで古い友人のように変質していた。

「まあいい。いずれ、嫌でも分かる時が来るはずだ。」

 どこか不敵な、確信に満ちた表情でそう言うと、ペーターは透に背を向けて隧道の入り口の方向へ去っていった。

 暗闇の道には、透だけが残された。あらゆる言葉が、出来事が、記憶が、彼の頭の中で目まぐるしく交錯していた。エディの言葉、闇虚の言葉、自分の記憶、自分の心の底から湧き上がる、正体不明の圧倒的恐怖、ペーターの言葉、そして、自分という存在……

 世界そのものが反転してしまうような眩暈を感じながらも、透は何とか踏みとどまった。

「とにかく今は、ここから生きて出ることが先決だ。そうしなければ、何も始まらない……」

 透は、混乱する自分の心を、今自分が置かれている現実に縛り付け、何とか心の平静を保とうとした。

 自分自身の存在に関する不明感は拭えずとも、それらの疑問や疑念は、自分の命があってこそ意味を持つものだ。今自分を苦しめている己の実存的疑問は、この地獄のようなパンデモニウムを生きて出てから考えるべきものだ。死んでしまっては、何にもならない。

 透は、何とか心の平衡を保つと、入り口に向けて歩き出した。

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