第44話 パンデモニウム⑳

「……」

 透は何も言わずに、ペーターが語るエディとの邂逅の経緯を聞いていた。ペーターの語る話は、あくまで彼自身の主観に基づくものである。その内容には事実誤認や一種の偏見があるだろうし、何よりペーター自身が正気を失っているに等しい状態なので、話の信憑性には甚だ疑問符がつくことに留意しながら、透は傾聴していた。だがペーターの話は、そんな透をも絶句させるに充分なものであった。

 T大学病院でペーターと出会った頃から、一体どんな生き方をすればこんな化け物のような人間が生まれるのかいうことが、透にとってずっと疑問であったが、その疑問はいともあっさりと氷解した。

 ペーターは、そもそもが透には想像もつかないような環境で生まれ育った人間だったのである。法律も道徳も無ければ、知人友人も事実上の家族すらも存在しない。それどころか、人間として最低限の良識や知性を養える環境すらすら欠片も無い。そんな地獄のような世界で、ペーターは生まれ育ったのだ。透のように、社会の片隅で己の闇を隠しながら生きてきた怪人とはまるで違う。ペーターは、生まれ育った世界そのものが闇黒そのものだったのだ。

「どうした。何故黙っている?」

 押し黙ったままの透に対して、ペーターが聞いた。最も、その口調から、透の態度を訝しんでいる様子は全く伺えない。透の返答を聞かずとも、彼が押し黙っている理由は分かっていると言わんばかりの態度であった。

「ま、そう気にするな。所詮は他人事だ。」

 自分の人生を聞いた相手が閉口してしまうことには慣れているのであろう。どう返答してよいか分からず口を噤む透を、半ば突き放すようにペーターが言った。

『いやー、他人の自分語りってやっぱり眠くなるね。』

 言葉に詰まる透に代わり、本心なのか誤魔化しなのか分からない欠伸を漏らしながら、闇虚が前面に出た。

『要するに、アンタも私達と同じく、あのエディとかいう女に拾われたって訳か。』

「そういうことだ。」

『アンタの話を聞いても、結局よく分かんないね。一体何者なの、あの女?』

「俺にも分からん。分からんということしか分からん。」

 闇虚はペーターの身の上話には興味すら示さず、ただ彼の知っているエディの情報を知りたがっているだけの様子であった。彼女にとっては、既に怪物と分かり切っているペーターの素性などより、仇敵と言ってもいいエディについて、少しでも有利な情報を知りたかったのだ。

『怪しげな占い師みたいなことを言ってたってこと以外に何かないの? その……性格とか、好き嫌いとか。』

「無いな。と言うより、俺はそんなものに興味はない。」

 何とか探りを入れようとする闇虚に対し、ペーターはにべも無く返答した。隠し事をしている様子などは無く、彼は本当にエディの素性については何の興味も無く、知っている事も話せる情報も全く無い様子であった。

『結局あの女について判っているのは、意味不明で得体が知れないってことだけか。』

 エディについて有力な情報が得られるかもしれないという微かな期待を打ち砕かれ、闇虚は失望のこもった嘆息を漏らした。

「そう、それが正しい。エディが何を考えているのか、そして何を見ているのか、俺達には全く分からない。だが少なくとも、俺の見る限りでは、アイツの言うことに嘘はない。」

『人の心だかオーラだかが見えます、っていうの? 馬鹿馬鹿しい。』

「俺も最初は信じていなかった。だがアイツは、俺の心の中、俺自身も気付いていなかった部分まで見通すことが出来た。それだけじゃない。アイツと一緒に怪人達を集め歩くうちに、俺はエディの言う「見通す力」ってやつが実在するとしか思えない場面に何度も出くわした。今じゃもう、アイツの言うことを疑ってはいない。エディには間違いなく、俺達には見えないものを見る力がある。」

『……正直私には、アンタがペテン師に騙されているようにしか見えないけどね。』

 珍しく饒舌に語るペーターを、どこか可笑しそうに眺めながら、闇虚が言った。

「確かに、俺の言葉だけ聞けば、詐欺に騙されているバカの発言そのものだな。」

 自嘲気味に笑いながら、ペーターは続けた。

「だが、俺は別にエディがペテン師だとしても構わないと思っている。妙な話だが、仮にエディの話がただの嘘だったとしても、それに乗る価値は十分にある。そう思わせるに足る説得力が、アイツにはある。」

 埒が明かないと思った闇虚は、話題を少し変えることにした。

『さっきアンタは、エディの「見通す力」とやらの実例を他にも色々見たって言ってたけど、例えばどんな?』

「俺の頭では上手く説明できん。だがそれについては、多分この先、嫌でも分かることになる。」

 それはどういう意味だ、と闇虚が尋ねるよりも早く、どこからともなくエディの声が石窟の中に響いた。

「例えば闇虚さん。私には、貴方の姿が見えます。」

 声の主の姿は、またしても見えなかった。恐らくこの石窟の中にも、監視カメラと会話用のマイク及びスピーカーがそれと分からないように仕掛けられていたのであろう。

 闇虚は呆れたように溜息を洩らした。

『アンタさぁ、ホンっとに暇なの? どんだけ私達を監視してんのよ。』

「これも私の仕事の一つですので」

 見えざる声の主は、侮蔑を込めた闇虚の言葉に対しても、いつもの調子を崩さなかった。

『で? 見通す力っていうのは他人の会話を覗き見する力ってこと?』

「いいえ、違います。」

 若干苛立たし気に言葉をぶつける闇虚に対し、エディはきっぱりとした口調で言った。

「闇虚さん。貴方は道下さんの中に存在する、精神的な側面の一つです。肉体を持たない、形而上の人間と言ってもいいかと思います。つまり貴方は、他人と接触する場合には道下さんの身体を借りる他ありません。」

『だから何?』

 回りくどいエディの物言いに対し、闇虚は苛立ちを隠そうともせずぶっきらぼうに答えた。

「貴方と本当の意味で接することが出来るのは、道下さんだけ。貴方の本当の姿を見ることが出来るのも、道下さんだけ。でも私には、貴方の姿が見える。」

『……!』

 エディの言わんとする所の意味を理解した闇虚は、思わず身構えた。言い様の無い悪寒が、彼女の身体を包み込んだ。この女は今、自分にとって非常に不味いことを口にしようとしている。闇虚の本能的直観が、そう告げていた。

「そう、見えるんです。闇虚さん。貴方のその日本の美人画のような佇まいも、ショートボブの髪型も、薄紫色の瞳も、微かに筋張った両手も、左の目尻にある泣き黒子も、私には全て見えます。」

 闇虚は、絶句した。そして闇虚の中でエディの言葉を聞いていた透もまた、完全に言葉を失っていた。そう。エディの語る闇虚の容姿は、紛れもなく透が自身の内面に見ていた闇虚の姿そのものであったからだ。

「いや、あり得ない。そんな馬鹿な……」

 透は混乱し、頭を振った。

 そう、あり得ない。闇虚は、透の中にいるもう一人の自分なのだ。現実に存在する人物ではないのだから、その姿を見ることなど絶対に不可能だ。透自身が、闇虚の外見について他人に語ったことも、ただの一度として無い。だから、エディが闇虚の外見について知っていることなど、絶対にあり得ないのだ。

『アンタ、一体……』

 絞り出すようにして、闇虚が見えざる声の主に困惑の言葉を投げかける。彼女自身も、相当に混乱していた。透以外の他人には、絶対に見えない筈の自分の姿を見透かされた。今までに感じたことの無い、異様な感覚が、彼女の心をじわじわと蝕んでいった。

「ほらな、俺の言った通りだっただろ? 思っていたよりも早かったが。」

 隣でその様子を見ていたペーターが、したり顔で言った。

『黙ってろ、ペーター。』

 いつになく動揺した様子で、闇虚がペーターをどやしつけるように言った。

「ご理解いただけましたでしょうか。私の力の一端を。」

 エディの声が、石窟の中に不気味にこだまする。その声は、いつも以上に無機質で、威圧感すら感じるものであった。

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