第39話 パンデモニウム⑰
ペーターはポケットからナイフを取り出すと、床を蹴ってエルマーに向かって跳躍するように飛んだ。
一方のエルマーは、まるで深海に揺らめく海藻のようにその身を揺すると、ペーターの突進を受け流すように躱し、身体全面で壁に張り付いた。そして、ペーターが振り向きざまに放った回し蹴りを、ゴキブリのように壁を這って回避した。
「嘘だろ……」
信じ難い光景に、透は思わず呟いた。エルマーは、本当に壁に張り付き、縦横無尽に這い回っていた。垂直の壁も天井も、重力を無視するかのように自在に動き回っていたのだ。
「別におかしいことじゃない。さっきも見ただろ? コイツは階段の下に逆さで張り付きながら俺達を尾行していたんだ。」
さして驚いた様子も無く、ペーターが言った。彼の関心は、目の前の怪物を如何にして仕留めるか、その一点だけのようであった。
「どうも君は驚異や畏怖といった感情とは無縁のようだね。」
透達がいる位置より、1段上の階段の手摺部分に張り付いたまま、エルマーがどこか不服げに言った。
「目の前で起こっていることは目の前で起こっていることでしかない。今、俺の目の前には肉体改造趣味の変態がいる。それだけさ。」
「これは参ったな。そこまで見抜かれていたか。」
エルマーは大仰に額を掌で叩き、ペーターの洞察力に驚いたようなふりをした。透は、その掌にまるで蛸か烏賊のような吸盤が複数あることに気付いた。エルマーは、文字通り壁や天井に「張り付いて」移動していたのだ。
『成程ね。ああいう挙動を取るためには、外科手術で吸盤を取り付けるだけじゃなく、筋肉の付き方とか、骨格とか、根本から変えなくちゃならない。それであんな変態じみた身体をしているって訳か。』
闇虚が、得心したように言った。
「いや、でも吸盤って……」
闇虚が納得する一方、透には全く理解不能な世界であった。自分の身体を自分の意思で怪物に改造していくとは……?
『別におかしいことじゃないでしょ。っていうか、目の前に実例がいるじゃん。』
何てことない調子で答える闇虚に対し、まるでペーターみたいな物言いだ、と透は思ったが、口には出さなかった。
「お前みたいなのも過去に何度か見たことがある。薬物や整形手術で、自分の身体を際限なく変形させ、改造していく特殊性癖の連中だ。」
「酷い言い方だなぁ。私は自分の身体も、自分の作品の一つと考えている。そして自分自身が、自分の作品の中で「役割」を演じることもある。私はそのためならば、いかなる努力も負債も全く恐れない。」
エルマーは両手を広げ、まるで自分の存在を誇示するようなジャスチャーをした。信じられないことであるが、彼は足だけで壁に張り付いていた。透は目の前で繰り広げられる怪人の狂宴に眩暈がしてきた。
「そうか。じゃあ今度の作品タイトルは決まりだな。その名も「エルマー・クラインの死」。最も、作者死亡のため作品は未完というオチだけどな。」
挑発的な態度を崩さないペーターに対し、エルマーは目を見開いた。
「人間の限界を超えられないシリアルキラー風情に、肉体そのものを芸術へと昇華させた私が敗北すると思っているのかね? 現に君は私を殺すどころか、捕まえることすら出来ないではないか。」
「ハエやゴキブリはどんなに逃げ回ったところで、人間様には勝てないんだぜ?」
最早売り言葉に買い言葉のような応酬であった。だが透には、ペーターの言葉に、どこ作為的なものを感じていた。彼は、わざと相手を怒らせて手の内を曝け出させようとしている。そんな風に思えた。
エルマーは、胸部から突き出た金属の板状の物を引き抜くと、まるで手裏剣かブーメランの様に、ペーターに向けて投擲した。投擲された金属板は鋭い音を立て、先程までペーターが立って位置に突き刺さった。金属板はどうやら単なるコケ脅しではなく、本当にエルマーの投擲武器のようであった。
ペーターは、金属板が自分の身を抉るよりも早く、石段を蹴ってエルマーに向けて飛んでいた。T大学病院で闇虚や亜唯を相手に見せた、あの超人的な機動であった。螺旋階段の壁や手摺を蹴りつけながら、彼は文字通り飛ぶようにしてエルマーに迫った。
エルマーは、壁や手摺を這い回り、先程同様ペーターの動きを躱そうとしたが、如何せん行動速度の点ではペーターの方が明らかに上回っていた。
ペーターは手摺を這って逃げようとするエルマーの側頭部を蹴りつけると、そのまま縺れる様にして、階段の上に倒れ込んだ。ペーターはそのままエルマーの身体に馬乗りになると、その首を一気に捩じり上げた。
「害虫は所詮害虫だ。最後は惨めに殺される。」
冷酷に言い放つペーターに対し、不利な立場にいる筈のエルマーは嘲笑を返した。
「害虫は君だ。私を追い詰めたつもりかもしれないが、君は逆に私の網に掛かったのだ。」
そう言うや否や、エルマーの肩口から飛び出たストロー状の突起から、真っ白いガスが噴き出た。催涙ガス、と気付いた時にはもう遅かった。ペーターは既にそのガスを大量に吸い込んでしまっていた。
エルマーは喉と目の激痛にペーターが一瞬ひるんだ隙を見逃さず、彼を突き飛ばすと、一瞬にして距離を取り、天井に張り付いた。
「驚いたかね? 私の身体はこんなことも出来るんだ。ちなみに私はその程度のガスであれば殆ど平気だ。自分の身体で何度も試したからね。」
床に転がるペーターに対し、エルマーは勝ち誇ったように言った。
そんな彼等の様子を、手摺に寄りかかる様にして透は見上げていた。
「マズい……」
状況は、明らかにペーターにとって不利であった。身体能力でいくら上回っていたとしても、身体を動かせないのであれば意味が無い。おまけに相手は、何が飛び出すのかも分からない、文字通りの改造人間だ。
「ん……?」
そこまで考えて、透は自分の変化に気付いた。エルマーが施した螺旋階段の異形絵巻に心を飲み込まれ、立つことすら難しかった精神と肉体が、今は立ち上がり、冷静に状況を分析できるくらいまで回復していた。
『ようやっと、慣れてきたみたいだね。』
闇虚が心の中でニヤリと笑った。
「慣れるって……」
透は、自分の心身の変化がまだ上手く飲み込めなかった。先程までの絶不調が、嘘のように回復しつつあったのだから、それも無理からぬことであった。
『透、アンタは私みたいな異常者でも受け入れることが出来る。亜唯も同じだ。アンタなら、どんなに異常で、どんなに狂気に満ちた世界でも、時間さえおけば順応して許容することが出来るんだよ。』
「そう、なのか……?」
闇虚の言うことは確かに、思い返してみればその通りではあるのだが、透にはまだ実感が湧かなかった。
『さ、後はもう、やることは一つだ。』
戸惑いは消えてはいなかったが、闇虚の言う通り、この場で自分がすべきことはただ一つであることは、透も理解していた。
先程エルマーが投擲し、床に突き刺さったままの金属板を抜き取ると、透は足音を忍ばせながら、ペーター達の元に急いだ。
「これで私の作品は完成だ。ではさらばだ、哀れなシリアルキラー君。」
そう言うと、エルマーは階段の上に降り立ち、床に転がるペーターに向けて、自分の胸から引き抜いたナイフ状の金属板を投げつけた。いや、投げつけた筈だった。
「ぐうっ……!」
金属板を投擲しようとした刹那、右肩に激痛が走り、エルマーは思わず得物を落としてしまった。背後から何者かが投げつけた金属板が、彼の肩口に深々と突き刺さっていた。
驚いたエルマーが振り返ると、そこには、先程まで動くことすら出来ず蹲っていた透の姿がった。否、透ではない。今は闇虚の方が人格の前面に出て来ていた。透の特性を知らないエルマーにも、透の身に何か異常な変化が起こったことは、直感として理解できた。
「お前、どうして……?」
エルマーにとっては、あり得ないことであった。彼の芸術に飲まれた人間は、物言わぬ「作品」の一部となる筈。稀にペーターのように一切感化されない人間もいるが、一度彼の芸術の魔力に飲まれた人間が回復するなど、今までただの一度も無かった。彼の常識からすれば、起こりうるはずの無いことだったのだ。
『いい感じ。いい感じに身体の感覚が戻っている。』
闇虚はニヤリと笑うと、エルマーの疑問には一切答えず、ただ狙い通りに彼の肩を破壊できたことを喜んでいた。
『ペーター、いい加減起きて。私はケツ拭く気なんて無いからね?』
闇虚の呼びかけに、ぎょっとしたエルマーが再びペーターの方を向くと、既に彼は片膝をつき、体勢を立て直しつつあった。獣の様な殺意を湛えた瞳が、先程よりも遥かに鋭くエルマーを見据えていた。
「貴様ら……!」
自分の想像を超える事態に、エルマーは平静さを完全に失っていた。目の前にいる二人の人間は、彼のこれまでの常識を完全に覆す存在であった。怪人――先程のビデオ通話でエディが語っていた言葉の意味を、エルマーは今になってようやくその身に噛みしめていた。その怪人達が今、彼を前後から挟み撃ちにしようとしているのだ。
「やれやれ、前にお前等にやられたのと同じような手に引っかかるとはな。」
既にペーターは、軽口を叩けるほどに回復していた。口元には笑みすら浮かんでいるが、それは人間的な笑みというよりは、肉食獣が獲物を狩り立てるときの表情に似ていた。
『そういう無駄なお喋りは後。今はこの変態を先に片付けよう。』
「ま、それもそうか。」
彼等の目には、最早エルマーの姿は、脅威としてはおろか敵としてすら映っていないようであった。ただの障害物。道端に転がる、蹴り飛ばして除けるだけの石ころ。そんな目で、彼等はエルマーを見ていた。
明らかに形勢不利と見たエルマーは、再び壁に張り付いて逃げようとしたが、先程深手を負った右肩の激痛により、身体を支えることすら出来ず、床にずり落ちた。
無様な悲鳴を上げて床に転がるエルマーの両腕を、ペーターは背中に回しこむ様にして捻り上げると、そのまま何の躊躇いも無くへし折った。
エルマーの身も世も無い悲鳴が、螺旋階段の中に響き渡った。闇虚は、わざとらしく両指で耳栓をして彼の悲鳴を聞き流した。
「さて、これで作品名「エルマー・クラインの死」は完成だ。」
そう言うと、ペーターはエルマーの首根っこを掴んで持ち上げ、そのまま螺旋階段の階下――光すら届かない暗闇の底――へ放り捨てた。
「今度は翼でも生やしとくんだな。」
ペーターの捨て台詞と重なるように、エルマーの悲鳴は闇の底へ消えていき、そして数瞬の後、肉を叩きつける様な生々しい音が、小さく響いた。
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