第38話 パンデモニウム⑯

「まさか……」

 透とチェザーレは、声の主がいる場所に気付き、慄然とした。あり得ないことであった。だが声は紛れもなく、そこから聞こえていた。

 びたり、びたり、と粘着質な吸着音を響かせながら、透等の眼前数m先の石の手摺から、奇怪極まりないシルエットの怪人が姿を現し、彼等の前に立ち塞がるように佇立した。そう、信じられないことであるが、この怪人は透達の足元、階段の床下に張り付きながら、彼等を追跡していたのだ。

 床下から現れた怪人は、ゆっくりと、灯りの中に姿を現した。薄暗い灯火の中でも、その怪人の異形さは際立って見えた。怪人は、着古したジーパン1枚のみを着込んだ半裸の姿であったが、そんなことは大した問題ではない。まずその体つきが異様であった。両肩の部分が肥大化したように膨らみ、頭部と同じくらいの高さにあった。両腕は魚の鱗のようにささくれ立ち、両脚はまるで関節が複数個所あるのではないかと思うほど、不気味に捻じ曲がっている。上半身には、何か外科的な詰め物をしているのであろうか、金属なのかプラスチックなのかよく分からない突起物が、至る所からナイフのように飛び出ていた。そしてその顔は、最早かろうじて人間と判別できるレベルで、歪み切っていた。まるで抽象芸術化した人間の顔面といった趣の相貌であった。

「ご機嫌よう、諸君。私の作品は気に入ってもらえたかね?」

 その、男か女かもよく分からない異形の怪人は、慇懃な口調で透達に語りかけた。

「この壁画みたいなの、全部お前が……?」

「その通り。君達の様子を見ると、作品の出来は上々のようだ。嬉しいよ。」

 息も絶え絶えと言った様子で訊く透に対し、異形の怪人が奇妙に顔を引き攣らせながら答えた。恐らくその引き攣りが、彼(彼女?)にとっての笑顔のようであった。

「作品、ね。要するにこの悪趣味な落書きは、お前にとって相手を攻撃する武器や兵器の類ってことだろ。」

 透とは対照的に、ペーターは平静さを全く失っていなかった。ただ一つ、瞳の輝きだけが先程と違っていた。彼の瞳は、透と初めて出会った時と同じ、残虐で攻撃的な色を帯びつつあった。闘いと死の臭いが、彼の狩人としての本能を掻き立てているようであった。

「素晴らしい解釈だ。作品の本質を突いているよ。」

 異形の怪人は大仰に拍手すると、じっとペーターの瞳を見返した。

「この私、エルマー・クラインの作品は、見る者も含めて一つの作品だ。我が芸術により、見る者の心は壊れ、肉体は歪み、人が認識しうる全ての世界は混沌に沈む。それら全てを含めて、私の作品だ。現実すら狂わせる至高の芸術。それが私の作品だ。」

 眼球をまるで蛙のようにくるくると回転させながら、そのエルマーという怪人は道化のような口調で語った。その様子を見るだけで、透もチェザーレも吐きそうになった。

「だが、ごく稀に君のような者がいる。全ての人の心に訴えかけるはずの私の芸術に一切心動かされることのない、絶望的なまでに破綻した人間だ。」

 エルマーは、眼球の回転を止め、今度は眼窩を突き出すようにして、ペーターを睨みつけた。怒りとも憎しみとも判別できない感情を湛えた、蛞蝓のような目であった。

「螺旋階段という閉鎖された空間。暗闇の中に灯りは炎だけ。極めて狭く、見通しの悪い視界。その中に広がる豪華絢爛たる異形絵図。人間の精神を揺さぶり、暗示にかけるには格好の場所だな。これが、お前の狩りの方法という訳か。」

 エルマーの威圧的な態度などまるで意に介さず、ペーターは得心したように、目の前の敵の意図と特異な才能の解説を始めた。

 透は頭を振り、何とか平静を保とうと努めたが、無駄であった。頭痛と動悸はますます激しくなり、彼は最早立っているのがやっとの状態であった。透は背後を振り返り、先程からめっきり口数が少なくなっていたチェザーレの様子を確認したが、彼も同じ状態であった。チェザーレは車椅子のアームサポートから腕をだらりと垂らし、上体を折り倒して荒い息をしていた。顔を上げることすら出来ないような状態であった。エルマーが螺旋階段内に作り出した異形絵巻の暗示に、彼等二人は完全に囚われてしまっていたのだ。

「意外だな。ただの頭の壊れたシリアルキラーかと思ったが、なかなかいい着眼点だ。」

「エディ達のサポートをするうちに、そういう分野に対する造詣が嫌でも深くなってしまったんでね。ま、職業病みたいなものだ。」

 挑発じみたエルマーの発言に対しても、ペーターは淡々と返した。

「そこまで分かっているなら、話は早い。私は完璧主義者だ。自分の作品にノイズは認めない。この意味は分かるな?」

 エルマーは、ゆらゆらと身体を揺らし始めた。何らかの攻撃の動作であることは明らかであった。

「生憎と芸術家のこだわりに関してはよく分からないし、分かるつもりも無い。」

 そう言うと、ペーターは泰然と構えた。瞳の色は、透達と殺し合ったあの時と全く同じになっていた。

 透は、心の中で闇虚を呼んだ。この状況では、闇虚に代わった方が絶対に良いと彼は考えた。相手は、外見からして得体の知れない怪物である。何が飛び出すか全く分からない。チェザーレが殆ど動けない以上、ペーターをサポートするには闇虚の協力が不可欠であった。

 だが――

『……メッチャ具合悪い。ゴメン、今はパス。』

 闇虚は、透の呼びかけを拒否した。

「お前、こんな時に何言ってるんだ!」

『分かっているとは思うけど、アンタの身体は私の身体なの。アンタが碌に動けないなら、私も碌に動けない。』

「しかし……」

 目の前では、ペーターとエルマーがお互いの距離を縮めていた。一触即発の状態であった。

『今動けるのはペーターだけ。なら、アイツに任せた方がいい。』

「……」

『透。ストッパーであるアンタがそんな状態じゃあ、私は迂闊に動けない。見境なく暴れて、最終的には自滅しかねない。』

「……分かった。確かに、お前の言う通りだ。」

 闇虚の言い分は、最もであった。透は、何かあった場合は自分が出て行ってペーターをサポートするしかないと腹を括った。

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