第37話 パンデモニウム⑮
「何だ、今の爆発……」
薄暗がりの中、透が不安そうに言った。イアン達の目の前で起こった橋梁の爆破解体の衝撃は、透達のいる場所まで響いていた。
「ま、何が起こっても不思議じゃないからな、ここは。」
ペーターは少し足を止めただけで、またすぐに歩き出した。こんなことでいちいち驚いてはいられないとでも言いたげな態度であった。
透達は今、不気味としか言いようがない螺旋階段を上っていた。まるで中世の城を思わせる、石造りの階段であった。石壁には均等にランタンが設置されており、その炎が狭い回廊を薄暗く照らしてはいた。だが、照量が足りないため数m下の階は闇黒に飲み込まれたように暗く閉ざされていた。
だが、透が不気味に感じていたのはそんな内装ではなかった。石造りの壁の至る所に、奇妙な文様が所狭しと刻まれていた。まるで、太古の遺跡に刻まれた壁画の様な、奇妙に捻じ曲がった浮彫であった。さらに、そんな浮彫に加えて、干乾びた肉片や、どす黒く変色した血のような液体が、縦横無尽に描き散らされていた。浮彫の周りに真新しい削り滓のようなものが付着していることと、こびり付いた肉片等の状態から、その異様な文様がつい最近になって描かれたことは明らかであった。
「悪趣味としか言いようがないな。」
溜息をつきながら、透がそう呟いた。無駄話だとは彼自身分かっていたが、黙って進むだけで胸が悪くなってきそうな場所であったため、精神衛生上、何か喋らずにはいられなかった。
「そうか? 俺には単なる演出にしか見えないがな。」
ペーターは、飄々とした様子で応えた。この異様な空間にも、彼は全く心を動かされていないようであった。彼が以前言っていた「頭ならとうの昔に壊れている」という言葉は、ひょっとして本当なのかもしれない。透は本気でそう思うようになっていた。
「演出は演出かもしれないが、胸糞悪いのは事実だ。ただただ不快極まりない。」
後ろから進んできたチェザーレもまた、顔を顰めながら透の言葉に同意した。
透は、ちらりとチェザーレの様子を見た。階段を上る際、車椅子でどう上るのかと心配したが、それは杞憂であったようだ。
チェザーレの車椅子は、蜘蛛の脚を思わせる鉄脚を展開し、それらを交互に動かすことで、交互に階段を上っていた。最新鋭の医療機器というよりは、まるで一昔前のアニメや特撮に出てくるビックリドッキリメカの様だ、と透は思ったが、口には出さなかった。
「まあ、気になることがあるとすれば、この絵だか彫刻だかがつい最近になって描かれたものだってことだな。誰がどんな目的でこんな物を描いたのか……。」
壁一面に広がる異様な文様を横目で見ながら、ペーターはそこはかとなく警戒感を漂わせながら言った。
「俺もそれが気になっていた。芸術家の怪人か何かなのかね?」
透は、気分的なものではなく、本当に具合が悪くなってきていた。眩暈と吐き気を必死で堪えながら、ペーターに続いて階段を上った。
「いや。この壁画みたいなものは、いかなる芸術の様態とも合致しない。象形文字の一種にも見えるが、全く別のものだ。」
チェザーレも、透と同様の状態らしく、先程以上に険しい表情で言葉を口にした。若干、息が切れているような様子も見えた。
「芸術なんて大したものじゃない。これはただ、自分の欲情をそのまま描き殴ったものだ。」
淡々と解説するようにペーターが言った。
「欲情?」
「そう。こっちが●●のケツに○のイチモツをぶち込んでいるところ。これは異物挿入――スカルファックか。こっちは性器切断。まあ、しょうもない趣味嗜好の羅列だな。」
透の問いに対し、ペーターはさも当然の事のように淡々と答えた。まるで、見慣れた日常の事物を外国人にでも説明しているかのような、そんな喋り方であった。唖然とする透とチェザーレのことは気にも留めず、ペーターは喋り続けた。
「問題は、わざわざこんな場所にコレを描いた奴の目的だ。単なる趣味――それでも脅迫症じみた執念だが――で描かれたというのであれば問題はない。だがもし、俺達に何らかの攻撃を加える意図で描かれたのだとしたら、ちょっと厄介だな。」
「攻撃? こんな悪趣味な画でか?」
ペーターの推測に、チェザーレは馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻を鳴らした。
「ありうる話だ。お前等、さっきから少し様子が変だぞ。」
「確かに……」
この場の異様な雰囲気に毒されただけだと思っていた不快感・嫌悪感は、今やはっきりと、明確な体調の悪化として透とチェザーレの身体に現れていた。目が霞み、動悸も激しく、足元も覚束ない。チェザーレの車椅子を操る腕や指先にも、瘧のような痙攣が現れていた。
『閉鎖された空間の中に広がる、悪趣味の極みみたいな曼荼羅か。確かにちょっと、刺激が強すぎるかもね。』
透の心の中でそう言う闇虚の方も、この螺旋階段の異様な光景に幻惑されたのか、若干呂律が回っていないようであった。闇虚がこんな状態になるなど、透にとっては初めての経験であった。
「何であれ、早くこの場を出よう。確かにペーターの言う通り、明らかに俺達は変な状態になっている。」
「……同感だ。正直、今にも吐きそうだ。」
珍しく、透とチェザーレの意見が一致した。一歩足を進めるごとに、彼等の体調は如実に悪化していった。二人とも、この異様な空間が、自分達にとって極めて有害な場所であると、痛切に実感していた。
「というか、お前は大丈夫なのか?」
平然と前を進むペーターに対し、透は今更ながらの質問をぶつけた。
「問題ない。こういう類のものは見慣れているからな。」
先程、周囲の異様な浮彫文様について解説した時と同様、ペーターは透の疑問に対し、さも当然の事のように答えた。
「見慣れているって……」
「俺がダニエルやエディの助手をしていたことは知っているだろう? 行く先々で、色々なものを見た。ダニエルなんかは全く耐えられないようなものも、沢山見た。俺は、そういう環境で生きてきた。」
透とチェザーレは、じっとペーターの話を聞いていた。彼の表情に、動きはない。このパンデモニウムで一緒に行動するようになってからずっと、彼には特別な感情の動きのようなものは、全く見せなかった。異様なほどに、静かで穏やかであった。
透には、それが解せなかった。日本の、T大学病院で出会った彼は、怪物と言ってもいい存在であった。そして実際に、彼の所業は人間のそれを軽く凌駕していた。それが今や、まるで何事も無かったかのように隣にいる。得体の知れない違和感を、透は拭い切れなかった。
「エディ達に会う前もそうだ。俺は、普通の人間が想像することすら出来ないようなものを、沢山見てきた。ただまあ、その事は他人には喋らない方がいいとエディに言われている。だから話はここまでだ。」
そこまで一気に話すと、ペーターは唐突に話を打ち切った。まるで、話していい範囲が予め決められているかのような話しぶりであった。
「要するに、マトモな人生を送ってこなかったってだけさ。」
どう反応してよいか分からず、返答に窮していた透に、背後からチェザーレが口を挟んだ。
「コイツは人殺しにしか興味が無い人格破綻者だ。お前も知っているだろ?」
「その通り。それ以外の何者でもない。」
チェザーレの挑発じみた発言にも、一切動揺した様子を見せず、ペーターが答えた。
「そして逆に言えば、人殺しの臭いに関しては人一倍敏感だ。」
そう言うと、ペーターは足元の階段を、石段が砕け散るほどの勢いで思い切り踏みつけた。爆発するような音が鳴り響き、狭い螺旋階段の内部にこだました。
「いい加減出て来い。バレバレなんだよ。」
ペーターが階段の下部――ランタンの光ですら届かない暗闇の底――に向かって、突き刺すような口調で言った。
透とペーターは、慌てて階下に目を凝らした。何者かが自分達の後をつけていることにペーターが気付いた、そう彼等は思ったのだ。だが、そこには誰もいなかった。人影すらも見えなかった。
「そこじゃない。俺達の真下さ。」
怪訝そうな目で見る透達を、ペーターは目で促した。彼等が今立っている階段、その真下を。
「いやいや、驚いたよ。まさか私がいる場所にすら気付いていたとはね。」
不気味な声が、螺旋階段の内部に響いた。その声は、先程ペーターが示した、透達の足元から聞こえていた。
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