第35話 パンデモニウム⑬
「へぇ……」
目の前に広がる光景に、思わず亜唯は感嘆の声を漏らした。
薄暗い通路を抜けた先には、ガラス張りの道があった。断崖絶壁の中腹に沿うような形で、側面と床が全面ガラス張りの道が、切り立った崖の向こう側まで続いていた。左手には大海原が広がっており、先程エディが言っていた「南大西洋の孤島」というのは、どうやら嘘ではないようであった。
風光明媚そのものの光景であった。今、亜唯達が置かれている状況を別にすれば、であるが。
「まるで観光地みたいだね。よくこんなの作ったな。」
亜唯が、純粋に感心するように言った。ガラス張りの床には傷はおろか埃一つ落ちておらず、新品そのものといった感じであった。ひょっとすると、ここを通るのは、亜唯達が初めてかもしれなかった。
「確かに、奇妙と言えば奇妙だ。我々を争わせるだけなら、こんな面倒なものを作る必要も無い。」
慎重に周囲を確認しながら、イアンが歩を進める。彼は、天井の方に目を向けた。通路の天井はガラス張りではなく、普通の屋根のような形状となっていた。漆黒の支柱が肋骨の様に剥き出しになっている。
「見栄えだけを優先した、三流建築だよ。安全面では不安だらけだ。こんな通路、もしハリケーンでも来ようものなら、すぐに吹き飛ぶぞ。」
ハンスは、ガラス張りの床の上を恐る恐る歩いていた。彼は床が抜けてしまうことを本気で恐れているようであった。
「まあでも、すぐに渡ってしまえば問題無いでしょ。幸い、周りには誰もいないようだし。」
ほぼ全面がガラス張りであるため、自分達の周りに人影があればすぐに分かる。ガラス張りの通路の先は、切り立った崖の向こう側に回り込む様に迂回しているため、その先を見ることはできないが、少なくとも周囲100mくらいに人影すらないのは明らかであった。
「分からんぞ。さっきの透明人間みたいに、隠れ潜んでいる可能性もある。」
「まあ、確かに。」
ハンスの用心深い指摘に、亜唯は自分の楽観的な考えを改めた。確かにここでは、どんな非現実的な脅威が潜んでいるとも限らないのだ。
イアンは、ハンス達の会話には加わらず、先程と同じく慎重に周囲を確認しながら進んでいた。そんな彼の様子に、亜唯は一抹の不安を感じた。
「イアン、どうかした?」
「……」
つい先程までの様子とは打って変わり、イアンは全く無言になっていた。まるで、目に見えない脅威を探り当てようとしているでもあった。
「どうかしたのかね?」
そんな彼の様子に不安を覚えたのか、ハンスもまた狼狽して聞いた。
その時、後方で何かが割れる様な音が響いた。
「えっ……?」
振り向いた亜唯の目に、つい先程、自分達が最初に足を踏み入れた1枚目のガラス床が砕け散り、断崖絶壁の下にガラス片が舞い落ちていく様子が飛び込んできた。
一瞬遅れて、今度は2枚目のガラス床が砕けた。3枚目、4枚目、ガラス板は連鎖するように、次々と砕け散っていく。亜唯達がいる場所に向かって……。
「ちょ、マズイって!」
ガラス床の連鎖的破砕が意味するところを理解した亜唯達は、脇目も振らず駆けだした。
だが、ガラスの破砕音は、彼等の進む先からも響いてきた。前方のガラス床も、亜唯達に向けて順次砕け散っていたのだ。挟み撃ちされるような格好になった亜唯達は、進むことも戻ることもできず、完全に進退窮まった。
「万事休すってやつ? ひょっとして私達、道間違えた? ゲームオーバー?」
完全に詰んだ時、人は恐怖を感じない。場違いな軽口を叩く今の亜唯がそうであった。ハンスの方は、何を言っていいのか分からず、ただ呆けたような表情で、自分達に向けて迫ってくるガラス床の破砕を凝視していた。
「いや、そうでもない。この通路に感じていた違和感の理由が、今よく分かった。」
イアン一人が、得心したようにニヤリと笑った。
「我々は道を間違えたんじゃない。道を見誤っていたんだ。」
そう言うと、彼は通路の上――肋骨の様な支柱が剥き出しになった無骨な天井――を見上げた。
「そっか……」
「まさか……」
亜唯とハンスも、イアンの言わんとしていることが、その視線の先を見てようやく理解できた。
「飛べ!」
イアンの一声と共に3人は思い切り床を蹴って宙に飛ぶと、天井の支柱を夢中で掴んだ。
次の瞬間、彼等の足元のガラス板は乾いた音と共に砕け散り、雪のように煌めきながら崖下へと舞い落ちて行った。
「助かったのはいいけどさ、このまま進むの?」
剥き出しの支柱にぶら下がり、何とか難を逃れた亜唯であったが、彼等の先に続く地獄の如き長さの雲梯を見て、むしろ絶望の度がより深くなっていた。しかもこの雲梯は、手を滑らせれば即ちそのまま断崖絶壁の下へ真っ逆さまである。
「と、とても無理だ。私には……」
泣きそうな声で、ハンスが言った。実際、彼はいままさにずり落ちそうであった。
「少々危険だが、より安全な道がある。」
イアンはそう言うと、懸垂の要領で身体を持ち上げ、天井の中央付近にある留め金のようなものを外した。ロックが外れると同時に、天井の中央付近が小窓のように開いた。イアンは小窓の縁に手をかけると、そのまま天井の上へ出た。
「成程ね。ちょっと危険だけど、ぶら下がりながら行くよりはマシか。」
そう言うと、亜唯はイアンがしたように、天井の小窓に手をかけて登ろうとした。
だが、そんな彼女を、イアンは手で制した。
「ここから先は、気を引き締めて行こう。」
そう言うイアンの顔からは笑みが消えていた。
「どうやら、先客がいたようだ。」
彼の見つめる先、海風が吹き荒ぶ細長い屋根の道の先に、瞑想するように一人の人間が鎮座していた。
「こんにちは。なかなかいい眺めだね。」
イアンは、様子を探る目的で、取り敢えずその人影に挨拶すると、足元に気を付けながらゆっくりと近付いていった。遠目で見ていた時は、黒い影のように見えていたその人物は、近付いてみると実際に全身が黒一色であった。頭部にはガスマスクを被り、身体は全面が黒いゴミ袋の様な防護服を着込んでいた。
「面白いファッションだね。」
軽口を聞く様に、イアンはゆっくりと相手との距離を縮めていった。背後では、やっとこさといった感じで、小窓からハンスが這い上がっていた。
ガスマスクの男は、答えなかった。まるで彼等の存在など無視するかのように、ただ静かに鎮座している。
「申し訳ないが、先を急いでいる。少しばかり道を開けてくれないか。」
埒が明かないと思ったイアンは、ガスマスクの男に対し率直に本題を切り出した。
ガスマスクの男は、ここに至っても無言であった。微動だにせず、イアン達の方を見もしなかった。
「最悪の場合、実力をもって君を排除しなければならないが。」
イアンの恫喝にも、男は無言であった。ただ、石仏の様に鎮座し、海風にその身体を微かに揺らしている。
止むを得ないか、とイアンが攻撃態勢を取ろうとした刹那、ガスマスクの排気弁から、男の声が響いた。
「下を通っていけばいいだろう。」
言葉の端々から、極めて神経質で、刺々しい感情が溢れるようであった。イアンとの会話そのものを嫌悪している、そんな印象であった。
「まあ、それはそうなのだが、何分距離がね……」
敵意というより、無関心な拒絶というべき反応を返され、イアンは若干面喰った。
「知るか。後、それ以上近付くな。人間は汚物だ。話すと口が汚れる。」
ガスマスクの男は、吐き捨てるようにそう言った。単なる罵声ではなく、純粋にそう思っているようにイアンは感じた。人間という存在への嫌悪。目の前の男にあるのは、それだけの様であった。
だが――と、同時にイアンは思った。彼の言葉を信じるのであれば、下を通っていけば、取り敢えず闘争は回避できるということであろうか。
「分かった。では会話はこれっきりにしよう。我々は、下の支柱を使って進むことにする。だが、何分距離が距離だ。崖の向こう側へ回り込んだ辺りで、我々は屋根へ上る。あそこであれば君の位置からは見えないし、君の視界を汚すことも無い。それでいいな?」
自分達に許容可能な範囲での妥協案を、イアンはガスマスクの男に提示した。受け入れられないのであれば、実力で排除するつもりであった。
「構わん。さっさと行け。」
ガスマスクの男は、あっさりと了承した。イアン達の去就など、何の興味も無いようであった。
「素晴らしい場所だ。素晴らしい風景だ。これこそ、俺が探していた理想郷だ。誰にも渡さない、誰にも譲らない……」
男は、背を向けるイアンには何の関心も払わず、一人ぶつぶつと呟き続けていた。病的なまでの人間嫌いである男には、自分一人だけが存在するこの絶景こそ、何より至上のものらしかった。そこに、彼以外の人間は不要なのだ。
「と、いうことだ。少々面倒だが、崖の向こうまでは、下の支柱を伝って行こう。」
イアンは、風に飛ばされないよう屋根にしがみ付くハンスと、支柱にぶら下がったままの亜唯に向かって言った。
「私のこの努力は無駄だった訳?」
支柱にぶら下がったままの亜唯が不満そうに言った。
「もしもの時の保険だったんだ。できそうなのは君しかいなかった。許してくれ。」
イアンは、もしガスマスクの男と話がこじれて争いになった場合に備えて、亜唯にその場に留まるよう指示していた。男と争いになった場合、亜唯が支柱を伝って男の背後を取り、挟み撃ちにする算段であった。
「無駄な争いが回避できたならそれでいい。早く行こう。」
ハンスは、とにかく一刻も早く、この場を離れたい様子であった。
「じゃ、先にお願い。」
亜唯は屋根の上に上ると、ハンスに先に行くように促した。
「わ、私が?」
そう言われて、意表をつかれたハンスは吃驚して聞き返した。
「さっきからずっとぶら下がっていたから、少し手を休めたいの。それに、後ろで先生がまたあの「影」に乗っ取られたらたまらないから。」
亜唯は、有無を言わさない調子でハンスに返答した。
「ま、まあ、それもそうか……」
そう言われては、反論のしようが無かった。ハンスは渋々、小窓を降りて支柱にぶら下がると、雲梯を渡る要領で進んでいった。
「じゃ、私達も行こうか。」
亜唯も早々にこの場を立ち去りたかったのか、イアンに声をかけたが、彼はまだじっとガスマスクの男の方を見ていた。
「どうかしたの?」
「いや、世の中には、本当に不思議な人がいるんだなって。」
嫌味でも何でもなく、イアンは本当にそう感じていた。一方の亜唯は「いや、お前も十分不思議な奴だろ」と半ば呆れたように聞いていた。
海風が吹き荒ぶこの不安定な回廊の上に、ガスマスクの男は、瞑想するようにいつまでも鎮座していた。
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