第33話 パンデモニウム⑪

 チェザーレと両親との関係は、その日以降、完全に決裂した状態になった。チェザーレの定期的な診察に両親が同席することはなくなり、彼はただ一人で、自分の身体の今後の治療方針について医師と意見交換をするようになっていた。家族間での会話らしい会話も無くなり、食事も各々の自室で取るようになり、家族全員が集まるような時間は、ほぼ無くなった。家族という契約関係のみが継続しているだけで、事実上、家庭内は崩壊した状態になっていた。

 両親の親族や友人知人は、そんな彼等の家庭状況を危惧し、色々とアドバイスを行ったが、全て無駄に終わった。両親も、チェザーレも、お互いの存在に対して非常に頑なになっており、融和を促すような言葉には聞く耳すら傾けなかった。

 このままでは取返しのつかないことになる、そう考えた両親の親戚が、チェザーレを一時的に児童保護施設に預けることを真剣に検討し始めた時、思いもよらぬ変化が、チェザーレの両親に起こった。

 彼等は、チェザーレの生き方を受け入れたのだ。

 両親はチェザーレに対し、彼の生き方を否定し続けたことを謝罪し、今後は可能な限り彼の人生をサポートすることを誓った。そして彼等は、親類縁者に対し、今後は第2の人生として、息子を影ながら援助することに決めたことを宣言した。

 突然の彼等の心変わりに困惑しながらも、両親の親戚や友人達は、取り敢えず最悪の事態は避けられたことに安堵した。その考えが完全に間違っていたことに、この時はまだ誰も気づいていなかった。

 やがて父親は所属するスポーツ団体を退団した。母親も自分が手掛ける事業を他人に譲渡し、父親と二人で、チェザーレのサポートに専心することに決めた。周りの友人知人は、何もそこまでしなくても、と止めたが、彼等の決意は固かった。友人達は、彼等のどこか献身的過ぎる態度に違和感を覚えながらも、子供のためという彼等の言い分には反論する理由も無いので、取り敢えず、彼等の意向を尊重した。

 そして、両親は社会との繋がりを失い、その後は近隣住人達の前にすら殆ど姿を見せなくなった。食事や日用品は全てデリバリーサービスや通信販売で済ませるようになり、以前はあれ程熱心であったスポーツや外食、散策にも、全く出なくなってしまった。

 やがて邸宅に雇用されていた医師や看護師達は全員契約終了となり、使用人達も、一人また一人と次々に辞めて行った。奇妙に思った親類の一人が、辞表を提出した使用人の女性に訳を尋ねた所、こんな答えが返ってきた。

 「この家は、何かに取り憑かれている」と。

 彼女曰く、チェザーレの世話に専心するようになって以降、両親の様子が明らかに異様なのだという。焦点の合わない死人のような目で邸内を徘徊し、使用人が挨拶をしても、返事はおろか彼等の方を見ることすらない。食事は殆ど取らず、風呂にすら碌に入っていないのか、常に饐えた臭いを漂わせていた。そして、ほぼ一日中、チェザーレの自室に籠り、ひたすら何かの手伝いをしているのだという。その様子は両親というより、最早召使か奴隷の様であった、と彼女は語った。

「とにかく、この家は何かおかしいんです。こんな所にはもういられません。」

 そう言うと、彼女は逃げる様に邸宅を去っていった。

 異様なものを感じた親族達は、すぐに両親の元を訪ねた。対応に現れた父親は、ぎこちない口調で歓迎の挨拶をしたが、彼等はすぐにその異様な様子に気付いた。

 使用人の女性の言っていた通り、父親は風呂に入ることはおろか、洗顔や整髪すら殆ど行っていないのか、垢じみた顔にボサボサの髪を靡かせていた。また着ている服も、洗濯はおろか着替えてすらいないのかと思うほどボロボロで、至る所に毛玉や擦れが出来ていた。好青年のスポーツマンそのものであった現役時代からは考えられない変貌ぶりに、親族の誰もが一様に言葉を失った。

「せっかく来てもらったところ本当に済まない。今日は対応できる時間が無いんだ。また日を改めてくれないか。」

 先程と同じ、無理矢理口を動かしているようなぎこちない口調で、父親が言った。

「いや、しかし君……」

「せっかく来てもらったところ本当に済まない。今日は対応できる時間が無いんだ。また日を改めてくれないか。」

 父親のあまりの変わりぶりに絶句し、親族の誰一人として、すぐに言葉が出てこなかった。そんな彼等に畳みかけるように、父親は同じ言葉を繰り返した。まるで、同じ言葉をそのまま再生しているかのようだった。

 その時、父親の背後から「どうかしたの?」と車椅子に乗ったチェザーレが顔を出した。彼は父親とは対照的に、身なりは完全に整っていた。両脚にかかっているシーツすら、整然と折り畳まれている。

「チェザーレ、突然訪ねてしまってすまないね。ちょっと用事があって、お父さんとお母さんを訪ねてきたんだ。」

「だってよ、お母さん。」

 チェザーレの背後から、母親が音も無く姿を現した。父親同様、身なりは不潔そのものであった。微かな異臭すら漂ってくるほどであった。

「せっかく来てもらったところ本当に済みません。今日は対応できる時間が無いんです。また日を改めていただけませんか。」

 母親もまた、無表情に父親と同じ言葉を繰り返した。

 ここにきて、親族達はこの家族に対し、違和感から恐怖に近い感情を抱くようになっていた。使用人達の言っていた通り、この家族は、何かに取り憑かれているようにしか見えなかった。彼等の容姿も、言動も、態度も、異常そのものであった。

「分かった。では、日を改めてまた伺うことにしよう。」

 そう言うと、親族達は皆、逃げる様に邸宅から立ち去った。全員、背筋に薄ら寒いものを感じており、一刻も早くその場から逃げたかったのだ。

「率直に言って、私はもう彼等と関わり合いになるのは止めようと思う。」

 親族の一人が、溜息交じりに言った。咎める者は、一人もいなかった。

「気付きましたか、あの臭い……」

 親族の一人、年配の男性が呟くように言った。

「ああ。碌に風呂にすら入っていない様子だった。」

「いや、そうじゃないんです。」

 その男性は、頭を振った。

「あの臭いは、体臭なんかじゃない。何かこう、肉が腐ったような、そんなイヤな感じの臭いでした。」

 その場にいた全員が、沈黙した。誰もその言葉を、否定することはできなかった。


 彼等の危惧は的中した。

 別の日、何度連絡しても一向に返事が無い父親を心配したかつてのチームメイトが、彼の邸宅を訪ねた。

 チャイムを押してしばらくして現れた彼の姿は、往時を知るチームメイト達には信じられないものであった。

 父親は、まるでミイラのように痩せこけていた。それだけではない。髪は抜け落ちてまばらになっており、顔色は土気色、眼窩は骨の形がそのまま浮き出るほど落ち窪み、歯も何本も欠けていた。

 生きている屍。比喩表現でも何でもなく、その場にいた全員が同じ印象を受けていた。

 チームメイト達は、言い知れぬ恐怖を感じ、言葉を濁してその場を後にしようとした。父親もまた「せっかく来てもらったところ本当に済まない。今日は対応できる時間が無いんだ。また日を改めてくれないか。」と掠れた声で言うと、家の中に戻ろうとした。

 その時、チームメイトの一人が、父親の異常に気付いた。彼の腕から、何かが滴っていた。よく見るとそれは血であった。驚いたチームメイトは、去り行く父親を呼び止め、服の裾を捲り上げた。

 父親の腕は、腐り果てていた。最早皮膚は完全に剥げ落ち、腐肉と、筋繊維、骨までが剥き出しとなり、汚泥の様な体液が止めど無く溢れていた。

 すぐにチームメイト達は救急車を呼び、父親は搬送されていった。搬送されていく時も、彼はただ「せっかく来てもらったところ本当に済まない。今日は対応できる時間が無いんだ。また日を改めてくれないか。」と譫言の様に繰り返していた。彼が正常な状態でないことは、誰の目にも明らかであった。

 騒ぎを聞きつけた親族達がすぐに駆け付け、母親とチェザーレにもこのことを伝えるべく、邸宅のチャイムを押した。だが、いくら待っても、何の返事も無かった。

 漠然とした不安感に襲われた親族やチームメイトは、悪いとは思いながらも、そのまま邸内に上がり込んだ。邸内は、碌に手入れや掃除もされておらず、荒れ放題であった。そして親族達は、リビングルームで殆どミイラ化した母親の遺体を発見した。

 そこから先は、悲鳴と、嗚咽と、警察を呼べという怒号と、パトカーのサイレンの音で、閑静な住宅街は騒然となった。駆け付けた警察は、母親の遺体を収容し、親族他の訪問者達に聞き込みを行う傍ら、この家にいる筈の一人息子――チェザーレを探した。

 チェザーレは、何事も無かったかのように、子供部屋で本を広げていた。

 踏み入った警官が、君は大丈夫なのか、と聞くと、彼は「今勉強中だから、静かにして」と咎める様に言った。

 警官の一人が困惑した様子で「君のお母さんが、亡くなったんだ。」と告げると、彼は事も無げに、こう言った。

「知ってるよ。早く新しいの用意しないとね。」

 彼は両親の死に動じるどころか、眉一つ動かすことすらしなかった。警官達は異様な印象を受けながらも、取り敢えず彼等の職務権限において、この得体の知れない少年を保護して撤収した。

 父親は、搬送先の病院で死亡が確認された。両親の遺体は共に司法解剖が行われ、体内から違法に合成された薬物が多量に検出された。死因は薬物中毒によるものとほぼ断定されたが、入手ルートが全く分からなかった。彼等二人は前歴も一切なく、友人知人、親類縁者にも、麻薬ルートとの関係が確認できた人物は一人としていなかった。

 そんな時、警官の一人が、チェザーレに疑いの目を向けた。彼の子供部屋に立ち入った際、ガラス張りの保冷庫の中に無数の薬瓶が並べられていたことを、その警官は強烈な印象として記憶していた。そして、立ち入りの際の彼の異様な態度も、警察の疑惑をより深いものにした。

 もしやと思いながらも、警察はチェザーレの子供部屋に再び踏み込み、実験機器やサンプル類を全て応酬し、分析に回した。

 果たして、彼等の推測は正しかった。チェザーレの部屋から回収した薬瓶の一つから、両親の身体から検出された合成薬物と同じものが見つかった。

 警察の事情聴取に対し、チェザーレはあっさりと自分の犯行であることを認めた。薬物の入手方法から合成方法、作用機序から人体に与える影響まで、彼はまるで自慢するかのように、事細かに説明した。簡単に言えば、当該薬物は一種の覚醒剤であり、摂取後に一定の光学的刺激を与えることにより、人間を洗脳状態におくことが可能な代物であった。チェザーレは、この薬物を両親の食事やミネラルウォーターに混ぜて摂取させ、そして彼等を自分の思い通りに動く「操り人形」に変えたのだ。そして、この薬物が継続摂取により人体の代謝機能を完全に破壊しうるものであることも理解していたチェザーレは、両親の生命保険料の受取人を自分に変更することに加え、遺産相続に係る諸手続きを弁護士に委任するなど、両親の死を見越して必要な手続きを既に終えていた。

 彼に欠けていたものはただ一つ。罪の意識だけであった。

 警察は、チェザーレの処遇に関して、慎重に議論を重ねた。彼はまだ、法的に罪を問える年齢基準に達していなかった。それに加えて、彼には先天的な障害があり、かつ事件の重大さが社会に与える悪影響など考慮すると、その扱いには警察としても極めて慎重にならざるを得なかった。

 結局、チェザーレは精神病院において保護観察処分とすることが決定された。そして彼の犯罪行為に関しては、事件の重大性に鑑み、報道規制を行うこととなった。

 チェザーレは、特に何も言うこともなく、警察の決定に従った。彼にとって、この結果は既に予測できたものであったからだ。法律では、自分を裁くことはできないし、自分の遺産を取り上げることもできない。両親の命すら一顧だにしない怪物となり果てていた彼は、既にこの世の全てを見下すようになっていた。

 精神病院内においても、彼は更生プログラムやカウンセリングには何の興味も示さず、病室に実験機材や蔵書を持ち込んで自分だけの研究や実験に勤しんだ。彼は以前より、障害者支援団体、特に政治的利益団体の性格を有する団体の講演会やイベントに積極的に参加して彼等の信任を得ており、現在は相続した財産の一部をそうした団体に定期的に寄付していた。そのため、精神科の医師達も彼の勝手な行動に殆ど異を唱えることが出来なかったのだ。さらにチェザーレは、精神医療におけるカウンセリングや精神療法については、治療方針のチャートから細かな質問事項までほぼ完璧に把握しており、逆に治療にあたった医師やカウンセラーを翻弄し、彼等の無知を指摘して愚弄する始末であった。

 こうしてチェザーレは「触れてはならない怪物」として、病院内においてもほぼ放置された状態となった。医療従事者も、患者も、彼に近づこうとする者は皆無であった。チェザーレ自身も、そんな状況に一切不服は無かった。

 そんなある日、ダニエルとエディが彼の元を訪れた。彼等は、自分達はイスラエルにおいて新たに創設された精神医療系ベンチャーの代表である旨を告げると、チェザーレにこう持ち掛けた。

「我々が経営する「アジール」へ、貴方を転院させたいのですが。」

 最初、チェザーレはその申し出をにべもなく断った。

「嫌だよ。僕はここの方が気に入っている。」

 実際、チェザーレの病室は既に彼自身の手によって専用部屋のように改造されていた。実験器具を収めた棚や、様々な機材が所狭しと並べられ、そこはさながら彼の研究室のような様相を呈していた。彼は、自分にとって居心地のいいこの空間を離れたくなかったのだ。

 エディは、そんなチェザーレの言葉に対して、こう返した。

「我々の所に来ていただければ、貴方にとってもきっと未知の発見があります。」

「未知の発見、ね。」

 チェザーレは彼女の言葉を鼻で嗤った。

「僕の父親だった人とか、ここの医者とか、同じようなことをよく言っていたよ。外の世界にはお前の知らないものがある、ってね。僕に言わせれば、そんなのは無知からくる妄言だ。事実、そいつらは僕の半分程度も賢くなかったし、物も知らなかった。」

 そう言うと、チェザーレは挑発するようにエディの方を見据えた。

「そんな言葉を安易に使うのはよくないよ。自分が馬鹿だと思われるだけだ。」

「成程。貴方の周囲にいた人間達は、貴方の知性の枠の中、それも極めて狭い領域にのみ収まってしまう者たちばかりだった、ということですか。それは確かに不幸なことだったと思います。」

 チェザーレの挑発に眉一つ動かさず、淡々とエディは語り続けた。

「ですが、心配には及びません。我々が「アジール」において受け入れているのは、貴方と同じ怪人達です。決して、貴方を飽きさせることはありませんよ。」

「怪人……?」

 医療関係者の口から出てくるとは思えない単語に、チェザーレは胡乱げな目をエディに向けた。

「そう。貴方の様に、常人の精神様態を大きく外れ、「人」という枠からも隔絶してしまったアウトサイダー。人間でありながら怪物に近い力を持つ者。我々はそれを怪人と呼んでいます。」

「僕が、その一人だと?」

「自覚がありませんか?」

 今度はエディの方が、どこか挑発するように言った。

「ま、確かにそうかもね。」

 今まで自分の周りにいた、両親も含めた他人。彼等の自分に対する態度を、チェザーレは思い出していた。そして、そんな彼等に対する自分自身の態度も、同時に思い出していた。そうして彼は、思い至った。確かに自分は、普通の人間とは隔絶した人間――悪く言ってしまえば、怪物であった。

「貴方の不幸は、自分と同じ存在が周りにいなかったこと。そして、そんな存在と巡り合う機会を、貴方自身が断ってしまったことだと考えます。」

 畳みかける様な調子で、エディが続けた。

「私の話を聞いて、少しでも興味を持たれたのであれば、連絡をください。我々はいつでも、貴方をお待ちしております。」

 そう言うと、エディとダニエルは自分達の連絡先を記した名刺をチェザーレに渡した。

「……僕の仲間っていうのは、どんな連中なんだ?」

 エディ達の去り際、チェザーレは逡巡しながらも、どうしても聞いておきたかった質問を彼等にぶつけた。

「一言では説明できません。貴方自身の目で見、肌で感じた方が確実です。」

「See you again.」

 エディとダニエルの返答は、明らかに自分達の望む方向へ誘導するようなものであったが、チェザーレの心は既に、この時にはもう決まっていた。

 彼等の誘いに乗るべきである、と。

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