第32話 パンデモニウム⑩

 先を進む透とペーターの背を見ながら、チェザーレは生まれて初めて暗澹とした敗北感を抱いていた。

 チェザーレ・フォルア。彼は先天的な下半身不随をもって生まれたが、彼の家庭環境は、少なくともその他の一般的な家庭と比べれば恵まれたものであった。プロスポーツ選手の父と、実業家の母。広い屋敷のような邸宅には、庭だけでなく、プールやテニスコートまで併設されており、使用人も常時10人以上が控えていた。良く言えば上流階級、悪く言えば成金趣味。そんな家庭にチェザーレは生まれた。

 チェザーレが障害を持って生まれた時も、両親は決して悲観することはなかった。国内外の様々な名医の所を駆けまわり、住み込みの医師や看護師、作業療法士も雇い、邸宅内を完全なバリアフリー環境に改築した。そうやって彼の両親は、息子が安心して生きていける環境を創出することに全力を傾けた。

 そういった環境も手伝って、チェザーレは先天的障害を別とすれば、精神的にも肉体的にも全く問題無く成長していった。特に、知性の発達は目覚ましいものがあった。彼は子供用の絵本などには目もくれず、医師や看護師に、自分の身体のことについてだけでなく、あらゆる医学的知見・知識について熱心に質問した。やがて、知識をより深く理解ためには基本的な学問が必要となることを知った彼は、両親にせがんで、あらゆる学問分野の知識を貪欲に修得していった。語学、文学、史学、医学、薬学、理工学、データサイエンス、経済学から法学、社会学まで、ありとあらゆる分野の専門書を読み漁り、それだけでは飽き足らず、各分野の著名人を自宅に呼び寄せ、その教えを受けた。その姿勢は最早、貪欲というよりは強迫観念に近いものであった。チェザーレは、己のハンディキャップを無理矢理埋め合わせるかのように、この世のありとあらゆる知識を、その身に詰め込んでいった。その甲斐もあってか、僅か5歳にして、彼は諸学術分野においてPh.D相当の知識量を得るに至り、大学への飛び級の話も国内外から届くようになった。

 最初はチェザーレのこうした才能を誇らしげに思い、サポートを続けていた両親だったが、彼の学問・知識への耽溺の度が過ぎてくると、次第に息子の将来についての不安の方が大きくなっていった。チェザーレは6歳になっていたが、学校に行くことはおろか外出することも殆ど無く、一日の殆どを、実験室に改築した自室に籠って暮らすようになっていた。チェザーレは、両親にはまるで理解できないような実験を繰り返し、様々な発明品を矢継ぎ早に作り上げていった。彼が乗る高機能車椅子も、市販品ではなく、彼自身が設計し、組み立てさせたものであった。昼となく夜となく自室に籠り、怪しげな実験を繰り返す息子の生活態度に我慢がならなくなった両親は、ついにチェザーレの人生の矯正に乗り出した。

 彼等は、学校は勉強だけでなく、友達を作ったり、社会性を学んだりする役割もあること、人間は家の中に籠りきりでは精神、肉体の両面で悪影響が大きいことなどを話し、やんわりとチェザーレを諭してみた。だが彼は、そんな両親の箴言を聞き入れることはなかった。それはある意味では当然のことであった。彼にとって、知識の吸収と実践こそが自分の人生そのものであり、友人やら社会性やら自分の健康などは、はなから興味の埒外であったからだ。

 両親のうち、特に父親の方は、何とかして息子を「普通の子供」として育てようと躍起になった。幼少期からスポーツマンとして生きてきた彼は、如何に先天的な障害があるとはいえ、引きこもりの様な生活を続ける息子が我慢ならなかったのだ。

 父親は、チェザーレを車椅子に乗せたまま、半ば無理矢理外に連れ出し、散策と称して街の中や庭園を連れ歩いたり、自分と妻がスポーツを行う様子などを見学させた。チェザーレは露骨に嫌そうな顔をしたが、その頃はまだ彼にも両親に対する愛情はあったし、何より自分の生活が両親により支えられていることは、彼自身が一番よく理解していたので、半ば呆れ顔ながら、父親に強引な誘いに従った。だが当然、そんな行動は自分自身の意思によるものではないので、彼は何の感情も動かされなかったし、生活態度を改めるきっかけにもならなかった。

 両親は必死に、息子に「普通の子供」としての人生を歩ませようとした。家族一緒に旅行に出かけ、食事を楽しみ、一緒に野原や浜辺を散策したり、美しい自然の風景を楽しんだりした。厳密に言えば、両親だけが楽しんでチェザーレはひたすら冷めていた。自閉症の子供たちが参加する社会復帰プログラムにチェザーレを参加させたこともあった。だが、彼は社会心理学の見地からプログラムの不備を次々と指摘し、講師を無能呼ばわりして逆に追い出してしまった(余談だが、当該プログラムに参加していた他の子供達もその内容には不満を持っている者が多かったらしく、チェザーレの態度を称賛する者が殆どだったという)。

 こうして、両親の息子を矯正しようという試みはことごとく失敗した。だが、それは当然であると言えた。彼等は自分自身の常識にとらわれるあまり、「ただひたすら知識の吸収に人生を捧げたい」という息子の意思を無視し続けたからである。そして、そんなことを繰り返す度に、チェザーレの心はより頑なになっていった。

 親子の断絶が決定的になったのは、チェザーレが7歳の時であった。

 その日、父親はチェザーレにテニスをしよう、と持ち掛けた。無論、父親は本気で息子とテニスの試合がしたかったわけではない。ただ、テニスの真似事をして、息子と遊びたかっただけであった。チェザーレが自作した車椅子は、その頃には単純な人体の動作程度であれば問題なく再現できるくらいまで高性能化していたため、ただボールを打って、打ち返すくらいならばできるであろう、と父親は考えたのだ。

 チェザーレは、父親の申し出に対し、珍しく素直に従った。ただし彼は、父親に対してこう条件を付けた。「本気で試合をしよう。僕が勝ったら、もう二度と僕のやることに口出ししないで」と。

 父親は笑って了承した。息子も冗談を言えるようになったのか、と考える余裕すらあった。自分はトップアスリート、相手は半身不随の子供。侮るなという方が無理からぬことであった。

 母親が見守る中、ゲームが始まった。開始と同時に、父親の余裕はすぐに消えていった。最初、彼は遊びのつもりで軽くボールを打った。チェザーレは車椅子を巧みに操り、そのボールを難なく打ち返した。打ち返されたボールはコートのラインぎりぎりに落ち、早くも彼は1ポイントを獲得した。父親は大人げないとは思いながらも、半分本気でボールを打ったが、チェザーレはそれも難なく打ち返し、またしても1ポイントを獲得した。その後の展開も、ほぼ一方的であった、父親がどんなに強くボールを打ち返しても、ラインぎりぎりにボールを打っても、チェザーレはまるで彼の行動を先読みしているかのように、悠然とそえに対処し、父親とのポイント差はほぼ一方的に開いていった。

 結局、父親は息子から1ポイントも奪うことが出来ず、惨敗した。

「約束だよ、お父さん。」

 顔面蒼白で立ち尽くす父親に対し、チェザーレは冷然と言った。

「これで分かったでしょ? お父さんやお母さんの常識なんて何の意味も無い。現に僕に負けたじゃないか。」

「いや、それは……」

 見下すような口調のチェザーレに対し、父親は有効な反論も何も思いつかず、口籠った。アスリートである彼にとって、試合の結果は絶対であった。敗北は敗北。敗北した後で何を言い訳したところで、負け犬の遠吠えでしかない。常日頃からそんな考え方であった父親は、こんな状況では何も言い返せなかったのだ。

「お父さんの動きの癖や運動能力の限界みたいなものは、何度も見せられていたから手に取るように分かる。左足を怪我していて、左右の動きに若干のムラがあること。お父さんは隠しているつもりかもしれないけど、靭帯断裂の後遺症がまだ残っていて、利き腕の動きに衰えが出始めていることも、僕にはお見通しだ。子供なら勝てると思った? 脚の動かない相手なら勝てると思った? 残念だけど、僕はお父さんほど単純じゃない。スポーツはもう止めた方がいいんじゃない?」

 見透かしたように、チェザーレが得意げに言った。

 その言葉を聞いた父親の表情が、変わった。それはもう、息子に向けられる顔ではなかった。

「約束は守ってもらうよ。お父さ……」

 そう言ってチェザーレが車椅子を父親の方に動かそうとした刹那、父親はコート全体が震えるような怒鳴り声を張り上げた。

「黙れっ! 何が約束だ! 子供のくせに、大人をからかうような真似をして! ふざけたことを言うな!」

 滅茶苦茶な言いがかりであったが、その時の父親には、冷静な対応など不可能な状態であった。

「大声を張り上げて誤魔化そうっていうのかい? 最初に誘ったのは父さんだろ?」

 露骨に軽蔑の視線を向けたチェザーレの頬を、父親は強かに打ち付けた。

「黙れっ!」

 すぐさま母親が駆け寄り「止めてください!」と父子を引き離したが、彼女の非難の視線は、むしろ息子の方に注がれていた。

「チェザーレ、お父さんに謝りなさい。」

「はぁ?」

 暴力を振るわれた自分の方ではなく、父親の方を庇うかのような母親の発言に、チェザーレは心底呆れたような目を向けた。

「お父さんはただ貴方と遊びたかっただけなの。変なことを言ってお父さんを怒らせないで!」

 自分を非難する母親の言葉を聞き、嫌悪感も露に自分を見るその表情を見た時、チェザーレは両親に対して抱いていた不信感が、心の中で確固たるものになっていくのを感じた。結局、母親もまた父親と同じ側の人間であったのだ。自分を理解しないどころか、無理矢理その人生を捻じ曲げようとする人間なのだ。

 彼の心の中に、絶望よりも底深い何かが生まれたのは、その時であった。

「……分かったよ。変なこと言ってごめん。」

 形ばかりの謝罪をすると、チェザーレは車椅子の向きを変え、家の方に戻っていった。

 背後では、憤懣やるかたない父親が母親に対し何か言っていたが、もうチェザーレの耳に、彼等の言葉は届いていなかった。

 チェザーレは、両親の存在について、完全に損得勘定でしか考えなくなっていた。彼は、自分にとって両親が、経済面・金銭面で生活を支えてくれるだけの存在に過ぎないという事実に気付いた。逆に言えば、その点さえ保証されるのであれば、彼等の存在は彼にとって全く不要なものなのだ。

 チェザーレの心に、恐ろしい「計画」が浮かんだ。だが彼は、その「計画」について罪の意識などは皆無であった。躊躇う気持ちも無かった。彼にとってその「計画」は、常日頃行っている遊び――実験や研究の一環に過ぎなかったからである。

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