第28話 パンデモニウム⑥

「こちらの部屋からは特に質問や疑義等はありませんでしたが、特に確認したいことは何も無い、ということでよろしかったでしょうか。」

 淡々とした口調で、エディが画面の向こうから語りかけてきた。亜唯は、深淵の如き暗さを湛えた瞳で、彼女を睨みつけた。

「一つ質問をいいか? 先程君は我々を選別する、と言ったが、選別されなかった者、ドロップアウトした者はどういう扱いになるんだ?」

「最後の4人が選別されるまで生き残れた方々については、然るべき処置を施した後、正規の療養施設に入所していただくことになります。」

 イアンの質問に対し、エディは極めて簡潔な答えを返した。「然るべき処置」という言葉が少し気になったが、イアンも亜唯も今はその点については無視することとした。二人とも、棄権するつもりなど毛頭なかったからだ。

「と、いうことだそうだ、ハンス。我々はここを出るが、君も生き残りたいのであれば気を付けたまえ。この施設内には生き残るため、君の命を狙う者も沢山いる筈だからな。」

「お、おどかさないでくれ! 恐怖心が大きくなると、ま、また影が、影が私の心を……」

 イアンの言葉に恐怖を抱いたのか、ハンスは頭を抱えて身体を石のように丸めてしまった。

「ああ、すまない。だが事実だ。先程のエディの言葉通りなら、この施設は我々のような怪人の巣な訳だからね。」

 謝罪しているようで、イアンの発言は明らかにハンスの恐怖を煽るものであった。

 そんな彼等の様子を画面越しに見ながら、エディはふと、画面の隅で亜唯が自分を睨みつけていることに気付いた。

「お久しぶりです、景村さん。」

「久しぶりじゃねーよ、能面女。」

 全く悪びれもせず挨拶するエディに対し、亜唯は毒を吐いた。

「言っとくけど私は降りるつもりなんて無いから。日本の病院でアンタとペーターから受けた屈辱は忘れてない! ここから出たら、真っ先にアンタの面の皮を引き剥がしてやる!」

 闇黒の淵を思わせる瞳で睨みつけながら暴言を吐き散らす亜唯に対し、エディは画面の向こうで微笑を返した。

「私も楽しみにしております。」

 亜唯は鼻を鳴らすと、モニターに背を向けた。これ以上目の前の女と話していても感情の無駄であると悟ったためである。

 そんな亜唯の様子を見て、イアンはひゅうと口笛を吹いた。

「成程。それも君の「貌」の一つと言う訳か。」

 じろり、と亜唯の瞳がイアンの方を向く。彼は、彼女の瞳の奥に宿る深淵と、臆することなく向き合っていた。

「さあ? どうかしらね。」

 煙に巻く様にそう言うと、亜唯は思い出したように言葉を続けた。

「こんな所で無駄話をしていても仕方がない。すぐに出ましょう。」

 亜唯の言葉に、イアンも頷いた。ハンスは隅で震えたまま、彼等の方を見ようともしなかった。

「それでは、ご健闘をお祈りいたします。」

 エディがそう言うと同時に、モニターの電源がシャットダウンした。

「さて、出るとは言ってみたものの……」

 そう言うと亜唯は、ホールの中をぐるりと見回した。そう、このホールには出入口も無ければ、窓すらも無い。出ていく場所が、どこも無いのだ。だがそれは、考えてみれば明かにおかしなことであった。出入口が無いのであれば、一体どこから亜唯達を搬入したというのだろうか。

「いや、出口ならばある。」

 まるで亜唯の心を読んだかのように、イアンがそう言うと、正面の巨大モニターを指さした。

「あー、成程。」

 亜唯は得心したようにそう言った。そう。扉も窓も無いこの空間で、外部に通じている可能性があるのは「そこ」しか無かった。

 亜唯は壁に埋め込まれた、人の背丈ほどもあるモニターに近づくと、物は試しと、思い切り押してみた。何ということはなかった。彼女が少し力を入れるだけで、モニターは回転扉のように中心を軸に回転し、奥に続く通路が現れた。

「よし、これで進める。」

 通路に一歩踏み出そうとした亜唯を、イアンが手で制すと、ホール全体に響くような大声で言った。

「進む前にハッキリとさせておきたい。この状況においても我々の前に姿を現さず、声すらかけないということは、君は我々に敵対する方針を選択した、ということでいいな?」

 亜唯は、彼が一体何を言っているのか全く分からなかった。ハンスもまた、彼の言葉の意図が分からず、怪訝そうな目を向けた。

 広いホールにイアンの声が反響し、やがて静かに消えた。

「よろしい。沈黙は、肯定と受け取らせてもらう。」

 そう言うと同時に、イアンはネクタイピンを取り外しホールの片隅に向けると、それを指で弾いた。

 キン、という鋭い音と共に、何かが射出されるような音を、亜唯とハンスは聞いた気がした。

「ぎゃ」

 突然、何もない空間から悲鳴が上がり、何かが倒れ込むような音が響いた。声のした方向に目を凝らした亜唯は、奇妙なものを目にした。ホールの片隅、ちょうど人間の悲鳴のような声が聞こえた辺りの風景が、奇妙に歪んでいた。しかもその歪みは、まるで芋虫がのたうつ様に蠢いていた。

「あれは……」

「このホールに収容されていた4人目の怪人さ。見ての通りの透明人間。正確に言えば、光学迷彩機能を持つ戦闘服を着込んでいるんだ。背面のカメラで捉えた映像を前面に投影することで、特にジャングルや暗がりにおいてはほぼ完璧な迷彩性能を発揮する。2000年代初頭に軍事目的で開発されて、採算が取れないことから実用化が見送られていたやつだな。」

 イアンが解説しているうちに、亜唯もまた、その透明人間の姿をうっすらとであるが認識できるようになっていた。確かに言われなければ気付けない程、周囲の風景に溶け込んでいるが、完全に不可視化している訳ではない。一度その姿を認識できれば、明確な違和感として視覚認識可能であった。

「無論、あくまで「迷彩」だ。完全に透明化している訳ではないし、まして気配を消せるわけじゃない。君がいることは、最初から気付いていたよ。」

 そう言うと、イアンは再びネクタイピンを透明人間に向けて弾いた。それは、ネクタイピンに偽装した極小細針銃ミニチュアニードルガンであった。発射された極小針は、透明人間の急所を次々と刺し貫いていった。やがて、悲鳴と共に透明人間がその姿を現した。真っ黒な戦闘服に身を包んだ、軍人風の男性であった。針に全身を貫通されたことで、迷彩機能そのものが破壊されるか、不具合を起こしたのであろう。

 男は、最後の力を振り絞って床を蹴ると、一直線にハンスの方に向かった。

「ひいっ!」

 彼が悲鳴を上げるよりも早く、男はハンスの背後に回り込み、その喉元にナイフを突きつけた。軍人を思わせる迅速な行動であった。

「Freeze!」

 男が、張り裂ける様な声で叫ぶ。その可能性は低いと感じながらも、ハンスを人質にとることで、何とかイアンの動きを封じたいという意図が感じられた。

「残念ながら、ハンスは脱落を選択したんだ。人質とはなりえない。」

 冷酷にそう告げると、イアンは細針銃の引き金に指をかけた。

「待って。」

 今度は亜唯が、イアンを制した。

「どうかしたのか?」

「ハンスの出方を見たい。」

「ほう?」

 亜唯の言葉に、彼女の何らかの意図を感じ取ったのか、イアンは引き金から指を外した。

「シュタイナー先生!」

 亜唯は、囚われの身となっているハンスに向かって叫んだ。

「貴方の中には凶悪な「影」がいるんですよね? それを見せてください。」

 彼女の言葉に、ハンスは顔面蒼白となり、脇目も振らずに泣き叫んだ。

「き、君はなんてことを! 駄目だ! アイツを、「影」を呼んでは駄目なんだ! アイツは、本当に、本当に恐ろしい……」

「そのままだと殺されてしまいますよ、先生。」

 亜唯は、諭すような口調でハンスに語りかけた。イアンは高みの見物を決め込んでいた。

 軍人風の男は、彼等の会話に困惑し、訳が分からない様子でナイフをハンスの喉元に押し付けた。

「貴方の言うその「影」が、本当にそんな邪悪なものであるのであれば、今がその使い時だと思います。大丈夫。相手は殺しても構わないような男です。」

「き、君ねぇ……」

 彼女の言葉に、次第にハンスの表情が変わってきた。最初、彼は何かに驚いた様に目を見開いた。そして、その表情のまま凍り付いた様に硬直し、次第に顔色が土気色を帯びていった。

「……?」

 軍人風の男は、まるで死んだように硬直するハンスの変化に戸惑い、一瞬、拘束を緩めてしまった。

 次の瞬間、男の身体は宙を舞い、空中で一回転して数m先の床に叩きつけられた。ハンスが、男の襟首を掴み、片手で投げ飛ばしたのだ。

「……!」

 男が体勢を立て直すよりも早く、ハンスが男に飛び掛かり、仰向けに押し倒した。ハンスは、獣の様な咆哮を上げると、男の顔面に食らいついた。

「あれが「影」?」

「そういうことらしいね。」

 遠巻きに見守る亜唯達の前で、ハンスは男の顔面を食っていた。比喩ではない。本当に顔面を噛み砕き、咀嚼し、その血肉を啜っていた。男は、悲鳴を上げることすら出来ず、既に事切れているようだった。

 その様子を見ながら、亜唯とイアンは半ば呆れたように会話していた。お互いに対する警戒は、僅かばかりだが、緩和されていた。

「影っていうより、ただの獣だね。」

「凡庸な解釈だが、彼自身の抑圧された破壊衝動、破滅衝動が、発作的にああいった形で現れてしまう、といったところかな。」

 やがてハンスは、食らいついていた男の顔面から蛇の様に頭をもたげ、ゆっくりとイアン達の方を見た。血塗れにも関わらず、その顔はまるでミイラの如く黒ずんで見えた。顔色だけではない。眼窩も、鉤鼻も、癋見面の様に歪んだ口元も、人ならざる怪物そのものの姿であった。

「余計なことしちゃったかも。」

 とぼけるような口調で、亜唯が言う。無論、彼女はとぼけるつもりなど毛頭無い。ハンスをけしかけたのは、彼の言っていた「影」が如何なるものか見極めたかったからだ。純粋な興味も勿論あったが、それ以上に、彼をこの場に捨ておいていい存在なのか、それを彼女は見極めたかったのだ。

「いや、これでハンスがどんな怪人なのか分かった。それも収穫の一つだ。」

 そう言いながら、イアンはいつ飛び掛かられてもいいように、戦闘態勢を取った。

 怪物と化したハンスは、蝙蝠の様な顔で、じっと二人を睨みつけていた。そして、喉元を抑える様にして呻くと、そのまま地面に転がった。

 亜唯とイアンは、警戒を解かず、距離を取ってじっとその様子を窺った。

「う、あ……。」

 地面に転がりながら呻いていたハンスは、次第に元の表情へと戻っていった。やがて、完全に元の顔に戻った彼は、自身の顔を汚す鮮血に悲鳴を上げると、再びホールの隅に逃げ込み、そこに蹲った。

「やれやれ。すんでの所で自分を取り戻したか。」

 ふう、と安堵の溜息をつくと、イアンは戦闘態勢を解いた。

「さて、これで2人脱落だ。我々も先を急ぐとしよう。」

 先に進むことを促すイアンに対し、亜唯は「少し待って」と言うと、隅にいるハンスの方に駆けて行った。

「き、君……」

 駆け寄ってきた亜唯に対し、ハンスは非難するような目を向けた。

「何とか影を抑え込むことが出来たが、一歩間違えば、君たちも危なかったんだぞ! あ、ああ、それに、人を殺してしまった……」

 ハンスはそう言うと、子供の様に泣きだした。

 亜唯は、そんな彼の前にしゃがみこんだ。

「ありがとうございます。先生のおかげで、助かりました。」

「……」

 亜唯の口から出た自分に対する謝辞に、ハンスは信じられないような目で彼女を見た。今まで彼の「影」を見て、そんな風に言ってくれる人間は皆無だったからだ。

「シュタイナー先生の力を、私達に貸してください。」

「いや、それは……」

 突然の申し出に、彼は逡巡した。「影」は、彼自身にも全く制御できない発作のようなものだからだ。先程は何とか抑え込むことが出来たが、それは殆ど偶然に近いものであった。

「……駄目だ。やっぱり同行はできない。私には、無理だ……」

「一緒に行きましょう、先生。」

 亜唯は、両手でそっとハンスの顔を包み込むと、囁くように言った。

「……」

 ハンスはゆっくり立ち上がると、亜唯に付き従う様に、覚束ない足取りでイアンと合流した。

 途中、亜唯は軍人風の男が落としたままになっていたサバイバルナイフを失敬した。この先は、どう考えても丸腰では危険過ぎることが予想された。本当は光学迷彩の方も拝借したかったが、脳漿や血糊がベッタリとこびり付いていたため、断念した。

「……約束、してくれ。」

 ハンスは、亜唯とイアンを交互に見ながら言った。

「私が完全に「影」に乗っ取られた時は、その時は、躊躇うことなく殺してくれ。」

「言われずとも、そのつもりだ。」

 何の感情も見せずに、イアンが即答した。ハンスははにかむ様に笑うと「さあ、行こう」と言って、モニターの向こうの通路に向けて歩を進めた。

「なかなかの腕前だよ、カゲ。彼をその気にさせるなんて。」

 イアンが感心した様子で亜唯に話しかけた。無論、ハンスには聞こえないように小声ではあったが。

「違うよ。脱出するには、戦力は多い方がいいと思っただけ。」

 それは理由の一つではあったが、彼女の中ではそこまで大きいものではなかった。先程見たハンスの「影」。また彼が発作を起こしてあの怪物を解き放ってしまい、それに背後から襲われでもしたらたまらない、と彼女は考えたのだ。捨て置くよりは、手元に置いておく方が、何かあった時にも対処しやすい。最悪の場合、イアンとハンスをぶつけて漁夫の利を得ようとさえ、彼女は考えていた。最も、ハンスはともかく、イアンはそこまで甘い相手ではないと彼女は踏んでいたが。

 それにしても――と亜唯は考えた。自身の暗黒面がもう一つの人格を作る、という点では、ハンスは透に非常によく似ていると言えた。だが、ハンスは「もう一人の自分」に苦しめられ、最早日常生活を送ることすら不可能なレベルまで追い詰められていた。透と闇虚の、どこか楽し気な様子とは、全く違っていた。少なくとも亜唯自身には、そう感じられた。

 透と闇虚は、今どうしているだろうか。もう一度、会うことが出来るだろうか。決して顔には出さなかったが、亜唯はここにはいない二人の友人未満に対して思いを馳せた。

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